優 し い 手   


さしのべられた手を(5)

腕を掴まれて、唯菜ははっと我に返った。悠里の自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。目の前を大きな鉄の塊が走り去っていく。
「赤だよ。」
振り向くとすぐに悠里の顔があった。休みというのに、というか、休みだからこそ、なのか、今日も彼女の睫毛はきれいにマスカラで彩られていた。
「あ・・。」
「もう・・」
「ごめん。」
悠里の呆れたような声に唯菜が軽く頭を下げると、彼女は少し顔を緩めた。
「ゆい疲れてる?朝から補習だったのに。ごめんね。」
「ううん、それは平気よ。」
悠里は彼氏と会う約束をドタキャンされたらしく、せっかく駅前まで出てきてたのだからこのまま帰るのは癪だ、と補習中の唯菜にメールが送られてきたのだ。
唯菜の学校から一番近い駅前で待ち合わせして、ドーナツショップで昼食を食べた。悠里が割引券を持っていたのだ。しばらくそこで話をし、今は帰るためにバス停までの道を歩いていた。
ここしばらくの寒波が嘘のように暖かい昼下がりだった。ふと、学校にいるはずの後ろ姿を思い出して胸の痛みが蘇った。
「なんか、あった?」
「ううん、別に。ちょっと寝不足かな。」
最近の悠里は特に鋭い。
「ふーん・・・。」
悠里からの視線を感じながらも、唯菜は青になった横断歩道を渡り始めた。零れそうになった溜息を飲み込んで、悠里の誘いに乗ったことを後悔していた。でも、メールが来たときは、こんな気分ではなかったから仕方ない。
「あんまり食欲もないみたいだし。」
「それは、朝食食べすぎたんだって。」
苦笑しながらドーナツを注文する時と同じ答えを返す。
「ほんとに?中村のことで何かあっがんじゃない?」
悠里は俊介と唯菜の関係を非常に気に掛けている。彼女の前で唯菜が泣いたことが余程驚きだったのだろう。
「うーん、まあ、クラスが離れたからね。」
全否定も余計に怪しまれるかと思い、差し障りのない部分を口にする。
「え、クラス替えってまだでしょ?」
「うん、そうなんだけど、春休みの補習から、理系文系別で成績順のクラスなんだ。俊介、3年は理系に変わるから。」
そうなんだ、と悠里は納得したように頷く。やっとロータリーに辿り着いた。先に見えるバス停に、人はいなかった。
「ちゃんと話しないの?」
悠里の問いかけには主語も目的語もなかったが、彼女が何を言いたいのかは嫌というほど伝わってきた。
「もう今更だもの。」
唯菜は時刻表を覗き込んだまま答えた。じっと見詰めてくる悠里の視線から逃れるようにして、携帯を開けて時間を確認する。悠里は最近、メールの度にこの問いかけを投げかけて、その度に唯菜は否定している。
「あと10分も待たなきゃ。」
悠里に笑いかけたが、彼女は探るような視線で唯菜の顔を見るだけで、返事をしなかった。不穏な沈黙に、唯菜は思わず顔を背けた。
「美咲だっけ、あのゆいの友達の、やっぱり中村のこと何ともなかったんでしょ。別の子好きだったって、本人に聞いたんじゃない?」
突然の悠里の言葉に唯菜は目を見開いた。美咲から聞いた藤山との話は誰にもしていない。だから、悠里の中では、美咲と藤山の話は唯菜の推測ということで留まっていたはずだ。なぜ分かったのだろう。
「だって、ゆい、いつも『私が思っただけだし、まだ確認していないし』って言ってたのに、今日はそれ言わないから。」
「・・・・・。」
妙なところで悠里は鋭いのだ。唯菜がすぐに否定すればよかったと思ったときには、もう余りにも時間を置きすぎていた。
「誤解だったんだから、ちゃんと説明しなきゃ。まだ好きなのに、このままなんて駄目だよ。」
悠里とは身長がほぼ並んでいるせいか、真正面から合った目線を逸らせなかった。きっぱりと言い切られると、迷う心がまた頭をもたげたが、学校を飛び出す直前に見た光景も蘇って、余計に苦しくなる。全てを振り払うように唯菜は頭を振った。
だってどうしようもない。
「なんで?このままでいいの?」
「俊介に、迷惑かけたくないもん。」
「迷惑なわけないって。」
覗き込んでくる悠里の視線に、小声でした反論はあっさりと打ち消される。唯菜はまた顔を俯かせた。泣きそうになっている自分に、唯菜は焦っていた。
「早く話しなきゃ、ほんとに手遅れになっちゃうよ?ね?中村も絶対ゆいのことまだ」
「もう手遅れなんだってば!」
悠里の言葉を途中で遮った自分の声は予想外に大きかった。呆気にとられている悠里の表情に、唯菜ははっとした。
「ご、ごめん。」
「私こそ、ごめん。」
謝り合ったところで、ちょうど二人の乗るバスがロータリーに入ってきた。
停まったバスに乗り込むと、悠里は気を取り直したようで、全く関係のない話を始めた。もう俊介の話も出てこないだろう、と思って、それが本当に自分の望んでいたことなのかどうか、唯菜は分からなくなった。
今日は、自分の行動が余りにも情けなくて、悠里にも話することなく済ませようとしていた。でも、落ち込んでいるのは隠し通す余裕のないまま、本気で心配してくれている彼女に、八つ当たり気味な事をしてしまった。
揺れるバスの中で、悠里はバス停でのことは全く気にしていないように、小声で姉の話を続けていた。
唯菜は今日の下校直前、校内で、俊介の後ろ姿から逃げるように立ち去ったことを思い出していた。

