優 し い 手   


離さずに、にぎりしめて(1)

「ちょっと待って。中村って私のせいで勘違いしてたこと言わなかったの?」
「勘違いって?」
唯菜のきょとんとした顔を悠里は困惑したように見詰めた。悠里のお陰で、また俊介と付き合えることになった日の翌日、唯菜は彼女の部屋に遊びに来ていた。
「なんで、ゆいに別れようって言われて中村がいやだって言えなかったか、とかいろいろ聞いてないの?」
「ううん、特には・・・。」
悠里はふうっと溜息を吐いた。
「本当は本人の口から聞いた方がいいような気もするんだけど・・・。」
て、まあ、今回は私が原因だし、と前置きをして、話し出した。
「中村はね、ゆいがずっと山下君のことすきなんだと思ってたんだって。だから、ゆいに別れようって言われたときに山下君と付き合うんだって思ったみたい。ま、それも、中学の時に、私があいつにゆいが好きなのは山下君なんだって言ったからなんだけど。」
たぶん、唯菜の鞄を持ち出した悠里を俊介が咎めたとき、つい言ってしまったんだと思う、と悠里は言った。
「言った方はほんと覚えてないんだけど。でもあの頃は私もゆいは山下君のこと好きだって思いこんでたから・・。言ったんだろうね・・・。」
本当にごめん、と悠里は昨日と同じように、両手を合わせて目を伏せた。
「ううん、もう昔のことだし。じゃあ、俊介は中学の頃から私がずっと山下君のこと好きで、なのに俊介と付き合ってると思ってたってこと?」
「さあ?てゆうか、そこまで詳しい話はしてないから、付き合いだしたときどう考えてたかは知らないけど、急に私と会ったでしょ?中村は山下君のことで私がゆいのこと無視してたの知ってたから、久しぶりに会って、私に別に彼氏がいることも分かって、仲直りもできて、これで中村さえいなければ、ゆいも心おきなく山下君と付き合えるんだろうって、まあ、身を引こうって考えたんじゃない?だって、昨日、私が呼び出したとき、しょっぱなに山下と井上のジャマをするつもりはないから、って言ったからね。」
私もいきなり山下君の名前が出てきてびっくりしたよ、と悠里は苦笑した。
「まあ詳しくは、中村に聞いて。半分は私の推測だから。」
唯菜は躊躇いながらもゆっくりと頷く。別れることになった、クリスマス前の模試の日、自分は俊介になんて言っただろうか、と思い出そうとする。
確か、本当に好きな人と付き合った方がいい、と言ったはず。自分が言ったことだというのに、もうぼんやりとしか記憶に残っていない。はっきり覚えているのは、俊介が別れることに対して分かったと答えた後、クリスマスプレゼントを唯菜に押し付けて教室を出て行ったこと。その後ろ姿が消えていきそうな瞬間に感じた喪失感と焦燥感。そして取り残された教室で、一人泣きじゃくっていたこと。
あの時、唯菜は俊介が美咲のことを好きなのだと思い込んでいたのと同じように、彼は彼で、唯菜が山下のことを気に掛けていると思い込んでいたのだろうか。
「ゆい、もしかしてもう私とは絶交、とか思ってる?」
悠里が突然言い出したので、唯菜は驚いた。
「え、まさか!そんなこと思うわけないって。」
「だって、今回のことって私が中学の時に余計なこと言わなかったらそもそも中村が勘違いすることもなかたし。久しぶりにあった時だって、私がゆいに声かけなかったらよかったんだよね。」
「そんなことない。ゆうちゃんと仲直りできて良かったって思ってる。あの時はそりゃ微妙だったけど。それに俊介と別れようって考えたのは私だし。・・・あの時も俊介や美咲に聞いてれば。」
一人で勝手に決め付けずに、それとなく聞くこともできたはずだ。それもせずに、俊介の気持ちを試すように別れ話を持ち出した。彼が別れる必要はないと言ってくれると期待して。 唯菜はテーブルの上に落としていた視線を上げた。
