優 し い 手   

接近戦はまだまだ?!(2)

今、目の前でシャーペンを持つ右手と、あの時、触れるか触れないかのところに置かれた右手が重なる。
何度思い返してみても、あの時どうしてその言葉を口にすることができたのか、自分でも分からない。
今日着る服が決まらなくて昨晩は随分遅くまで起きていたせいで欠伸が出てきた。なんとか噛み殺しながら、プリントの最後にある証明問題に集中しようとした。
急に眠気が襲ってくる。何度読んでも問題文の内容が頭に入ってこない。
『彼女ほしいんなら、わたしと付き合う?』
それまで常に頭の中で考えていた気持ちを表す言葉とは全くかけ離れたものではあったけど、こうして俊介の部屋に向かい合って座っていることができるのは、あの言葉があったおかげだ。
あの後すぐにバスが来てお互い家に帰った。自分の部屋に戻った唯菜は着替えもせず、半時間程前にした俊介とのやりとりを思い返していた。二人の言葉とその合間の表情を反復すればするほど、その内容のあっけなさに、やはり冗談でしかなかったんだろうか、と不安になり始めた。その時、俊介からメールが来た。帰宅したかどうかを確認するだけの素っ気ない内容だったが、俊介から自発的に送られてきたメールは初めてで、これがつきあい始めたということなんだ、と感動した。
それから俊介はほぼ毎晩、メールをくれた。寝る前に送り合うメール。
テスト期間に入って二人で帰宅するようになるまでの1ヶ月余り、つきあい始めた二人の間にあった変化はそれだけだった。

