優 し い 手   


さしのべられた手を(6)

会えるかもしれない、と思ったが、こんな風に対峙することは全くの想定外だった。
「え、あ・・・。」
思わず後退ったが、悠里の手は振りほどけそうになく、その上、唯菜は自転車を引いたままだった。
「お節介だとは思ったんだけど。」
悠里が唯菜と俊介の顔を交互に見る。彼女はふざけている訳ではなかった。硬直してしまった唯菜を更に前へ進ませると、悠里は身を引いた。
「中村、そういうことで、よろしく。」
真剣な表情のままで、俊介を見上げた悠里は、唯菜の方を向くと両手を合わせて頭を下げた。
「ゆい、全部わたしのせいだった。ごめん。」
「あ、え、ゆうちゃん、なに・・・?」
唯菜は面食らった。悠里に謝られる意味が分からず、思わずその場にいた俊介を振り仰いだ。彼は悠里を見ていたが、驚いた様子はない。もう一度唯菜は悠里に視線を戻した。
「ま、わたしの話はまた今度だわ。」
ぱっと顔を上げると、悠里はにっと笑う。
「ちゃんと気持ち伝えて。」
素早く耳打ちをすると、ぽん、と唯菜の背を押し出した。悠里はそのまま身を翻すと、柔らかい癖毛をなびかせながら、パタパタと駆けて行った。校門を出る所で一度振り返る。唯菜がまだ自分の方を見ているのに気付くと、しっ、しっ、という風に手を払うと、今度はそのまま塀の向こうへと走り去ってしまった。
悠里の姿が全く見えなくなってしまってからも、唯菜は背の方へ顔を振り向けたまま、校門の方を呆然と見ていた。しかし、ずっと顔を背けている訳にはいかなかい。唯菜は意を決すると、恐る恐る顔を前へと戻した。
そこに俊介が居ることは分かっていたが、顔を上げられない。自転車のハンドルを握った手にぎゅっと力を込める。そうしていないと震えてしまう。俊介の姿を見たときから、ずっと、手も足も自由が効かなくなっていた。
『気持ち伝えて』
悠里の言葉を思い出すが、急に投げつけられた課題にどう対応すればよいか分からなかった。彼女の言う『気持ち』というのは、俊介への想いであることは間違いない。でも、もうそれは言わないと決めた。言えば彼に迷惑をかけてしまう。
それに、悠里がごめん、と謝っていたことも気になる。何を謝ることがあるのだろう。 (今日、俊介を呼び出したこと?) そういえば、彼は一言も喋っていない。悠里は何て言って呼び出したんだろう。
思考がぐるぐると回る。
自転車のハンドルを握る自分の手の向こうに、俊介の靴が見える。いつものボリュームのあるスニーカーではなく、青いすっきりしたスパイク。彼はサッカーの練習着だった。今は部活の練習中でそれを抜けてきているのかもしれない。
(そうだ、俊介は。)
唯菜はバッと顔を上げた。俊介と目が合う。
「あ、サッカー、部活は?抜けてきてるんだよね。」
「それはいける。」
「え、でも、練習・・・。」
練習中かどうかを俊介は明言しなかったが、たぶんそうなのだろう。顔を見るのは終了式以来だった。春休みの初日に見たのは遠目で、しかも横顔で、知らない女子と笑い合ってて・・・。
でも、今は硬い表情のまま、唯菜を見ている。また、迷惑をかけてしまった。
「ごめんなさい。」
唯菜は俯いた。
「え、ややや、なに謝ってんの。井上は悪くないって。急に来たのは福永だし。別に俺は・・・」
俊介が慌て始めたのが分かって、唯菜はまた失敗したと思った。自分が謝れば、俊介は怒れない、冷たくできない。なんてずるいんだろう。
傷付いた顔を見せたりすれば、俊介はあの日のように、必死に言いつくろうしかないではないか。
どうすれば彼への迷惑を最小限にできるだろう。
唯菜は勢いよく顔を上げた。
「なんか、巻き込んだみたいでごめんね。あの、練習に戻って。」
