優 し い 手   

恋愛バロメーター(2)

「俊介って佐藤のこといいなって言ってなかったっけ?」
教室の中から聞こえてきた一言に引き戸の取っ手にかけようとしていた手が止まる。中にいる人は見えなかったが、藤山の声だった。委員会が終わってメールするよりも直接来た方が早いと急いで教室に戻ってきた唯菜は扉の前で固まってしまった。
「まあねえ、って中川も言ってただろ?」
俊介の声だ。唯菜が間違うはずがない。
佐藤というのはきっと隣のクラスのスタイルも顔も整った派手な雰囲気で目立っている女子のことだろう。唯菜は佐藤の茶色に染められた長い髪の毛やしっかり引かれたアイラインや思いっきりカールした長い睫毛を思い浮かべた。
「えーそりゃなんかエロいじゃん、あいつ。男ならいいなあと思うでしょ?」
中川の声だった。
「そうか?俺は興味ないけど。」
と藤山の声。
「それは藤山がモテモテだからだろ?」
また中川の声が聞こえてきた。
唯菜は体の向きを180度回転させて歩き始めた。何も考えられなかったが、とりあえず足音を立てないようにする理性は残っていた。
俊介は佐藤さんのことが好き?
心なしか頭が痛い。ズキズキとした痛みとぐるぐる回る思考。
唯菜がふと我に返ると、いつの間にか玄関の傘立てに座り込んでいたのだ。

冷静になって思い起こしてみると、俊介は別に佐藤さんのことを好きと言った訳ではなく、いいなと言っていただけなのだ。その「いい」は芸能人に対する好意とそんなに変わらないものなのかもしれない。唯菜自身も、女子同士の会話の中で人気のある男子を「いいよねー」と誉めることだってある。
そう、それと同じ・・・かもしれない。
いや、きっとそうよね。
俊介の顔を見る前と後で随分思考の方向性が変わっている現金さに自分でも呆れてしまう。
玄関で呆然としていたときは、佐藤のことが好きなのに、自分とつき合ってくれてるんだとしか思えなかったのが、ひどく偏っていたなと今なら思える。
出ていったのと同じ場所から俊介が走ってくるのが見えた。自分の方に彼が走ってくるというこの状況だけで、唯菜は先程の推察を確信に変えていた。俊介は佐藤さんのことをちょっといいなと思っているだけに過ぎないと。
「はい。」
俊介は手に持っていたペットボトルの片方を唯菜に差し出した。
「井上はお茶だったよな。」
「うん、ありがとう。」
受け取るときに指の先が俊介の手の平の端に触れた。危うく取り落としそうになるくらい心臓がバクンとなったが、平静を装う。俊介の自転車のかごから自分の鞄を取って財布を取り出そうとすると、俊介は
「いいよ。また今度おごって。」
と手の平を振った。
唯菜は一瞬迷ったがそのまま鞄を戻した。
「んー、じゃあまた今度ね。」
男が出してくれると言う時に固辞し過ぎるのもかわいくない、という友達のアドバイスを思い出しながら唯菜はいただきます、とお辞儀をした。
『また』という俊介の言葉に心の中では小躍りしながら、唯菜はベンチに座ってきゅっとペットボトルの蓋を開けた。 俊介が立ったまま微炭酸のスポーツドリンクの蓋を開けようとすると、シュワーと泡が勢いよく溢れ出した。
「うっわ!」
俊介は慌ててペットボトルを自分の体から遠ざけた。反射神経の良さのお陰か、服は汚れずにすんだようだったが、手は飲料水にまみれていた。
「いける?」
「おー。洗ってくる。」
ペットボトルの蓋を再び閉め、立ち上がって歩いていった。俊介の行った先には小さな手洗い場があり、彼は自分の手とペットボトルをいっぺんに水で流し洗った。
「走るからだよー。炭酸振ったら駄目じゃん。」
「戻るんに必死でつい走ってた。」
私を待たせないように走ってたってこと?