「井上?」
俊介の声に唯菜は驚いて顔をあげた。にやけた俊介の顔が目の前にあった。
「あれ・・」
最後の問題を解く前にそのままの体勢で眠ってしまったらしい。
「触っても起きんし。」
「え・・そんなに寝てた?」
気付くと俊介の左手が唯菜の右手をシャーペンごと包み込んでいた。予想外の接触に眠気も一気に吹き飛んだが、できる限り右手を気にしないように努めた。
「俺が問題終わったときには寝てただろ?反応ないし。井上って器用に居眠りするね。」
「そう?」
眠気は飛んだはずなのに口ごもってしまうのは未だに繋がっている右手のせいだ。
「まだ眠い?いっそベッドで寝る?」
反応の鈍い唯菜を眠気のせいと勘違いしたらしい俊介は、ベッドを指さした。唯菜の右手から俊介の手が離れる。
「へーき。勉強しよ。」
軽くなった右手に生じた物足りなさをを誤魔化すように唯菜はシャーペンを持ち直した。 一度眠ったせいか、それともさっきの右手の感触のせいか、頭の中の霞は取れて鮮明になっていた。
俊介は英語より数学の方が得意らしく、ポイントを伝授すると、引っかかっていた問題はほとんど解けるようになった。
「井上の教え方って分かりやすいな。」
「そーお?家庭教師のバイトしてるからかな。」
「親戚だっけ。井上の親戚なら頭良さそうだな。」
「親戚ってのは関係ないと思うけど。まあ今のままならうちの高校は余裕だから、レベル上げて香蘭女子に挑戦するみたい。」
ふーんと俊介は例のシャーペン回しを続けながら、プリントから目を上げた。唯菜の目線と絡まる。
「なんで、井上は香蘭女子受験しなかったの?」
急な話題に唯菜はいくぶん戸惑った。俊介が中学時代の唯菜の成績を知っていたことにも驚く。しかしすぐに、当時の担任の教師に執拗に香蘭女子高校の受験を勧められていたからその現場を見られたのかもしれないと思い当たった。
「私立は無理だったのよ。」
「じゃあ、英数クラスには?お前なら希望したら入れるだろ。」
「んー、英数クラスの雰囲気に馴染めなさそうでしょ。仲いい子いないし。それに勉強はどこでもできるかなって。自覚の問題。」
「何気にかっこいいね。」
からかいではなく本気で褒めているような俊介に、ちょっと後ろめたくなった。勉強についてはある程度の環境があればあとはやる気の問題だと考えているのは事実だったが、高校受験時に今の高校に決めたのも、入学時や高校2年に上がる時に英数クラスを希望しなかったのも、少しでも俊介と同じクラスになれる確率を減らしたくなかったから。
でも本当の理由を俊介には言えない。唯菜の気持ちを俊介に知られたら、友達から少し前進したような今の関係が壊れてしまいそうな気がする。ずっと唯菜が抱え持っている想いは大きすぎて俊介にとって決して快いものではないだろう。
唯菜の言葉が『彼女ほしいんなら私と付き合う?』ではなくて、『好きだから付き合って』というものであったなら、俊介はきっと尻込みしていたんじゃないだろうか。中学3年で同じクラスになった俊介を意識し始めてから3年近くもただひたすら隠し通してきた気持ちは、打ち明けることがなかった分、一度表に出してしまうと相手に畏怖感を抱かせそうだった。相手に違和感を抱かせないように、少しずつ少しずつ距離を縮めていく。それが唯菜の考えた俊介との関係の継続方法だった。
何より、急激に近づいたなら、自爆してしまいそうだもの・・・。
その時、ドアがノックされて、唯菜は我に返った。「俊、開けて」と俊介の母親の声が向こう側から聞こえた。大儀そうに立ち上がった俊介がドアを開けると、お盆を持った母親が部屋に入ってきた。
「休憩にどうぞ。オリーブっていうお店のケーキ。」
プリントや筆記用具を床に避けてできたたテーブルのスペースにレアチーズとザッハトルテ、コーヒーが二つ並べられる。
「ここのケーキおいしいですよね。」
「井上さんも行くんだ!」
唯菜と母親で盛り上がっているケーキの話に俊介は加わらず、コーヒーに添えられた砂糖とミルクを入れて一人で飲み始めた。
「勉強はすすんでるの?」
おすすめのケーキ屋を伝授しあったところで、俊介の母はDSに手を伸ばした俊介に向き直った。
「ばりばりすすんでるよ。なっ?」
俊介は唯菜の方を向いて話を振ってきた。
「ええ、そこそこは。」
歯切れの悪い返答になってしまった唯菜に、母親は満面の笑みを向けた。
「井上さんって藤山くんより成績いいって聞いて、期待してるから。」
任せてくださいとも言えずにはははと苦笑していた。俊介が、もういいだろ?と母親に退室を促したが、彼女は一向に気にする様子もなく唯菜の方に顔を寄せると小声で言った。 「やっぱり井上さんが彼女になったのねー。」
大抵のことでは顔色を変えない自信のあった唯菜だったが、思いも寄らない相手からの不意打ちに顔が熱くなった。唯菜の狼狽えぶりを確認すると、俊介の母はすぐさま「じゃあケーキ食べてねー」と朗らかに部屋を出て行った。
気付かれてたんだ・・・。しかもからかわれてる?!
文化祭の晩、俊介の部屋に泊まったとき、女の子からシャワー浴びなさいと俊介の母が唯菜と美咲を浴室に案内してくれた。3人になると彼女は嬉しそうに「俊の彼女はどちらなの?」と言い出して、俊介に片想い中だった唯菜は返答に詰まってしまったが、美咲は「今のところはどちらも違うんですー。残念ながら」と微妙な言い回しで答えたのだ。俊介の母はあらそうなのと気が抜けたように言っていたが、実は唯菜の態度を見て俊介に対する気持ちに気付いていたのだろう。
「どした?」
両頬を手で押さえて俯いていた唯菜は俊介に顔を覗き込まれて慌てて体を後ろに引いた。
「なんか顔赤くね?」
「ううん、なんでもない!ケーキ食べよっ!」
必死で話を切り替えようとスプーンを掴んだ。俊介は納得いかなさそうな顔をしていたが、すぐに気を取り直してどっちにする?と尋ねてきた。
「私はどっちも好きだから、俊介の好きな方を選んで。」
じゃあこっち、と俊介はザッハトルテの載ったお皿を取った。俊介が甘いものも結構いけて、中でもチョコレートが大好きであることは中学の時から知っている。スプーンで切り分けた一口は大きくてあっという間に半分の大きさになってしまったケーキに唯菜はやっぱり男の子だなあと感心して見入っていた。すると俊介は今度は少し小さめに切り分けて唯菜の前に差し出した。
「こっちも食べたいんだろ。」
視線が物欲しそうに見えたのかな・・・。
いいよ、と断ったが、俊介はスプーンを更に唯菜の口元に近づけてきた。
唯菜が仕方なく口を開けるとケーキとスプーンが差し込まれた。途端に広がる濃厚なチョコレートの味が舌にまとわりついた。
「おいしい。」
「だろ?ということでそれ一口ちょうだい。」
と唯菜が少し手を付けたレアチーズを目線で指してから、口を開けた。
食べさせてということだろうか?
一瞬、躊躇していたが、無防備に向けられた俊介の顔を放置しておくわけにも行かず、大きく掬ったチーズケーキを思い切って俊介の口の中に入れた。
「うまっ!」
「なーんだ自分がほしかったから私にくれたのね
。」
「ギブアンドテイク。」 俊介はその後、自分のケーキを二口で食べきってしまった。唯菜の口に入ったスプーンで。
唯菜は自分の手にあるスプーンが俊介の口から出てきた瞬間を思い出して、軽く目眩に襲われた。
意識する方がおかしいと思いこむことにして、何事もなかったように普段より大きめの一切れを口に運んだ。
それを見届けた俊介が自分の手のスプーンを目の高さに掲げた。
「かんせつキス、だ!」
唯菜は自分の考えていたことを耳にして思わず吹き出しそうになったが、堪えてできるだけ冷たい声で言い放った。
「なにバカ言ってんの。子供じゃあるまいし。」
「げっ!なにその反応。かわいくねえっ!」
俊介がミニテーブルに身を乗り出して唯菜の鼻をつまんだ。
やめてよ、と俊介の手を振りほどこうとするが、びくともしない。俊介は余裕の表情で必死になっている唯菜を眺めている。その顔にからかいの笑みが広がっているのが無性に腹立たしくて、唯菜は隙をついて俊介の脇下をくすぐった。
「うわっ!」
不意を付かれて俊介の手は解かれる。
「やりやがったな!」
「そっちが先にしたんじゃん!」
テーブルを挟んで二人は睨み合ったが、すぐに俊介が笑い出す。
「おまえ、鼻赤い。」
「俊介がやったんじゃない!もう!」
慌てて鼻を隠して俯くと、「うそうそ、ごめん。」と頭をぽんぽんと撫でられた。
髪を通して俊介の大きな手の感触に鼻だけではなく顔も赤くなっていくような気がして、唯菜は顔が上げられなかった。
「ゆるさん。」
顔の下半分を両手で覆ったまま目だけで俊介の方を睨め付けると、彼はテーブルの上に放置されていたケーキをスプーンで掬ってさっきのように唯菜の前に持ってきた。
「これでも食べて許してやってよ。」
「・・・私のケーキだし。」
手の下でもごもごと言いながら、テーブルの上に残されたスプーンを見た。
スプーン、どっちが使ってたのか分からないよな、と思いながらも俊介の目の穏やかさに、どうでもいいかと両手をずらして差し出されたケーキをぱくんと口にした。
<2008.11.12>
<改稿 2010.6.20>