俊介は、え、と言ったまま、固まってしまった。
そういえば呼び出した理由も何も言わずに帰ってしまうなんて、それこそ失礼だろうか。でも、言い訳に使えそうな適当な用事を思い付く余裕など全くない。唯菜は俊介に凝視されているのに耐えられなくなって、自転車を小さく旋回させて、門へと向かおうとした。
「あ、待てよ!」
背を向けた時、肩を掴まれた。その瞬間、足から力が抜けて、両脚がもつれた。
「ひあっ」
気の抜けた悲鳴を小さく上げて、唯菜は自転車と一緒に倒れていた。ガシャンという音が静かな構内に響く。
「わりい!おい、いけるか?」
唯菜は言葉もなく、こくこくと何度も頷いた。
(なにやってんのわたし。)
自分の現状に、かっと頭に血が上る。一刻も早く立ち上がらなければならないのに、体が言うことを聞かない。ジーンズに包まれた右足とふくらはぎが急に軽くなって、唯菜はその部分が自転車の下敷きになっていたこと、そして、俊介がかぶさっていた自転車を起こしてくれたことに気付いた。俊介は自転車を脇に寄せてスタンドで立てると、見上げる唯菜を覗き込んだ。
「足、痛い?」
「ううん!」
いつまでも動かないせいで、怪我をしたと思われたらしい。唯菜はそれまでの停滞が嘘の様に、ばっと立ち上がった。
「全然へーき。」
右足首に多少の違和感はあったが、唯菜は愛想笑いを作った。俊介はそっか、と返すと、あ、と小さく声を上げて唯菜から離れた。どうしたのだろうと見ると、俊介はコンクリートに落ちていた唯菜のかばんを拾い上げるところだった。自転車のかごに入れていたのが、倒れた衝動で飛んでしまったのだろう。
無言のまま、俊介は自転車のかごに唯菜のかばんを入れた。
「あ、あの、ありがと。」
「いや、俺が無理矢理引っ張ったから、ごめんな。」
謝られて、唯菜は俯き気味だった視線を上げると、首を振った。
「ううん、そんなの、全然。わたしが勝手に転んじゃっただけで。」
確かに俊介は走りだそうとする唯菜の肩を掴んだが、それは強い力ではなかった。ただ、自分が彼に触れられたことに動転してしまっただけだ。それに呼び出しておいたにも関わらず、何も言わずに逃げたりすれば、誰だって、呼び止めようとするだろう。
「気にしないで。俊介は悪くないし。ほんとちょっと足がもつれちゃっただけで。そ、それより、あの、練習。戻らないと。」
「そんなのいいんだって。」
「でも、今練習中なんだよね?」
まあそうだけど、と視線を泳がせた俊介に申し訳なさが募る。
「私こそ、さぼらせてしまって、ごめんなさい。」
「だからいいんだって。それこそ井上は悪くない。どうせ福永が勝手にしたことだろ?」
俊介の声色が少し硬くなった。彼の言うとおり、唯菜が頼んだ訳ではないが、悠里が俊介に接触をするなんて、自分のことを心配してでしかあり得ない。悠里に対していい感情を持っていないだろう俊介に、誤解されては困るとばかりに、唯菜は慌てて言い募った。
「でも、ゆうちゃんは私のためにしてくれたんだし。」
「じゃあ、福永の言ってたことってほんと?」
「え・・・。」
唯菜は思わず、自分を見下ろす彼の視線から逃れるように視線を逸らせた。俊介が唯菜のバッグを拾ったときに、位置が逆になっていた。今は、俊介の後ろに校門が見える。
「えっと、それは・・・。」
悠里が何を俊介に話したのか分からない。でも彼女は唯菜の話しか聞いていないのだし、どの程度かは分からないが、唯菜の側の事情を明かしたに違いない。軽はずみに肯定の返事をしてしまえば、唯菜の本心がまた俊介に重荷を背負わせてしまう。
唯菜は即答できなかった。
