優 し い 手   


絡む視線(3)

唯菜は一人でバスに乗って帰宅していた。
みんなご飯食べてるんだろうな。
俊介は・・・・。
家に帰ったのだろうか。それとも、引き返してみんなに合流したのかもしれない。
外は既に薄暗かった。最近は6時を過ぎるともう宵闇に包まれてしまう。唯菜は自然と出てしまった溜息に更に暗い気分に陥っていった。
遊園地を5時に出発する直通バスに乗って、駅に着いた頃はまだ西の空はオレンジ色だった。みんなが夕食を食べに行こうと相談を始めたので、唯菜は自分はこのまま帰ることを申し出た。唯菜の家の門限は7時で、夕食を外で食べて帰るのも特別な場合を除いて許されていなかった。
本当なら、母に小言を言われるのを覚悟で夕食も食べて帰ろうと思っていたが、そんな気力も失せていた。一人になりたかった。
「じゃあ、俺も帰るよ。」
俊介がそう言うと、唯菜が何も言わない内に示し合わせたように、美咲や中川達は俊介達に手を振ると、駅ビルの中へ入って行ってしまった。
俊介は、自転車を置いてるから、と言って駐輪場の方へ歩き出した。呆気にとられていた唯菜は慌ててその後を追った。
「送ってくよ。」
「え?どこに?」
「井上んち。二人乗りしようぜ。」
いやいや、無理無理、ほんといいから、と唯菜は俊介の申し出を必死になって断った。じゃ、せめてバス停まで、と言うのをさすがに断り切れずに、自転車を押しながら歩く俊介の隣を歩くことになった。どうにか普通に話をすることはできたと思う。お化け屋敷に来ればよかったのに、と言われて、経験してみてもよかったかな、と返事しながらも、俊介が本当にそう思ってくれているのか彼の言葉の裏を勘ぐってしまうのが嫌で、早く一人になって落ち着きたいと思った。
確かにあの時はそう思ったのに、今、実際に一人でバスに揺られていると、変な意地を張らずに俊介に送ってもらえばよかった、と後悔してしまう。自転車の二人乗りは見つかれば注意されてしまう恐れもあったが、それでも二人きりの時間を過ごせただろう。さすがに唯菜の家まで来てもらうのは、俊介が家に戻るのを考えると申し訳なさすぎるが、彼の家の近くのバス停までなら負担にならなかったはずだ。

それに、あの時だって、隠れずに、声をかけていたら。
俊介と美咲に何話してるの?と気軽に尋ねていたら。
もしかしたら、聞き違いだったのかもしれないのに。
唯菜は深く溜息を吐く。
・・・そんなわけないか。
過ぎ去る街灯に照らされるたびに窓に映し出されるふてくされた自分の顔を見つめながら、唯菜は遊園地で聞いてしまったことを思い出していた。

