優 し い 手   


そこに秘められた想い(1)

美咲と唯菜は別の中学だった。高校1年生で同じクラスになり、入学式の1ヶ月後にある宿泊研修でお互いに気が合うことを知った。それから2年間、クラスメートとして少しずつ距離を縮めて、今では学校では一番仲のいい友達と言えるのではないかと唯菜は思っていた。
でもそれは私だけだったのかもしれない。
中学の時に友人との確執を解消できないまま逃げるように卒業してしまった自分は、やっぱり高校生になっても同じことを繰り返してしまうのかもしれない。
あの時も、それまでずっと仲がいいと思っていた友人が離れていった。その原因はよく分からないままだった。理由のようなものをたまたま聞いてしまったが、今更なぜそんなことで自分が切り捨てられたのか納得できなかった。でも、それを伝える術も関係を修復する術も持たなかった。
私って実は鈍感なのかもしれない。
だから、今度も美咲の気持ちにずっと気付けなかった。その兆候すら感じずにいた。

「3学期ってテストばっかじゃん。」
美咲が朝のHRで配られた通知をひらひらとさせた。
「この模試って全員受験するのかな?希望者だけ?」
「こっちの○が付いてるのは全員って言ってたよ。」
奈津美の問いかけに、唯菜は美咲が机に置いた通知を指さした。
「3学期は9回もテストかあ。なんかこういうの先に見せられて来週の期末やる気になれんよね。」
「いえてる。」
進路関係の通知と一緒に配られた期末試験の時間割を前に美咲はげんなりした表情をしていた。
期末試験の時間割は試験1週間前に発表される。
そこからは試験終了まで原則として部活は休みだ。試験や進路よりも今日から俊介の部活がないことの方が唯菜には気懸かりだった。中間の試験期間は毎日一緒に帰宅していた。
今回はどうするんだろう?
遊園地に行ってからはまだ一度も二人で会ったことがなかった。夜の定期メールだけが唯菜の頼りの綱だったが、昨日のメールでは試験中の放課後をどうするか、俊介は触れなかった。今日から部活が休みになることは分かっていたが、唯菜の方から一緒に帰ろうとは言い出せない。
最初の頃のように、自分からの行動は控えようと決めていた。俊介の負担になってはいけない、と思う。それに、彼から誘ってくれる間はまだ付き合っていると確信できる。自分から言い出して断られたら、そこにきちんとした理由があったとしても、唯菜は別のことで不安になってしまうだろうことを自分で分かっていた。
気が進まなそうにプリント類を片づけた美咲は、机に頬杖を付いた。ちょうど彼女の睫毛が唯菜の視線の先にあった。塗られたマスカラは自然で、彼女の切れ長で大きな目を綺麗に縁取っている。
「そういやさあ、美咲って、前の彼氏と別れてから結構なるよね。」
テストの話でだらけていた奈津美がついと顔を上げた。
「うーん?そうかなー。」
美咲は相変わらず机の上に上体を凭れさせたまま、目線だけを上げた。
「そうだよー。前のと別れたのって夏だっけ?」
唯菜は言葉を挟めずに美咲の無関心そうな顔を窺った。
それぞれのパーツがくっきりとした美人顔の彼女は学年でも目立つ部類の外見だった。メイクも嫌みにならない程度に上手にしていたし、気さくな態度で若干気が強めに見られやすい彼女は、上級生の男性に告白されたこともあるが、それらを受け入れることはなく、いつも大学生や社会人の男子と付き合っていた。それがしっくりくるというか、無理をしている風でないところにも、唯菜は憧憬の念を抱かずにはいられなかった。俊介だけをずっと好きでいる自分とは違って、常に彼氏がいる美咲。
そんな美咲が夏休みに大学生の彼氏と別れてから、そういう話題を口にしていない。俊介と付き合うことに右往左往していた唯菜は、遊園地に行くまではそれほど気にしていなかった。美咲だってそういう時期もあるだろう、くらいにしか意識していなかったのに、奈津美の持ち出した話題に唯菜は妙にドキドキしていた。
「いいと思う人いないの?」
「いないね。」
美咲の即答に、唯菜は咄嗟に突っ込んでしまう。
「そうなの?案外近くにいたりして。」
唯菜の言葉に美咲がぎょっとしてこちらを見た。
「まさか。」
しかし、一瞬で美咲はいつものニヒルな笑いを浮かべた。
「あー出会いほしいねえ。」
美咲は体を起こして伸び上がった。唯菜も合わせて笑っていたが、机に置いた指が震えてしまうのを止められなかった。
美咲は恋愛話について隠さない。聞けばいろいろ教えてくれたし、何かあればすぐに報告してくれる。それが始まりだろうと別れだろうとケンカだろうと、美咲は秘密にすることがなかった。でもそれは相手が校外の、唯菜達の全く見知らぬ人だったからで、もし相手が同じ学校のクラスメートであったりするならば。
しかも唯菜の好きな人だったりしたら。
絶対に秘密にするだろう。自分が美咲であったなら、そうする。
もしその秘密が暴露されたら、たぶん自分と美咲は今のままじゃいられない。
奈津美の彼氏の話をニヤニヤと聞いている美咲の顔を、唯菜は彼女と同じような笑顔を作ったまま、ぼんやり見ていた。