春休みの初日、唯菜が向かった補習の教室に、当然、俊介の姿はなかった。
唯菜と同じ補習クラスには、進路を変更した藤山がいたが、俊介が補習中に彼の所に来ることもなかった。
補習が終わってから何となく藤山と並んで靴箱の方へ向かう。同じ教室に藤山の姿を見付けたときは美咲からの話を聞いた翌日だったせいか、幾分近付くのにも気後れもしたが、いざ話し始めてみると、それまでと変わることなど何もなく、杞憂に過ぎなかった。
「英数クラスに混じるのって、なんてゆうか肩凝るな。」
周りを憚ったのだろう、藤山の小声の耳打ちに唯菜は思わず苦笑した。
「確かに。」
純粋に成績順で区切られると、唯菜達のクラスはほぼ英数クラスの生徒で占められていた。
「藤山君、なんか注目されてたよね。」
「あ、やっぱり。なんでお前がいるんだよ、的な?」
「うーん、というよりは勉強もできるなんて、ス・テ・キ・的な。」
「なにさ、その『ス・テ・キ』って。」
さらりと流してしまう藤山は、やはり人、特に女子から注目されることに慣れているといった余裕がある。美咲の『うわてだった』という言葉が頭を過ぎって、思わず上目で整った顔立ちを確認してしまった。
階段を降りて理系クラスのフロアに降り立った時、行き先の渡り廊下とは逆方向の廊下を見やった。隣の藤山も同じ方向を見ている、と感じたとき、すぐ先に、求めていた横顔が見えた。
思わず声が出そうになるのを堪え、そちらに体を向き直しかけて初めて、彼が笑っている先に同じように笑っている女生徒がいるのに気付いた。心臓の高鳴りが途端に違う色を帯びる。
「あ、中村。」
藤山も唯菜の視線の先の存在に気が付いたのだろう。彼の名前を呟くと、そちらに進みかけた。
「私、急いでるから、帰るね。バイバイ。」
くるりと身を翻して、唯菜は渡り廊下へと駆け出た。自分を呼ぶ藤山の声がしたような気がしたが、足は止まらなかった。
自分でもよく分からなかった。
遠目に見えた笑顔の女生徒は見知らぬ顔だった。理系の生徒なのかもしれない。二人きりで話していた訳でもなかったのかもしれない。俊介の周りには数人に生徒がいたような気がするが、そんなことを確認する前に、唯菜の足は逆方向へと動いていた。
なぜその場に留まらなかったのか。自分一人でいたならともかく、隣には藤山も居たというのに。藤山と二人で俊介に声をかけても何もおかしくなかったのに。
それをあんな風に避けてしまうなんて、逆に意識しているとアピールしているようなものだ。
藤山はどう思っただろう。
あの後、彼は俊介と話したんだろうか。
そこに自分の名前は出てきたんだろうか。
「ゆい、押さないの?」
言われて初めて、もうすぐ自分の降りるバス停だと気付いた。慌てて、腕を伸ばした。高調子な音が車内に響き、信号に止められることなくバスは進んだ。
隣から物言いたげな視線を感じたが、それを遮るように立ち上がった唯菜は笑ってバイバイ、と手を振った。
別れ際の悠里の表情から、もしかしたら、メールでまた俊介の話が出るかも、と思ったが、悠里からのメールは途絶えた。

翌日、補習の教室で会った藤山は、前日のことには何も触れなかった。
想像通りの対応に唯菜は安堵した。よかった、やっぱり藤山君はクールだ、と再認識する。その一方でどこか落胆している部分が一欠片、確かにあったのだが、唯菜は注意深くその感情を拭い去った。
俊介も見かけていない。春休み一日目に俊介を見かけた辺りで、つい視線を巡らせてしまうが、それは素早く一瞬だった。見たいような見たくないような。彼の姿を一目見たいという慕情と、彼が自分以外の女子と仲良くしているかもしれないという懸念が入り混じる。
俊介は文系から理系へ異例の進路変更をした。馴染みのない環境へ移る心細さを彼なりに感じていたのかもしれない。それが、あの『遊んでよ』という終了式の言葉に表れていたのなら、素早くクラスに馴染んでしまった彼に、もう自分という存在は必要ないように思えた。
そんなことで臍を曲げている自分が酷く子供っぽく感じた。好きな人の幸せを喜べないなんて最低だ、と自己嫌悪に陥ったが、それでも今は受け入れることはできなかった。
補習のたびに、こちらから動かなければ彼と会うことはないのだという事実を実感する。それはずっと前から分かっていたことだ。一年の時も俊介とは違うクラスだったのだから、こんな状況にはすぐ慣れるだろう。ただの顔見知りとして挨拶をする機会さえ、少ないだろうけど。でもきっとその方がいい。
唯菜は三月最後の日、早月と校門を出ながらそう思った。そう思いこもうとした。
その日で春休みの補習は終わりだった。
「寒いよね、明日から四月なのに。」
「ほんと、桜も全然だよね。」
二人で全く綻んでもいない桜の木を振り返ってから、学校を後にした。

