優 し い 手   

接近戦はまだまだ?!(1)

一緒に勉強が出来る場所と言われて、市立図書館を指定したのは唯菜だったが、図書館という場所に慣れていない俊介にとっては少し辛かったらしい。不用意に声を上げては、周りの冷たい視線を浴びてしまい、早めの昼食を食べるために一旦外に出ると、続きは俊介の家ですることになった。
俺の家でしようか、と言われたとき、唯菜は家に呼んでくれるなんて、つき合ってるっぽい!といたく感動したが、その喜びは顔には出さずに、いいよ、とどうでもいいように答えた。
唯菜が俊介の家に上がるのは2回目だった。この辺りは地元では有名な高級住宅街だったが、俊介の家もそこにちゃんと馴染むレベルだった。
「まあ、あがってよ。」
俊介がスニーカーを脱いで上がり框をまたいで、土間に立つ唯菜を見下ろした。
「おじゃまします。」
唯菜が脱いだ靴をそろえていると、奥からぱたぱたと足音がこちらに向かってきた。
「あら、帰ってきたんだ!」
唯菜はすぐに立ち上がって俊介の母親におじぎしながら挨拶をした。
「勉強すっから。」
俊介はそれだけ母親に言うと階段を上がっていく。
「図書館は無理だったんだ!井上さん、テスト前につきあってもらって悪いわねー。」
母親は、はははと笑いながら唯菜に話しかけてくる。ジーンズとカットソーの出で立ちで笑う俊介の母は若く見える。
唯菜の母も若く見えるが、彼女の雰囲気はまたそれとは種類が違っているように思えた。
「いえ、おじゃましてすみません。」
「みっちりしごいてやってね!」
俊介の母はまたはははと笑っている。唯菜も釣られて笑いながらはい、と答えると、ごゆっくり、と彼女は廊下の奥に戻っていった。
相変わらずだなあと初めて会ったときのことを思い出しながら、俊介の後を追って階段を登っていった。俊介が自分の部屋のドアを開けて待っていた。
「お茶でいいよな。」
唯菜が頷くと、俊介は階下へ下りていった。唯菜は俊介の部屋に足を踏み入れた。
ここに入るのも2回目。
でも一人で来るのは初めてだ。前は他にもクラスメートの男女が4人いて、総勢6人がこの部屋で一晩を明かした。俊介の部屋はかなり広い。唯菜の部屋の2倍くらいはありそうだ。壁に向かって勉強机とベッドが置かれている。反対側は大きな窓があってそこからの光が部屋の中を明るく照らしていた。窓の下のローチェストの上にはコンポやテレビが並べられていた。
ベッドの上のジャージや、板間に重ねられたマンガ雑誌は、放置されているようだったが、適当に片づけられている感じの部屋だった。前来たときはもう少し乱雑にいろんな物が散らばっていたような気がするから、今日は予め片づけたのかもしれない。
私が部屋に上がることも想定してたってこと、なのかな・・・。
唯菜が部屋を見回していると、俊介がグラス二つを両手に持って部屋に入ってきた。
「なに立ってんの。」
俊介は手にしたグラスを勉強机の上に置いた。
「いやーどこで勉強するのかと思って。」
「お、そうだな。」
俊介が作りつけのクローゼットの中から折り畳み式のテーブルを引っ張り出してきた。
手早く脚を出すと、部屋の真ん中の照明の下にテーブルを置き、部屋の端にあったクッションをテーブルを挟んで向かい合わせになるように並べた。
唯菜がその片方に座ると、グラスをテーブルに起きながら、俊介は尋ねた。
「今日は何時くらいまでいける?」
「自転車だし、6時には帰らないとまずいかも。」
唯菜の母は心配性で、唯菜が夜に出歩くことを嫌った。唯菜が自転車通学の可能な距離であるにも関わらず、バス通学をしているのは、母がそれを強いたからだった。実際に、唯菜の近所に住んでいる同級生はほとんどが自転車通学だった。
「4時間か・・、じゃまず数学教えて。」
ここから出題すると配られたプリントを向かい合わせに座って始めた。図書館のテーブルよりも小さなテーブルは、さっきよりも二人の距離を縮めていた。プリントを解きながら、俊介の様子をこっそり窺う。
俊介は左手で俯いた顔を支えて、逆の手でシャーペンをクルリ、クルリと回転させていた。何の意識も向けられていないのに、落下することなく一回転するシャーペン。日焼けしてゴツゴツした指。唯菜の指よりずっと節張っているのに、どうしてあんなに器用にシャーペンを回せるんだろう?
俊介が癖でやっているシャーペン回しは中学校の時に流行った。唯菜も少し練習してみたが、うまくいかずにすぐに断念した。女の子でやる子は少ないけど、中学校から仲のよい奈津美は上手に回してみせる。
唯菜は視線を俊介の手から自分の問題集に戻した。さっきからあんまり進んでいない。自分の前に座る人の存在が気になって、とてもでないが、問題に集中できなかった。全ての意識は俊介に向けられていたが、そうとは知れないように、そっと目だけを動かして俊介の素行を確認する以外は問題集を眺めていた。
もう1ヶ月半になるんだ。
唯菜が初めてこの部屋に入ってから、俊介とつきあい始めてから、約45日。
9月上旬にあった文化祭と体育祭の打ち上げの後、唯菜は美咲の家に泊めてもらう予定だったのに、打ち上げがお開きになった頃には美咲の家に向かう路線バスはなくなっていた。