唯菜もしっかりしているタイプと言えたが、美咲はそんな唯菜がつい甘えてしまうような女子だった。特に恋愛面においては、事がある前から色々と悩んでいる唯菜を呆れながらも、適切なアドバイスをくれたり、発破をかけたりしてくれた。
俊介への片想いを初めて打ち明けた相手は美咲だった。
それも高校2年で俊介と同じクラスになってからだ。
中学3年生で芽生えたクラスメートに対する気持ちとしては少し甘いという程度だったものは、高校に入って別のクラスに離れてしまい、遠くから見ているだけになると、次第に片想いとして純化されていった。話しかけることも儘ならず、消極的過ぎると自覚のあった唯菜は、中学生の頃から彼氏がいたという美咲に、抱えた気持ちを知らせることもできずにいた。
しかし、2年に上がって俊介とも同じクラスになり、中学で同じテニス部だった奈津美や男子も加えて皆で仲間っぽい付き合いだできるようになってからは、黙っていることはまるで美咲に対して隠し事をしているかのように思えて、唯菜は思い切って打ち明けた。
今でも覚えている。1学期の中間テストの最終日、昼食を駅前のファーストフードで食べた後の騒がしい店内だった。実は俊介の事が好き、と告げた唯菜を、え、まじ?と驚いて美咲は大きな目を更に見開いていた。
気付かなかったあ、でもお似合いだよ、を何度も繰り返す美咲に、ひたすら照れ臭さで顔が赤くなるのを唯菜は止められなかった。
あの時の美咲の呆気にとられた顔、そしてその後の笑顔。
「ゆいの恋バナが聞けるなんて、めっちゃ嬉しい!」
唯菜と俊介の関係にやきもきしてくっつけようと画策してくれた美咲。唯菜が大袈裟なのはダメと止めたので、あからさまではなかったが、皆で遊びに行く計画を立てたり、二人きりになれるように調整してくれたり尽力してくれた。お陰でまるで『冗談』のようだったが、俊介と付き合うことができた。
美咲がいなかったら、俊介の彼女にはなれなかったかもしれない。
それほど頼りにしていた美咲が、実は唯菜と同じ人を好きだった。
聞いたときは信じられなかったが、今はあり得るのかもしれない、と思う。だからといって、美咲との関係も俊介との関係も変えられるものではなかった。
俊介と美咲の態度は以前と全く変わりない。遊園地に遊びに行った日を境に変わったのは唯菜の意識だけだ。美咲はあくまでも俊介を唯菜の彼氏として扱う。
たぶん美咲は唯菜のためにその気持ちを封じるつもりなのだろう。それを知らないふりをするのは彼女に申し訳ないような気もしたが、だが、知っていると告げたところでどうなるだろう。
どうにもできない。
俊介が美咲の気持ちを知った上でも自分と付き合ってくれるというのなら、それを退けてまで美咲に遠慮するのは違うような気がしていた。言い訳かもしれない。でも・・・。
ごめんね、美咲。
決して口にはできない言葉を心の中だけで呟いて、唯菜は自分の選択を正しいのだと思いこもうとした。
美咲との友達関係と、俊介との付き合いの両方を取ろうとするなんて、ずるいのかもしれないと思う部分もあったが、でも、自分にそれ以外の選択はできないと分かっていた。