俊介の言葉に唯菜の脳内はまた過剰に反応してしまう。顔がついにやけそうになるのを懸命に押さえた。中身が減ったと嘆きながら俊介はペットボトルを交互に持ち替え、空いた手をぶんぶんと振って水を切りながら戻ってきた。
「ハンカチは?」
「忘れた。」
「えートイレ行ったときどうすんのよ。」 唯菜は鞄からハンカチを取り出して俊介に渡す。 「自然乾燥。」 俊介はペットボトルを自分の隣に置いてからハンカチを受け取って手を拭うとありがと、とハンカチを綺麗に畳んでから唯菜に手渡した。
唯菜はハンカチを受け取る時に、俊介のシャツの胸元にスポーツドリンクで黄色いシミが出来てしまっているのを見付けた。
「そこ、汚れてる。」
と指さして俊介に伝えるとすぐに立ち上がり、さっき俊介が手を洗っていた手洗い場に駆けていった。手にしたハンカチを濡らして軽く絞り、すぐにベンチに座った。
「ちょっとこっち向いて。」
俊介を自分の方に向き直らせると、カッターシャツの汚れた部分を濡れたハンカチで叩くようにして汚れを拭き取っていった。
「綿はね、すぐ取っとかないと残っちゃうんだよ。」
と説明しながら少しずつ薄くなる染みと賢明に格闘していると、染みはほとんど分からなくなりほっとする。と、同時に自分が俊介と今までになく接近していることに気付いた。唯菜の手はシャツの胸ぐらを掴んで引き寄せているようにも見える体勢になっていた。母の影響で少々潔癖性気味の唯菜は自分の服はもちろん、友達の服でもシミを作っているのを見付けると応急処置をせずにはいられなくて、つい条件反射のようにしてしまったのだが、急に恥ずかしくなってきた。
シャツばかりを見ていた目線を少し上げると俊介の顔があるはずだ。唯菜は顔を上げるどころか、視線を動かすことさえ出来なかった。
俊介は唯菜の説明に、ふーんと相づちを打ったきり、唯菜のされるがまま何も言わなかった。有無を言わせずしてしまったお節介とも取られかねない行動に、俊介はひいているのかもしれない、と不安になる。
「もういけるかな。」
できるだけ明るい声で言うと、俊介から体を離した。
「ちょっと濡れちゃったけど。たぶんこれで洗濯したら元に戻ると思うよ。」
目をあわせないようにそれだけ言うと正面に向き直った。俊介は、ほんとに取れてるよ、と普通に感心しているようだった。二人の距離に慌てていたのはどうも自分だけらしいことが分かると、安心する一方で暗くもなっていた。
俊介の何気ない一言や仕草に浮かび上がったり、落ち込んだりしている自分。唯菜は情けなくなってくる。
隣に座る俊介を窺い見るとペットボトルを一気に飲み干していた。さっき唯菜が濡らしてしまったシャツはまだ乾いていなかったが、ジュースの染みはここから見る限りでは分からなくなっていた。
「そういや、頭痛いける?」
俊介に尋ねられて、唯菜は公園に入ったときには後頭部に張り付いていたズキズキした痛みが殆どなくなっているのに気付いた。
「だいぶんましになったよ。ありがと。」
よかったと言いながらまたペットボトルに口を付けて勢いよく最後まで飲み干す俊介を眺めながら、今は試験前であることを思い出す。
「試験、勉強してる?」
「あー?してるわけないじゃん。部活ないとかえってだらけるんだよな。」
俊介がスポーツ飲料を一気に飲んだのは早く帰りたいという意思表示ではないかと唯菜は心中びくびくしていた。
うっとうしいと思われたくない。
その一心で帰りたいサインが出てるのかどうか、俊介のちょっとした表情や仕草の端々に引っかかっては一人で邪推していた。一言、帰った方がいいか、と聞けば、解決することだとは分かっていたが、はっきり答えられるのも怖くて、結局、口にはできなかった。
「井上は?」
「あたし?まだ。家ではほとんどやってない。」
中間試験前の期間になってから、3日。連続で俊介と一緒に下校している。20分足らずの短い時間だったが、つきあい始めてから1ヶ月経った今まで滅多に二人きりになることがなかったせいか、唯菜は俊介と別れ、バスに乗ってから睡眠に入るまで、俊介との会話を思い出したり、明日の会話の内容を想像してみたり、とにかく勉強はもちろん手にした小説や漫画も頭に入ってこない状態だった。
