優 し い 手   


離さずに、にぎりしめて(2)

休日に俊介と会うのは久しぶりだった。最後の総体に向けて、新学期と同時にサッカー部の朝練が始まり、理系へと移った俊介にとっては、多忙な新学期になっていた。クラスが離れれば、会おうとしなければ会えないということは理解していたが、忙しそうな彼の時間にどう入っていけばいいのか唯菜は分からずにいた。しかし、悩む間もなく、俊介の方から唯菜の教室に度々やって来た。
唯菜のクラスには藤山がいた。俊介はまず彼に軽く挨拶をして、その後、唯菜の方を見る。俊介が教室に入ってきた時から、彼に意識を向けていた唯菜と目が合うと、俊介はにっと笑って手でおいで、と呼び寄せる。唯菜が彼の元へ歩み寄ると、外出ようぜ、と廊下へと場所を移す。
そんな行動も最初はクラスメートに注目を浴び、付き合っているのか、と何人もから尋ねられていたが、1週間も経てば見慣れたものになるらしく、今では俊介が現れると、仲良くしている女子生徒は、彼氏来たよ、と唯菜をつつくのだった。
週明けにある学力テストのためという名目で、二人はテーブルの上に問題集を載せていたが、今、それは片隅に重ねられ、それぞれの前にはさっき、俊介の母が持ってきてくれたケーキと飲み物が置かれていた。
「なんか、いつも悪いよね。」
「いんだよ、ケーキ買う口実できて喜んでるんだから。」
そうなの?と言いながら、唯菜は目の前のダークチェリータルトの土台をスプーンの先で切り分けることに苦心していた。スポンジも生クリームもチョコレート色をしたケーキの半分を一気に食べた俊介が、唯菜の手元を覗き込んだ。
「食べる?」
「うん。」
嬉しそうに頷いた俊介に、ちょっと分けるの難しいんだよね、と言いながらも何とか大きめに割ったタルト生地にカスタードとチェリーを載せて、彼の口へと差し出した。柄を持った自分の指先に、彼の唇がスプーンを咥え、そして離した振動が伝わって、間接キスだな、と思う。
さすがに初めての時のように、動揺することはないが、余りにも久しぶりすぎて、全くの平常心を保つのは難しい。
最初に付き合っていた期間、俊介の部屋に招かれる度に俊介の母はケーキを用意してくれていた。
「ほい。」
俊介が当たり前のように、チョコレートケーキの塊を唯菜の口元に差し出した。最初にそうしたせいか、お互いのケーキを一口ずつ交換するのが恒例になっていた。目の前にあるそれを、ちょっと大きいな、と思いながら口を開けた。スプーンの冷たさがなくなると、甘いチョコレートの味が広がる。
「おいし。」
じっと見ている俊介に答えると、突然スプーンを置いた彼の手が、唯菜の顔に差し出されたかと思うと、上唇と肌の境目辺りを撫でた。そして俊介は引き上げた手の親指をぺろりと舐めた。
「な、なに。」
「クリーム付いてた。」
唯菜はかっと顔に血が上るのを感じた。
「そ、そんなの言ってくれれば自分で取れるのに。」
恥ずかしまぎれについ出てしまった唯菜の非難めいた声に、俊介は何も返さず、にやりと口の端を上げて唯菜をじっと見た。
慌てて顔を俯けると残ったタルトにスプーンを突き立てる。食べている間も、相変わらず彼の視線を感じて、唯菜はますますテーブルから視線を上げることができない。
俊介が簡単に境界線を越えてくることが理解できなかった。改めて付き合い始めてから、手を繋ぐような機会もなかったが、それを物足りないと思う余裕もなかった。あの二人また付き合い出したんだ、という周囲の視線の中で、俊介の傍にいることにやっと慣れてきた唯菜には、これ以上の密着はまだかなりハードルの高いことだった。
以前よりも積極的な俊介の行動を知った美咲にはラブラブやねえと散々からかわれたが、唯菜はそんなことない、と否定しつつも、からかわれるままだった。
『時間の問題よね。ゆいが大人になる日も。』
休み前に美咲にかけられた意味深な言葉が脳裏を過ぎって、唯菜は一人顔を赤らめた。
そりゃあ、キスしたこともあるんだけど・・・。
お皿に残ってしまったタルト台の欠片を一箇所に集めていた唯菜は、あの日のことを思い出した。自分と俊介がその時と余り変わらない状況にいることを意識して、さらに顔が熱くなるのを止めることができない。
終業式の日。呼ばれた俊介の部屋。