「中学の時のことだって、私がゆうちゃんに俊介のこと打ち明けてれば、たぶん多田さんの嘘だってそんな簡単に信じることもなかっただろうし。」
「ちがうよ、ゆい。ゆいは全然悪くないんだからね。山下君のことで中村が勘違いしたのは私が悪いんだから。絶対ゆいのせいだとかそんなことは考えたらダメ。」
強い口調の悠里に思わず唯菜は頷いていた。二人は顔を見合わせたまま、ちょっとした沈黙になったが、すぐに悠里が表情を崩すと、立ち上がった。
「さて。ケーキ、持ってくるね。」
今日は悠里がお祝いと言ってケーキを用意してくれているらしい。彼女が階段を降りていく足音を聞きながら、意外なことを聞き過ぎて、混乱している脳内を落ち着けようとした。
山下君か・・・。
高校入学以来、英数クラスに籍を置きながらもテニス部でもそこそこ活躍している男子生徒の整った顔を思い浮かべた。中学の時は同じ部活、同じ補習クラスと共通項もあって、仲がいいと言われるレベルの付き合いはあったが、今では全く言葉を交わすことさえない。たぶん、すれ違っても挨拶を交わすことさえないだろう。接触なんて全くないのに、悠里のことばがあったとしても、そこまで俊介が山下にこだわっていたのか不思議だった。もし、俊介が一言でも彼のことを聞いてくれれば、すぐに否定したのに、と考えて、唯菜ははっとした。
自分だって、彼の真心を推し量ることができなかった。自分以外の誰かを好きなんじゃないかと疑ってしまった。
昨日、好きだと言ってくれた俊介の眼差しを脳裏に浮かべ、それが、付きあっていた時にもたらされていたものと全く変わりなかったことも思い出した。
あんなに温かな視線を注いでくれていたのに、信じることができなかった。
お互いに、肝心なことを口にせず、問いかけず、誤魔化したままでいたから、こんな風にすれ違ってしまったんだ。
「ゆいー、ごめん開けて!」
ドアの向こうから聞こえた悠里の声に、唯菜は弾かれたように立ち上がった。悠里の両手には大きなお盆が収まり、その上には濃淡様々な紅いベリーの盛りつけられた白いハートのケーキとティーセットが置かれていた。
「かわいい!」
思わず上げた歓声に悠里がにっと笑って、テーブルの上にお盆の上の物を移し始めた。唯菜もそれを手伝う。
「どう切ろうか。小さいから、半分ずつ食べれるよね?」
悠里はハート型のとがった先端にナイフを当てようとして、うーん、と唸った。
「なんか、ちょっと半分に切るってのはヤダなあ。ゆいのおつきあいおめでとう記念なのに、縁起悪いよね。」
「そこまで気にしなくてもいいんじゃない?」
唯菜が宥めるのを余所に、悠里は、ダメよ、と眉をしかめていた。
「あ、そっか、切らずに食べればいいじゃん。」
ナイフをお盆の上に戻すと、悠里は子供のように目をきらきらさせて、スプーンを唯菜に差し出した。
「このまま、二人で食べちゃお。」
唯菜もつられてわくわくした気分になった。
「では、ゆいと中村が末永く幸せでいられますように!」
まるで結婚するみたいだ、と照れくさくなりながらも唯菜はお礼を言って、二人はケーキにスプーンを差し入れた。
「おいしいー!」
唯菜の大好きなレアチーズケーキだった。特注であろうそのケーキに彼女の心遣いを感じて、転がり落ちたベリーをスプーンで掬おうとしている悠里を見詰めた。
「ゆうちゃん、ほんとありがとう。」
改まった唯菜の声に、悠里は一瞬ポカンとしていたが、何言ってんのよ、とぶっきらぼうに返した。
「ううん、ゆうちゃんが俊介呼び出してくれなかったら、もう一回付き合うのとか、無理だった。」