言葉を無くしてしまった唯菜を、俊介は急かすわけでもなく、ただ見ているのが、気配で分かった。どんな表情をしているのか、とてもでないが、唯菜は顔を上げることができない。自分の頬が火照っているのは分かる。たぶん今日、彼の存在に気付いたときから、もうとんでもなく心臓が音を立てていて、こんな近くにいれば、その音が彼にも聞こえているのではないかとさえ思えてしまう。
そんな自分を見て、彼は何と思っているだろう。さっきから自分は尋常でない。呼び出しておいて何の釈明もせずに逃げようとしたり、何もないところでひっくり返ったり、挙げ句の果てには聞かれたことに答えられずにいる。
たぶん、もう自分の気持ちなど、彼にはばれているだろう。だいたい、悠里が事前に何も話さなかったとしても、こんな風に引き合わせようとすること自体、唯菜の側に何かあるのが見え見えだった。
唯菜は『ちゃんと気持ちを伝えて』と悠里に背中を押されたことを思い出した。
もう、ばれているのなら、妙に誤魔化したりせずに、気持ちだけは伝えて、でも自分は何も望んでいないから、友達としていてほしい、と頼めば、彼にとってそれほど大きなプレッシャーとなることもないかもしれない。クラスも離れてしまえば、頻繁に顔を合わせることもない。きっと彼は唯菜に対して負い目を感じるだろうけど、それもすぐに消えてしまうはず・・・。
「あの・・」
唯菜は意を決して顔を上げた。俊介と目が合う。それまで窺うようにちらりとしか見ていなかった彼の顔を否応なしに視界の真正面から捉えるてしまう。息が詰まりそうだった。
「ずっと好きでした。」
俊介の表情が驚きで強ばったのが分かった。やっぱり、予想外だったんだろうか。でももう言ってしまったものは取り返しがつかない。心臓は相変わらずバクバクと音を立てていたが、言葉を吐き出してしまったせいで、捨て鉢とも言えるような妙な度胸がついたような気がした。
『好きでした』なんて過去形みたいでおかしかっただろうか、いやでもその方が都合いいよね、などと思う余裕さえあった。
「まじ?」
「あ、まじだけど、あの、別にそれでどうという訳でなくて、今までみたいに、クラス離れても友達でいてほしいなあなんて。」
誤魔化すように笑いながら、これだけは言っておかなければ、と言い切ってしまうと俊介の顔を窺った。厳しい表情のまま、唯菜の言葉に気が軽くなったようには見えなかった。やはり、一方的過ぎただろうか。
「えっと、気にしないでほしいの。こんなこと言っといて気にしないでっていうのも無理かもしれないけど、ほんと言いたかっただけだし。あの、迷惑かけるつもりは全然ないし。あ、もうすでに迷惑だよね。ほんとごめん。・・・で、でも、これからは、迷惑かけないから。あの、私も普通にするから、俊介も普通にしてくれたら・・・。」
唯菜は申し訳なさに視線を泳がせながら、懸命に言葉を繋げていた。とにかく俊介の負担にはなりたくないという気持ちでいっぱいだった。
「福永が言ってたけど、俺と別れたくなかったってのも、ほんと?」
唯菜の言葉を遮るようにされた俊介の問いかけは、思いも寄らぬ内容だった。呆気にとられた唯菜は、余り考える間もなく、頷いてしまう。
「そっか・・・。」
俊介が突然座り込んだ。
「あー、まじかよ。」
「え、え・・・俊介・・?」
肯定するべきじゃなかったんだろうか、と不安を覚えながら、唯菜は滅多に見ることのない彼のつむじを見下ろした。手を少し動かせば、彼の髪の毛に触れることができそうだ、と気付いたとき、彼が顔を上げた。
何かを言おうと口を開けたが、視線を唯菜の後方に向けると、そのまま眉をひそめた。何だろうと、つられて唯菜も後方を振り返り、俊介の視線の先を見た。
並木の途切れた向こう側には正面玄関のある校舎があるだけだった。相変わらず人の影はない。