二人ともすっからかんでタクシーに乗る余裕はなく、バスでも30分はかかる美咲の家まで歩くしかないのか?!と二人で騒いでいると、俊介の家に押しかけるから井上たちも来れば?と藤山が声をかけてくれた。
その日、俊介の家に泊まったのは藤山の他に男子は2人、そして美咲と唯菜の4人。
翌朝、すっかり日の高くなった時刻に、唯菜は俊介と一緒にバス停へと向かっていた。たまたま帰る方向が唯菜だけ違っていて、たぶん気を利かせてくれた美咲の一言で、俊介がバス停まで送ってくれることになったのだ。
バス停はゆっくり歩いても5分とかからなかった。後夜祭が終わった後から今まで、クラスメートとしてほとんど一緒にいられたけど、二人きりになったのは今だけだ。機会を狙っていたにも関わらず、いざお望みの状況となると毎晩のようにシミュレートしている言葉を口に出すことはできなかった。
他愛もない話を途切れることなく楽しめるような今の関係は居心地がよかった。かなり仲のよい女友達という立場。高校に入ってからは別のクラスになってしまい、中学3年でのかなり親密なクラスメートとしてのスタンスは崩れ去っていたが、今年、再び同じクラスになってからは、またそうした関係を取り戻すことができた。去年1年間のほぼ見ているだけの片思い。あの距離に比べれば今はなんて恵まれているんだろう。
逆に、近しすぎて、本心を伝えることができなくなったとしても、だ。
時刻表を確認すると、朝10時という中途半端な時間帯のせいか、バスの本数は通勤時間帯の半分くらいで、次のバスが来るまで15分近く時間があった。
「えーまだ15分もある。」
唯菜がうんざりした声をあげると、そうかと言って、待合い用のベンチに俊介は腰掛けた。すぐに帰ってしまうものだと思っていた唯菜は俊介の行動に喜びを隠せなかった。
「もしかして一緒に待っててくれるの?」
「おーよ。こんどなんかおごってよ。」
「なにー、無償の善意じゃないのー?」
憎まれ口を叩いてはみても、二人の時間が延長された事実に浮き足立ってしまうのだった。
余りくっつきすぎないように、でも離れすぎないように注意しながら俊介の隣に腰をかけた。
「高校祭の間につき合いだしたの結構いるよなー。」
俊介が背もたれに両肘をかけて、背を反らせた。唯菜の肩に触れそうなところに置かれた俊介の手が視界の端にうつる。
「そうだよね。高井さんが先輩に告ってOKしてもらったって言ってたし。」
「聞いた聞いた!打ち上げで酔っ払ってみんなに喋ってたよな。」
「よっぽど嬉しかったんだろうね。」
恋愛話などしたこともなかった高井が唯菜や美咲にもつきあい始めたの、と満面の笑みで話していたのを思い出す。まだ誰ともつき合ったことのない唯菜にとっては、高井の幸せいっぱいの状況は素直に羨ましかった。つき合いだしただけなのに浮かれすぎだと後でこっそり美咲が耳打ちしてきたのには、そのとおりだねと同意もしたが。
「サッカー部でも彼女出来たヤツが二人もいてさ、自慢されまくったわ。」
「やっぱイベントで盛り上がるもんねー。」
「そういうもんか?」
「そういうもんでしょ。」
俊介は現在たぶん彼女はいない。1年の時は唯菜の知っているだけで2人から告白されてつき合っていたが、どちらも余り長続きしなかったようだ。2年にあがってからは、そういう噂は聞いていない。
改めて本人に確認するような機会がなく、どうなんだろうとやきもきしていたが、今の話を聞く限りでは、いないと判断してもよさそうな・・・。唯菜は依然としてすれすれの所にある俊介の右手を意識しながら、この話の流れなら彼女がいるかどうか聞いても不自然じゃないことに気付いた。
聞くなら今だ!
高まる緊張感を振り払うように言葉を発しようとしたときだった。
「あーあ、俺も彼女ほしー。」
俊介の言葉に、思いっきり首を回して、俊介の顔を見た。苦笑いしているようなむすっとしているような曖昧な俊介の表情。
「かのじょ、いないの?」
「いるように見える?」
質問に質問で返されて返答に詰まる。俊介のいつもと違う表情が余計に唯菜を緊張させていた。
「みえない・・・。」
いつものふざけた調子が出せずに、言葉も必要最低限で切れてしまった。
こちらを見ていた俊介が顔を正面に向けた。唯菜も向き直って、道路の向こうに続く住宅の群れを見た。

「彼女ほしいんなら、私と付き合う?」

唯菜は自分の口から突然発せられた言葉に自分で驚いていた。
やばい!!
頭の仲間で心臓の音が響いて、思考はストップしていた。
この計り知れない影響力を潜めて放たれた一言を、どうすれば何事もなかったように取り戻すことができるのか、咄嗟の判断が必要なのにも関わらず、唯菜は俊介の顔を見ることもできないまま固まっていた。
「それ、いいね。」
脳内パニックに陥っている唯菜の耳に俊介の声が落ちてきて、反射的に振り返った。
俊介は前を向いたままだった。
それ、いいね。
唯菜は自分の提案が受け入れられたことを急に理解した。俊介の横顔と自分の肩の横に置かれた右手。
「いいでしょ。」
唯菜の言葉に、俊介がこちらを向いた。目が合った。俊介がふっと声を出さずに笑ったから、唯菜も釣られて笑った。
<2008.11.12>
<改稿 2010.6.20>