昨日、強引に二人きりという状況に持ち込まれ、正直になって、と背中を押されても、それでも尚、唯菜はその場から逃げようとした。俊介の重荷になりたくない、彼に疎まれたくない、という怯えが強すぎて、気持ちを伝えるには抵抗があった。それを押しやってでも伝えるしかない状況など、昨日を逃せば、たぶんもう訪れることはなかっただろう。
「3年になったらクラスも違っちゃうし、見るのも難しくなって。それでも仕方ないって思ってた。だからさ、ほんと、ありがと。」
「あのねー、そもそもの原因は私にあるんだから、昨日のは、なんていうか罪滅ぼしみたいなもの。当たり前のことをしたまでなの。もう、感謝なんかしないでよ。」
唯菜が、でも、と反論しかけると、彼女は気を取り直したように表情を緩めた。
「感謝は私じゃなくて中村にしなよ。ずーっとゆいのこと好きだったんだよ。たぶん、諦めようとしたことだってあったんじゃない?ま、それも私のせいなんだけどさ。それでも、やっぱりゆいのこと諦めきれなくて、変わらず見守ってたんだよ。あんないい奴、なかなかいないって。」
唯菜は大きく頷いた。悠里の口から俊介の想いを聞かされると、途端に昨日のことが現実味を帯びてきた。自分の部屋でひとり、俊介と交わした会話を思い出していた時には、意識できなかった明確な輪郭のような物が迫ってくるように感じる。
「ゆいだってずっと中村のこと好きだったじゃない。それってすごいことだよ。・・・だから、大事にしてよ。」
唯菜はいつの間にか固く握りしめたスプーンもそのままで、悠里の視線をしっかりと受け止めた。
「うん。」
もう、お互いの気持ちを見失いたくない。
本心をきちんと伝えるようになりたい。
「さ、食べちゃお。」
悠里がふっと笑って、思い切りよくケーキを頬張った。唯菜も同じようにケーキを掬って口にすると、小さな果実から酸っぱい果汁が弾けた。

俊介と再び付き合い始めたその日に、美咲と奈津美には電話で報告をした。
奈津美は彼氏の卓也から俊介側の事情を聞かされていて、非常にやきもきしたらしい。
「ゆいは気持ちが冷めたみたいなこと言うし、中村は中村で、ゆいは山下君と付き合うから余計な口出しするななんていろいろと口止めされるし。」
始業式、玄関前の広場で唯菜がクラス分けを張り出した掲示板を見上げていると、やって来た奈津美に有無を言わさず部室棟に連れてこられた。
「ほら、あの、2月だっけ、中村がインフルエンザで休んでた日。ゆいに中学のことばらしちゃったでしょ?あの時、ゆいが飛び出して行ったじゃん、なんかあれ見てほんとはゆいも中村のこと好きなんじゃないって思ったんだけどねえ、卓也がお前は絶対何もするなって言われたから。」
もうほんと心配してたんだよ、とそれまでの鬱憤を表すように、奈津美の口はへの字になっていた。
「そうだったんだ。なんかごめんね。」
女子用の部室棟は男子用の部室棟よりもグランドよりで、掲示板前の喧噪はほとんど聞こえない。
「まあさ、ちゃんと収まるべき所に収まったんなら、いいんだよ。」
すぐに機嫌を直した奈津美は、じゃあ、クラス分け見にいこっか、と来た道を戻り始めた。
「ゆい、何組?」
「1組。なっちゃんは5組だよね。」
「そう。やっぱ国立と私立だから、離れちゃったねー。そういえば、卓也と中村って一緒のクラスだって。」
「そうなんだ。」
俊介とは昨夜、メールのやり取りを少しだけした。離れるのは決まり切っているので、クラス替えの話はどちらからも出なかった。しかし、学校が終わった後、俊介の部活が始まるまで一緒に過ごす約束を交わしている。
「今度さ、卓也と中村も一緒に4人で遊びに行こうよ。」
ダブルデートだ、と楽しそうに提案した奈津美に、唯菜はうん、と力強く頷き返した。終了式にはこんなワクワクした気分で始業式を迎えられるなんて考えもしなかったなあ、と唯菜の足は自然と浮き足立つのだった。

<2011.5.7>