「さすが、余裕だね。」
唯菜は今の普通クラスでは試験の度にほぼ毎回トップだった。部活に熱心な俊介は中の下、もしくは下の上くらいのレベルらしくて教科によってかなりムラがある。
「ふふふ、まあねえ」
さすがに今回は色ぼけで成績落ちるかも、と思ったが口にはしない。もともと唯菜は周囲が想像しているよりも勉強時間は短い。塾にも行っていない自分がこの程度の勉強時間で普通クラスとはいえ上位をキープしていることを時々不思議に思う。ただ、それをそのまま出してしまうと嫌みな奴になってしまいかねないので、適当に勉強しているように見せかけていた。
「ああ、俺やばいわ!赤点とりそう。」
俊介はベンチの背もたれに半身を預けて大きくのけぞった。
「勉強しなさい。」
「うーん、だよなあ・・いや分かってんだけど、なんかたまに家に早く帰って部屋にはいるとさ、ほったらかしにしていた雑誌とかゲームとかが目に付く訳よ。」
「まず片づければ?」
「片づけてるよ、片づけ始めるといろいろ引っ張り出しちゃってさ、気付くと夜中になってんの。」
「んーまあでも分からなくもないなあ、試験前ってつい掃除とかしちゃうよね。」
「そうだろ?毎日こんなんでいつもより夜更かししてるってやばいよな。」
あーあと溜息を出しながら、上体を起こして俯き加減になると空になったペットボトルの蓋を開けたり占めたりし始めた。
夜更かし・・。
唯菜は俊介が授業中に居眠りをしていたことを思い出して頬が緩んだ。
「そういや居眠りしてたよね、ずいぶん余裕だなあと思ってたんだけど。」
「余裕ないし、寝てたせいで数学の重点ポイント聞き逃して・・・・って、忘れてた!井上、数学のノート貸して。」
俊介が唯菜の方に向き直ってお願いのポーズをしてきた。少し接近した顔にドキドキしながらもいいよと返事をしてノートを取り出すために鞄を引き寄せた。
「いや、今日はいいや。」
「えっなんで?」
正面に向いてしまった俊介の横顔を怪訝そうに見上げて、鞄を探る手を止めた。
「てゆうか、土日のどっちかに勉強教えてよ。」
えっ!?土日に勉強?!
「たぶんノート借りただけじゃわからんし。」
「えーでも数学なら藤山に教えてもらった方がいいんじゃない?」
試験前の休日に用があるわけもなく、バイトも試験前ということで休みにしてもらっている唯菜にとって、何の異論もないはずなのにすぐに承諾することができずに、つい自分の首を絞めかねないようなことを口走ってしまう。
「藤山?だめだめ、あいつの教え方ってスパルタってゆうか分からせようって気持ちないもん。バカ、マヌケとか言われて、けんかだよ。こないだなんか、結局ゲームして終わったよ。」
そのときの二人の様子が目に浮かんでつい笑ってしまった。
「試験前に勉強のじゃまになるかもしれんけどさ、だめ?お礼に昼飯おごるし。」
「ほんと?まあ、そこまで言うのなら教えてあげないこともないかなあ。」
全然だめじゃないのに、思わず仕方なさそうに答えてしまう。それでも俊介の気持ちが変わらなかったことにほっとしていた。じゃあ藤山に教えてもらうよとか言われてたら後悔しても仕切れない。
「ほんと?頼むわー。土日どっちでもいいよ、井上の都合のいい方でお願いします。」
調子よく頭を下げる俊介に何をおごってもらえるのか確認する。心の中では土日もどちらかではなく両方の方がいいんだけどなんて思っているくらいで、実際はおごってもらう物なんかなんでもいい、というかおごりなんかなくても全く問題ない。
頭の中と表面に出る言葉や表情が全く食い違っていることに唯菜はもどかしいような気がしながらも、そのスタンスを崩せば、俊介との関係も終わってしまうようで不安だった。 だから、いつもこんな風に気のないフリ、平気なフリをしてしまう。家に帰ってから何度反省しても、翌日にはきっと同じようなことの繰り返しなのだ。
雲の覆った空はさっきから同じような色で、時間の経過が分かりづらかったが、心なしか少し薄暗くなってきたようだ。携帯を開いて時間を確認すると17:34だった。
「何時?」
俊介が横から覗き込んできたので、5時半、と答えて画面を見せた。
「明日、雨っぽいね。」
携帯を鞄に戻してから空を見上げる。