「ゆい?」
すれ違いざまに突然腕を掴まれ、唯菜は驚いて顔を向けた。
「やっぱり、ゆいだ。」
「ゆうちゃん・・・。」
記憶にあるより幾分大人びた顔がそこにあった。
「久しぶりー。卒業式以来だね。」
「うん・・・。」
本当に嬉しそうにしている目の前の女生徒に、唯菜は圧倒されていた。目の縁を鮮やかに描くアイラインやつやつやした唇が彼女を大人っぽく見せていたが、笑った時に目が線になるほどくしゃりと崩すその顔は昔のままだった。
この笑顔が卒業間近には自分に向けられることがなかったことを思い出すと、どうしても返す表情がぎこちなくなってしまうのを感じたが、ゆうちゃんこと悠里はそんな唯菜の躊躇いに気付いていない様子で、声を潜めて唯菜に囁いた。
「彼氏?」
唯菜の隣でそっぽを向いている俊介の方に顔を傾けるようにして指す。試験期間の2日目、部活が休みの俊介に頼まれて市内で一番大きい駅ビルに来ていた。
「う、うん。」
俊介とも3年生の時は同じクラスだったのに、彼女は気が付かないんだろうか、こっちから言うべきか、と唯菜は迷っていた。
「・・って、中村ー?」
しかし、彼女は俊介のことを思い出したらしい。
「えー?すごい背伸びたねー。誰か分からなかったよ。」
「・・・・。」
「いつから付き合ってんの?ていうか、中村って南高だったんだ。よく受かったわね。」
一方的に喋る悠里に俊介は人が変わったように無愛想になった。返事どころかそっぽを向いている。唯菜は余りにも俊介の発するオーラが刺々しいのに驚いて、取り繕うように目の前の彼女に話しかけた。
「ゆうちゃんも、彼氏?」
少し離れたところに立つ男子生徒が突っ立ったままこちらをちらちら見ている。悠里と同じ高校の制服を着ている。
「うん、そう。あのね、ゆい。」
悠里は自分の彼氏も俊介もどうでもいい、というように、唯菜に笑いかけた。
「アドレス教えて。また今度ゆっくり会おうよ。」
「え?」
久々に会った同級生に言われる提案としてどこにも意外性はない言葉だったが、唯菜は一瞬言葉に詰まってしまった。
「携帯、持ってる?」
「あ、うん。」
よく考える間もなく、鞄から携帯を取り出していた。赤外線受信で唯菜のプロフィールが悠里の携帯に送られた。
「夜にメールするから!」
じゃあね、と手を振って短いスカートを翻して彼氏の所に駆け寄って行く後ろ姿をぼんやりと見送ってしまった。
「行くぞ。」
動きの止まっていた唯菜の手首を俊介がぐいっと引っ張った。唯菜は手に持ったままだった携帯を鞄に戻しながら、繋がれた手の力強さと、目の前にある背中に心臓が別の意味で弾むのを抑えられなかった。俊介からは悠里に会ってから感じる不機嫌さがまだ伝わってくるようで、唯菜は今までに見たことのない彼の態度に幾ばくかの不安も感じていた。同じクラスだった時に、俊介と悠里はそんなに仲が悪かったんだろうか、と思い出そうとしたが、すぐに俊介は少し後ろを歩く唯菜を振り向いて、歩みを緩めた。
「大丈夫?」
「え?」
見下ろされる目には唯菜を気遣う色しかなかった。唯菜は手首を握っていた彼の指が離れて、今度は手の甲を覆うように柔らかく握られたのを感じて、またぼんやりしてしまう。
「福永と会うのか?」
俊介の眉が潜められたのに違和感を感じる。もしかして、知ってるんだろうか。
「たぶん。」
「大丈夫か?」
同じクラスだったのだから、例え目立たなかったとしても、何か気付いていることはあるのかもしれない。でも、あの時のことは例え俊介でも口にしてほしくなかった。
「うん。」
「東条に付いてきてもらえば?」
「平気だよ。てか、まだ会うと決まった訳じゃないし。」
俊介の奥歯に物が挟まったような口調も、そこに美咲の名前が出てきたことも、唯菜に微かな苛立ちを覚えさせた。
できれば会いたくなかったと思っている唯菜の心の内を俊介に知られているような気がして、ますます情けない気分になった。俊介はそれ以上何も言わなかったが、繋がれた手に一瞬力がこめられたのが分かって、どんな顔をしていいのか分からないまま唯菜は俯いた。

<2010.8.19>