「わりいんだけど、こっち移動しよ。」
いつの間に立ち上がったのか、俊介は唯菜の隣を通って体育館の向こう側へと歩き出した。
「あ、自転車は。」
「そこならジャマにならないから。」
振り返って気にする唯菜を、俊介は立ち止まって待っていた。唯菜が近付いてきたのを確認して、俊介は歩き出した。
「どうしたの?」
「いや、顧問がいた。」
「え?」
「職員室の窓開けて見てた。」
俊介が部活の練習中だったことを唯菜は今更のように思い出していた。
「え、うそ。まずいよね。あの、練習に戻って。」
「いや、練習はいける。」
「でもセンセが見てたんなら・・・。」
「アイツはそんなことでは怒らん。」
元々、彼の練習を妨げてしまったことを気に病んでいた唯菜は立ち止まった。
「でも、やっぱり」
尚も言い募ろうとした唯菜を俊介が振り返った。
「話、途中だし。」
数歩引き返してくると、唯菜の手首をぐっと掴んで歩き始めた。躊躇いなく部室棟の方に進んでいく背中に、唯菜は続きの言葉を忘れていた。
体育館の中で運動部の練習する様子が、入り口扉の小さな窓ガラスからちらりと見えたが、二人の向かう部室棟の辺りに人の姿はなかった。部室棟といっても、コンクリートが剥き出しの建物は平屋で、重い鉄の扉が並んだ雑なものが男子と女子に別れて建っているだけだ。体育館と二つの部室棟の間には半透明な屋根が渡されていて、俊介は何も言わずにその下へと進んだ。俊介が立ち止まって振り返った。その時には、サッカーの練習のことも、顧問に見られていたことも、全て唯菜の頭の中から消えていた。
向き合った二人の間をつなぐお互いの腕を一瞥し、唯菜はそのまま視線を上げた。俊介の指から、引っ張ってこられた時の強さは失われたが、それでも唯菜の手首を解放することはない。
顔を上げた先には自分に向けられた俊介の眼差し。唯菜の胸はそれまでの焦燥を打ち消すかのように期待に高鳴り始める。俊介がすっと息を吸い込んだ。
「俺も、井上のこと好き。ずっと好きだった。」
うそ、と口にできなかったのは、驚きで声が出なかっただけに過ぎない。俊介の切羽詰まった表情も、うっすらと彼の耳が赤くなっているのも、今耳に入ってきた言葉以外は、唯菜の意識に入ってこなかった。
「付き合ってください。」
俊介の言葉に、唯菜はすぐに、こくんと唯菜は頷いた。
俊介と付き合う。
目の前の俊介は照れくさそうに笑っていた。ようやく、唯菜の意識は現状を把握し始めて、手首を取られる前に、気にしていたことを途端に思い出す。
「あ、練習。戻らないと・・・。そういえばセンセに見られてたんなら」
あたふたとしてしまう唯菜の手首を握っていた俊介の手がするりと外れたかと思うとそのまま指先へと滑って柔らかくそこを包み直す。
「井上。」
唯菜の言葉は封じ込められた。
「大丈夫だから。俺、送ってくよ。」
「え!そんな、いいよ。まだ明るいし。あの、ほんと練習に。」
「いいから。送る。送らせてよ。」
有無を言わせぬ真っ直ぐな視線に、唯菜は思わず俯いてしまった。
「俺が行くと困る?」
「ううん、そんなことはないけど。でも・・・」
自分のせいで練習を途中で放棄させてしまうなんて、と思うと、唯菜はどうしても首を縦に振ることができなかった。
「俺がしたいの。今からだと、5時までに帰ってこれるから余裕だし。顧問もからかうだけで、怒ったりしないから。少なくとも井上に注意するとかは、ない。」
俊介に握られた手の甲が熱を帯びていく。
「もうちょっと一緒にいたい。」
小声でそう言うと、俊介は唇を引き締めて視線を逸らせた。彼の顔がうっすら赤らんだような気がして、唯菜も更に頬を熱くしながら、頷くしかなかった。

<2011.4.19>