ジェットコースターのお陰で活性化されたアドレナリンで盛り上がったままで藤山と待ち合わせ場所に向かった。順番待ちで時間をとったから、たぶんお化け屋敷組は待っているに違いない、と急いで駆けつけると、思った通り、既に中川達が立っていた。
「ごめん、遅くなって。」
「いや、俺らも今来たよ。結構待ち時間あってさ。」
「そうなんだ。あれ、美咲は?」
唯菜はキョロキョロと辺りを見回した。俊介の姿もない。
「ああ、途中でトイレ行くって。」
私も行く、と場所を聞いてそこを離れた。本当はそれほどトイレに行きたかった訳でもない。衝動的に行かなければ、と思った。漠然と俊介と美咲、二人の姿がなかったことに、違和感を感じたのかもしれない。
途中で立っている標識の矢印を確認しながら、聞いた方向へと歩いていくとトイレはすぐに見つかった。女子トイレに入ると数人の順番を待つ列ができていた。唯菜は最後尾に並んで、中を覗きこむ。洗面台の前に立つ人達の中にも美咲の姿はなかった。個室に入っているのかもしれない、と思いそのまま待っていたが、結局唯菜の番が来るまで美咲が出てくることはなかった。
用を済ませて手を洗いながら、意外に広いトイレ内を見渡した。順番を待つ人の中に美咲はいない。どこに行ったのだろう。
ハンカチで濡れた手を拭いながら外に出た。途端に風が吹き付ける。
すれ違ったのかもしれない。
そんな希望的観測でそれ以上の詮索を止めるように自分を納得させつつ、通路へと足を踏み出そうとした時だった。トイレの入口を隠すように植えられた生け垣の向こうから、美咲の声がした。ちょうどそちらに背を向けていた唯菜は声のした方を振り向いた。一年中葉を落とすことのない生け垣のすぐ向こうに二つの頭が見えた。生け垣の木はきれいに高さを揃えられていて、唯菜の身長より少し高かった。その木の厚く濃い葉っぱが重なり合う向こうに高さの違う頭が少し離れて並んでいる。一つは頭部の先っぽだけ。もう一つはそれより高くて耳が少し見えている。
俊介・・・・?
「好きなんだよ!」
言い捨てるような美咲の声に、唯菜の足は動かなくなっていた。
「そんなこと言うなよ。」
呆然と見上げる唯菜の視線の先で、後頭部が俯くのが見える。
やっぱり、俊介だ。
「そんなこと言われても・・・俺も困るってゆうか。」
俊介の声はいつものような軽いものではなかった。
「・・・どうしようもねーし。」
唯菜の耳は呟くようにこぼれた俊介の言葉も拾っていた。心臓が必要以上に活動しているのが分かる。唯菜は突っ立ったまま、全く動けずにいた。
「もう行こうぜ。」
美咲は何も返さなかったが、俊介の頭部が横顔になった。反射的に唯菜はトイレに戻っていた。壁に隠れるようにして生け垣の影から現れた美咲と俊介がトイレの前を通り過ぎていくのを見た。
どうしよう。
遠ざかる後ろ姿を追うように、唯菜はトイレから出ようとして、入ってくる人と肩が触れた。
慌てて謝りながら、急いで外に飛び出した。美咲と俊介は、まるで関係のない人のように、互いに距離をあけたまま歩いていく。他の通行人に紛れながらも、背の高い二人の後ろ姿が小さくなっていくのがいつまでも確認できた。

いっけない、押すの忘れてた。
唯菜が我に返ったとき、バスはいつも使っているバス停の前を過ぎ去った後だった。見慣れた風景が遠ざかっていく。慌てて、降車ボタンを押して、唯菜はまた溜息を吐いた。
こんな気分で帰ってくることになるなんて。
朝には思いもしなかった。この服はおかしくないか、初めて付けるグロスが滲んでいないか、髪は跳ねていないか、そんなことを気にしながら、ドキドキと期待しながらバスに揺られていた。
小学校の遠足のただ漫然とわくわくする期待感ともまた違う、ちょっと切ないような、たまらない心地。
好きな人と休日を過ごせる。二人きりではないけど。
でも次は二人で来ようね、ってこっそり約束したりとか、できたらいいなあ。
朝は、ふわふわした想像をしている内に、待ち合わせの駅へすぐに着いてしまった。 今も、目標のバス停で降り損ねてしまうほど、ある意味あっという間だったのだが、その心持ちは全く違っていた。胸の底に溜まった物がつかえて息苦しい。
携帯電話を教室に取りに帰った放課後を思い出す。
あのときの違和感と疑惑。
美咲が俊介を好き。
未だに信じられない気持ちでいっぱいだったが、そこに居合わせたのだ。佐藤の時のように誰かから聞いた話というのではなく、目の前で起こった現実。
唯菜はバスを降りて行き過ぎてしまった道のりを戻る。幹線道路から市道に入ると、すぐに住宅が建ち並ぶ町並みになった。唯菜の住む高層マンションがライトアップされて浮かび上がっているのを見上げた。
私、どうすればいいんだろう。
衝撃的な場面を認識するのに精一杯だったのが、徐々に受け入れるしかなくなり、そして先のことへの不安を生じさせる。
信じている人と信じたい人に裏切られた。
そう考えることは唯菜を滅多打ちにした。バスを乗り越してしまったせいで門限を少し過ぎてしまったが、もう走る気にもなれかった。朝から出かけた唯菜が門限を破れば、母の機嫌を損ねることは間違いない。何もかもにうんざりしたように唯菜はブーツを引きずってマンションに向かって歩く。まだ買って間もないブーツは1日中歩き回ったせいで靴先が黒く汚れてしまっているのが街灯のオレンジの光に照らされる。唯菜は盛大に溜息をこぼした。