「あ。」
唯菜はずっと気になっていたことを思い出して顔を上げた。驚いた表情の俊介と目が合う。やはり彼はこちらを観察していたらしい。
「なに?」
唯菜は思い出したことを口にしようとして、躊躇した。ずっと正直に打ち明けて謝らなくては、と考えていたことだった。
「あのね、この前、って言っても2学期の終業式の後なんだけど・・・。」
その日、俊介の家には、珍しく俊介の母も不在で、だからなのか関係ないのか分からないが、いつもより二人の距離は近付いて、唯菜は浮かれていた。そんな浮ついた気分に水を差したのが美咲からのメールだった。唯菜は彼が場を離れたときに、こっそり携帯を見てしまった。それが原因で俊介に別れようと言い出してしまい、それについての誤解は一応解消されたのだが、勝手に隠れて他人の携帯を見てしまったことについては、今でも良心の呵責を感じていた。
悠里には、そんなのよくあることだから黙ってれば、と半分呆れられたが、唯菜としては、懺悔したい気持ちがどうしても拭えなかった。しかし、その一方で携帯を勝手に見るような人間だと軽蔑されたらどうしよう、という不安もやっぱりあった。
「うちに来たとき?・・・だよな。」
俊介も思い出したようだった。唯菜はこくん、と頷いたまま、項垂れた。やっぱり4ヶ月も前のことを謝るなんて、変だろうか、と迷いかけたとき、いきなり、テーブルが視界からなくなったかと思うと、俊介の影が代わりに入ってきた。あれ、と顔を上げたときには両肩を掴まれて、さっき、指で撫でられたばかりの唇にもっと柔らかいものを当てられた。
「な、な・・・!」
反射的に身を捩ると、膝立ちのまま覆い被さるようになっていた俊介がきょとんとした顔で唯菜を見降ろした。テーブルは彼が横にどかしたらしい。
「え、キスのことじゃないの?」
「ちっ、ちがう!」
唯菜は腕で俊介の胸を押しながら、頭を振った。
「そうじゃなくて、メール!俊介のメール勝手に見ちゃったから。」
肩を掴んでいた両手が離れた。
「メール?」
ペタンと床に胡座をかいた俊介は訝しそうに唯菜を見た。
「そう、あの日、美咲からメール来てたでしょ?なんか俊介がいつもと違ってたから、思わず、あの、宅配が来たときに、誰からなんだろうって見ちゃって。」
本当は見るつもりなんてなかったんだけど、と続けようとして唯菜はふと口を噤んだ。
突然のキスに動揺したまま、一人喋ってしまっていたが、言えば言うほど、自分の行動の情けなさを際立たせていることに気付いた。
唯菜は顔を上げた。俊介が眉を潜めてこちらを凝視していた。
「あの、勝手に携帯見てごめんなさい。もう絶対にしないから。」
謝罪の意味で、唯菜はぺこりと頭を下げた。ただ、謝れば良かっただけなのに、言い訳がましく不要なことまで喋っていた。
「許さない。」
きっぱりした予想外の内容に、唯菜は顔を上げた。しかし、そこには言葉とは全く逆の柔らかい表情が唯菜の視線を受け止めた。
「・・・て言ったら?どうする?」
「どうするって・・・。」
脇に無造作に置いていた手を彼に掴まれて、咄嗟に引こうとしてしまった。俊介が唯菜の些細な抵抗をどう捉えたのか、一瞬目を眇めた。
「許すから、キスしていい?」
意外な言葉に唯菜は絶句した。
「あの・・・私真面目に言ってるんだけど。」
「俺もマジ。いいよ、携帯くらい。井上に見られるんならへーき。」
「そういうことじゃなくて、携帯は一応プライバシーな訳だし、普通ダメでしょ。」
「あ、心配するな、俺は井上の携帯見たりしない。」
ちょっと黙って考えたはずの俊介の答えは、やっぱり予想を大きく違えていて唯菜は困惑してしまった。
「なに?俺が怒ればいいわけ?」
「そういうわけじゃないんだけど。」
自分でもよく分からない。ただ黙っているのはフェアじゃないから、きちんと謝って、これからはそんな不義理な行動はしないと伝えたかったのだが、そもそも相手が気にしていないのであれば謝る必要も薄れるようにも思える。
「わかった。これからは見るなっつうことで、前回のことは、キスさせてくれるんなら許す。」
唯菜が悩んでいると、俊介は掴んだ手を引っぱりながら、そう言った。
「それとこれとは別じゃない。」