「んー週間天気予報どおりならね。」
時間を見た俊介が帰ろうかと言わなかったことにほっとしている自分がいる。いつまでもここにいられる訳ではないし、後少しで別れなければならないのは分かっているが、少しでもこの時間を引き延ばしたい。
「雨だったらやだなあ。」
午前中は晴れていた空も5時間目が終わった頃から雲が広がり始め、今は空全体を灰色の雲が覆っていた。
「雨の日も自転車で来てるの?」
「雨の程度によるかな、小雨なら傘さし。ひどけりゃ歩き。」
もし明日雨が降っても一緒に帰れるのだろうか。傘をさして自転車を押すのは結構大変そうだ。徒歩なら問題ないか・・・。
さよならを言う前に明日の約束をしておきたい。テスト期間に入ってから一昨日と昨日は特に約束もしてなかったが、放課後いつものメンバーで少し話をしている内になんとなく二人で帰ることになっていた。だから今日、HRが終わった後すぐに俊介が自分の所へやって来たときは驚いた。そして本当に嬉しかった。俊介が唯菜と帰ることを当たり前だと思ってくれていることが分かって、やっぱり私たちはつき合っているんだと自信になった。ただ、すぐ後でその自信もべっしゃり押しつぶされてしまうようなアクシデントに見舞われたけど。
でも、それも週末の約束が結ばれた段階で完全に立ち直っている。

それから二人は公園を出て再び帰路に付いた。交通量の多くなった道路の歩道を他愛のない話をしながら歩いていく。唯菜の鞄はまた俊介の自転車のかごに収まっていた。
“明日雨が降っても一緒に帰れる?”
そんな簡単な一言がどうしても言い出せない。公園から、俊介と一緒に帰るとき限定で利用するバス停まではすぐだったが、バスが来るまでの10分位の間、俊介は帰らずに待っていてくれた。
つきあう前から俊介と唯菜の間で話題が途切れることは殆どなかったが、つきあい始めて二人きりになってもそれは変わらなかった。どうでもいい話、くだらない話、ネタは次々と展開されて、当初の話が何だったのか忘れてしまうほど、内容はめまぐるしく変わっていった。そんな会話の隙に明日の帰りのことを切り出そうと機会を狙っているのだが、会話が途切れない分、それは難しかった。何より俊介との会話は楽しくて、その目論みはすぐに頭の隅に追いやられてしまい、バスが視界の端に入ってきたときには目的をすっかり忘れていたことに気付いて焦った。
「あっ、きた。」
唯菜は車道との境ぎりぎりの所に進み出て手をあげて、バスに乗ることを表示した。このバス停は他の路線のバスも通るため、乗車意志をアピールしないとそのまま通過してしまうことがあるのだ。
手を上げながら、自転車にまたがっている俊介を振り返った。
「あした、雨降っても帰れる?」
バスのエンジン音に掻き消されないようにと意識しすぎたせいで必要以上に大きな声になってしまった。俊介はその声の大きさに驚いたのか一瞬空白の表情になったが、すぐに目が細くなった。
「いけるよ。」
唯菜は懸案だった約束をちゃんと取り付けられたことに安堵して自然と表情が緩んでいた。
プシュー、ガコン、と入り口の扉が弾むように開く。
「じゃね。」
手を振ると俊介は「おー。」と返して、軽く手を上げた。唯菜は入り口の階段を駆け上がりながら、自分の後ろ姿に向けられているであろう俊介の視線を意識していた。
運転手に定期を見せて通路を進みながら窓から俊介を見下ろすと、俊介と目が合う。別れ際にようやく出せた一言に費やした緊張のせいで忘れかけていた離れていくことへの寂しさが急に募ってきた。唯菜が手を振ると俊介ももう一度手を上げて見せてくれた。車内はサラリーマンやOLの帰宅ラッシュでかなり込み合っていた。このバス停の乗客は唯菜だけだったために、バスはすぐに発進する。あっという間に窓枠の中の風景からバス停の標識と俊介は消え去ってしまった。
目の前から消えたものを補うために、唯菜はさっきまでの会話をなぞっていく。
混雑したバスの車内だというのに、思わず顔がにやけそうになるのを落ち着けながら、唯菜は思っていた。
今日もきっと、ううん、絶対、勉強に集中できないや。
更に薄暗くなった窓の外は、街頭の明かりが柔らかく滲んだまま、次々に流れていった。