翌朝、唯菜は学校の階段を力なく昇っていた。一段一段、足を上げるのも億劫だった。よく眠れなかったせいで頭痛がひどいし、ずっと胸がつかえたようで息苦しかった。
昨日のことをなかったことにしてしまえればいいのに、といつになく重く感じる鞄を持ち直した。どんなにゆっくり歩いても教室は近づいてくる。一晩思い悩んで出した唯菜の結論は、様子を見よう、というものだった。
つまり何もしない、ということ。
自分は美咲達の話を途中からしか聞いていない。もしかしたら、何かの勘違いなのかもしれないじゃないか。
それは現実から目を逸らせるだけの希望的観測に過ぎなかったが、唯菜はどうしても美咲が俊介のことを好きだとは思いたくなかった。
だって、いったいいつから?
そんなの、全然気付かなかった・・・・。
今まで美咲の気持ちに全く気付かなかった自分を呪いたくなった。
私が美咲に打ち明ける前から?
もしそうなら、唯菜は自覚なしに彼女の気持ちを封印させるような原因を作ってしまったことになる。
「はよ!」
階段を上り切ったところで後ろから声をかけられた。
「お、はよ。」
屈託なく笑う俊介に、唯菜はこわばった笑みを返した。目を見ることはできずにすぐに前を向く。予鈴は鳴っていなかったが、寒くなってきたせいか廊下でいる生徒は少なかった。登校してきた生徒もみな足早に教室に入っていく。唯一トイレの入り口あたりには女生徒が固まって明るい笑い声を立てていた。
「昨日、ごめんね。」
「え?」
「帰り、俊介まで道連れにしちゃって。」
「ああ、別に。俺も見たいテレビあったし。」
そうだったんだ、と頷きながら、それは事実とは違うんだろうと思った。唯菜に大して恩着せがましくならないように配慮した、嘘とも言えないような、他愛のない言い訳に過ぎない。
昨夜、俊介は門限に間に合ったか心配してメールをくれた。彼の自分を気遣ってくれている様子は唯菜の気持ちを引き立てたが、昨日抱えてしまった疑惑が解消された訳ではなかった。
何か隠されている。
でもそれは自分を思いやってのことなのかもしれない。例えばさっき、唯菜と一緒に帰ったのは自分がテレビを見たかったからだと言ったように。
二人はそのまま並んで教室に入った。ちょうど入り口の正面の窓際で中川達と話をしていた美咲がこちらを見ておはよう、と朗らかに声をかけた。美咲の笑顔に陰りは感じられない。中途半端に口を緩めるしかできない自分の方がずっと引きつって見えるかもしれない。
やっぱり昨日のあれは聞き間違いなんじゃないだろうか。
昨日、参加できなかった奈津美達に、いかにジェットコースターが怖かったかを説明していた美咲が俊介に同意を求めた。
「マジでもう勘弁ってかんじだな。」
「でしょ?」
目の前で俊介と美咲が頷き合っている。二人のその仕草は話の流れからも不自然ではなかったのに、唯菜の中に重いものが溜まっていく。
「えーでも、唯菜は2回乗ったんでしょ?」
奈津美に尋ねられて、唯菜は笑ってそうだよ、と返事した。唯菜は別格だって、と美咲に言われたのに苦笑しながら、何よそれ、と切り返したが、本当は自分と美咲の間にちょうど俊介が立っていることに何か意味があるんじゃないかと邪推するのを止められない。
唯菜は自分の顔にねつ造された笑顔が張り付けられていくのを感じた。

<2010.8.8>