唯菜は自転車を漕いでいた。明後日は始業式という日の午後だった。昨日悠里から久しぶりのメールがあって明日カラオケに行こうと誘われたのだ。春休みの初日、彼女に八つ当たり的な言葉を投げつけてしまい、それから音沙汰がなかったので、唯菜はやはり怒らせてしまったかと不安だったのだが、彼女からのメールは明るいものだった。すぐに了承のメールを送ると、時間がはっきりしないから、明日また電話する、という返信が来た。
そして、今日、悠里からの電話があってすぐに、家を出た唯菜は待ち合わせの場所に自転車を走らせた。
4月に入ってから、ほとんど外出をしていなかった。ずっと家にこもっていたから、さすがの母も出かけることに渋面を作ることはなかった。
待ち合わせ場所は唯菜の通う南高校で、時間はもうすぐ3時になろうとしていた。なぜそんなところで待ち合わせなのか、それに、遊び始める時間としては遅いスタートだな、と違和感を感じたが、きっと悠里も今まで何か用事があって外出していたのだろう。もしかしたら南高の近くに彼氏の家があると言っていたし、彼氏の家に行っていたのかもしれない。それならば、高校の近くにはカラオケの入った複合遊技場もあるし、中途半端な時間になってしまったのも頷ける。
4月に入ってからも肌寒いが続いていたが、昨日から一転して気温が上がった。顔に当たる風が気持ちいい。これなら、学校までの結構な距離も楽かもしれない、と勢いよくペダルを漕いだ。
気付けば俊介の家の近くだった。ドキドキしながら、何度か利用したバス停の脇を擦り抜ける。待ち合わせが高校と聞いて、一番に、唯菜は俊介の顔を思い浮かべていた。もしかしたら彼を見られるかもしれない、という期待。しかし唯菜はすぐにそれを打ち消した。期待して、それが外れたら、例え小さな事でも落胆してしまうだろう。唯菜はがっくりするくらいなら初めから期待しない、と言い聞かせていた。それでも無意識の内に視線を巡らせてしまうのは避けられなかった。
高校の校門が見えてきたとき、唯菜は軽く息を弾ませていた。
ゆうちゃんは正門でいる、と言ったはず、と思い出しながら、唯菜は半分だけ開けられた学校の門の前で自転車を止めた。余り人気はない。門の向こうに続く並木道の右側は駐車場、反対側に体育館があった。グラウンドは体育館の奥にある部室棟の更に向こう側で唯菜の位置からは見ることはできず、サッカー部が練習をしているかどうかは分からなかった。しかし、微かに運動部らしき掛け声が耳に入届き、唯菜は自転車を降りると見えるわけもないのに、思わず体育館の向こう側へと顔を巡らせた。
「ゆい!」
どこから出てきたのだろう、悠里は校内の並木道を歩いて来た。まさか彼女が校内に入っているとは思わなかった唯菜は驚き、お互い私服なのにいいのだろうか、と遠慮がちながら、門を通りすぎた。
「こっちこっち!」
「ちょっとゆうちゃん、制服じゃないのに、やばくない?」
「そんなの平気よ。」
駐車場に停まっている自動車は教師が校内にいることを物語っていた。自校とはいえ戸惑う唯菜の腕を、他校なのに、全く意に介してない悠里は掴んで離さなかった。
唯菜は自転車を引いまま、まだ芽吹いていない銀杏並木を悠里に引っ張られて進んで行った。
「えっ、ちょっと!」
思いの外、声が響く。
「どこ行くの?カラオケは?ねえ・・・」
唯菜が声のボリュームを落として問いかけたとき、前を行く悠里の肩の向こう、ちょうど部室棟と体育館の間に人の姿が見えた。唯菜の声が尻切れに止まる。足の止まってしまった唯菜の腕を掴んだ悠里の手に力がこもった。
「ゆい、ごめん。でも逃げてちゃ駄目だから。」
「え、え、ゆうちゃん?」
引き摺るように動かされる先にいる彼も、こちらに歩いてきた。唯菜は呆然と彼を見ていた。
彼女達の方に近付いてきたのは俊介だった。

<2011.4.11>