引き込まれる体を建て直そうと上体に力をこめたが、悪あがきでしかなかったようで、そのまま俊介に背中を抱かれるような体勢になってしまった。いつの間にか彼の両脚は伸ばされて、唯菜の両脇にあった。
「ダメ?」
唯菜は束の間、返事に躊躇した。
「そんなことはないけど・・・。」
唯菜はなんだか、許してもらうために仕方なくキスするわけではないのに、と正したいような気がしたが、彼の胸に置いた右手から伝わってくる鼓動の早さに気付くと、別にどちらでもいいんだろうと思えた。きっと彼は分かっている。
ぎゅっと瞼を閉じると、さっき感じた柔らかく重い感触が、今度は時間をかけて唯菜の唇を覆う。どうしていいのか分からない内に、熱と気配が遠のいた。唯菜がこわごわ目を開くと、俊介と目が合った。じっと見詰められると、全身が震えそうになっているのが分かってしまうんじゃないかと思えて、ますます心臓の音が大きく響く。背中に回されたのとは逆の手の先が唯菜の頬にあてがわれた。指先がゆっくりと生え際の方へ辿る。その感触と、彼の視線の温かさに唯菜は捕らえられて陶酔せずにはいられなかった。
「あ、そういや、俺も・・・あの日言いそびれてたことあったんだ。」
俊介の唇から放たれる音の振動がそのまま肌に伝わってくるような感覚に耐えられなくて、唯菜は彼にもたれかかっていた上体を少し起こした。彼の指が顔から離れた。
「なに?」
「いや、大したことじゃないんだけど。」
一端言葉を切って俊介が視線を泳がせた。
「俺が文理変更した理由。」
想像もしなかった言葉に唯菜は一瞬言葉を無くした。
「数学が得意だと思ったんでしょ?」
それもあるんだけどさ、と俊介が言いにくそうに俯いた。なんだろう、と頭をめぐらせるが、思い当たることはなく、唯菜は黙って彼の伏せられた睫毛を見詰めた。
「K大に行きたいと思って。」
「え?」
彼の顔に見蕩れていた唯菜は俊介の言葉の意味が一瞬分からなかった。
「井上、第一志望だろ。」
「そう・・・だけど。」
唯菜の住む県内にある公立大学はK大学だけで、母の要望に添うにはそこしか選択肢がない。唯菜自身も他に進学したい大学がある訳でもなく、偏差値的にも高望みというほどでもなかったので、今のところは専願に近かった。
俊介と大学進学の話をした記憶は殆どなく、彼の志望校も全く聞いたことがなかった。ただ、自分の志望校はもう高校入学の頃からほとんど決められていたから、何かの弾みに口にしたのかもしれない。俊介はそれを気に留めてくれてたのだろうか。
唯菜がぽかんとしていると、俊介は俯いたまま話し始めた。
「国立なんて無理だと思ってたけど、工学部なら、何とかひっかかれるかもしれんな、って思ったんだ。だから理系に・・・した。」
言葉が途切れて、彼が息を継ぐ音がした。俊介が俯いているお陰で、唯菜は遠慮なく、ごく近くから彼の顔を眺めることができた。
「井上と同じとこ行きたい。こんな理由で進路決めたなんて、言えなかったけど・・・。なんか、こういうのって重いよな・・」
俊介の俯く角度が更に深くなる。唯菜はなんと返事していいか分からなかった。
今の俊介の言葉がどれほど自分を満ち足りた気分にさせているのか、うまく説明できそうにない。
前髪の向こうに透かし見える目は何を見ているのだろう。今の心境を表せないもどかしさに、唯菜の手は自然と目の前に伏せられた頭へと伸ばされた。短めに揃えられた上部の頭髪は意外に柔らかかった。
俊介が顔を上げると、髪の毛を触っていた唯菜の指先はこめかみをたどって、彼の頬に行き着いた。
「すごく、うれしい・・・。」
彼の表情が、唯菜に何か言葉を求めているように見えて、その縋り付くような目の色に唯菜の口はやっとそれだけを発した。
言い終わると、俊介の表情が喜色を帯びたものに変わる。唯菜は照れ臭さの余り、その至近距離から逃れようと少し体をよじったが、途端に背中にあった彼の手に力が込められて唯菜の視界は俊介のトレーナーの青色で埋め尽くされた。
彼の吐息が自分の髪の毛を湿らせているのを感じた。
自分の正直な気持ちを伝えることが彼を喜ばせている。
唯菜は、その奇跡的な幸運をかみ締めた。

Fin
<2011.5.7>

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