優 し い 手   


さしのべられた手を(4)

3月は、卒業式、学年末テスト、学力テストがあり、その間にも、高校入試のため、成績判断のため、と臨時休校が相次ぎ、お弁当を持って登校した日はほとんどないほどだった。
「あーいっけない!」
「なに?」
隣を歩いていた美咲が話の途中で大声を上げた。
「奈津美に借りたCD忘れてきた。」
突然立ち止まった二人を下校する生徒が追い越していく。もう靴箱はすぐそこだった。
「ちょっと取りに行ってくるから、ゆい、靴箱で待っててよ。」
私も行く、と言いかけた時には、美咲は身を翻して掛けだしていた。
「分かった。」
唯菜が言うと、手の平だけをヒラヒラさせて、美咲の後ろ姿は渡り廊下の方へと見えなくなった。今気付いてよかったよなあ、と唯菜は苦笑する。美咲は補習を受けていないから、次に学校へ来るのは来月の始業式、どこに忘れたのかまで聞かなかったが、机の中にしろ、ロッカーにしろ、取り残されたCDが教師の目に止まらずに、新学期まで無事にあるとは思えない。それに春休みの補習は文系理系を別にして成績順にクラス分けをするから、他のクラスの生徒の目に触れる可能性だってある。
唯菜は靴箱に辿り着き、脱いだ上履きを靴箱に入れた。ふといつもの習慣で自分の靴箱の右隣、二つ上の靴箱を見る。その中は上履きだけになっていた。教室には俊介の姿がなかったし、もう下校しているのだろう。もしかしたら部室にいるのかもしれないが、サッカーの練習があるのかどうかさえ、唯菜は知らなかった。
もうこんな風に靴箱を確認してしまうこともなくなるなあ、と唯菜はつい、出てしまいそうになる溜息を押し留めて振り返ると、外靴をタイルの上に置いた。俯いて靴に足を押し込んでいると、正面から足音が近付いてきた。クラスメートだろうか、と顔を上げた先にいたのは、買い物袋を提げた俊介だった。
「今帰り?」
外から入ってきた俊介は、唯菜がいることに気が付いていたのだろう。唯菜はちょうど頭に思い浮かべていた姿を目の前にして、どぎまぎしていた。
「う、うん。えっと俊介は?」
二人きりで話をするのは久しぶりだった。それこそ登校さえすれば、姿は常に確認できるし、簡単に会話する機会を持てたが、常に傍には誰かがいる。唯菜は突然のことに緊張を隠すことができなかった。
「12時半から特別補習。ダッシュで買ってきた。」
俊介は裏門の方を指差した。彼の手に持っている買い物袋には、裏門の向かいにあるコンビニのマークが大きく描かれていた。
「へえ、今日もなんだね。」
「ん、春休みも普通の補習とは別にあるよ。何とか3年に間に合うってさ。」
3年で文理変更をする俊介は、もう一人同じ変更をする生徒と一緒に理数系の特別補習を受けている。やっぱり俊介が理系のクラスに行くことは変わらないんだな、と思って唯菜の胸は一瞬つきりと痛んだ。
「すごいね、3ヶ月で1年分だもんね。」
「まあなあ、ちゃんと頭に入ってるか心配だけどな。」
微かに唇の端を歪めて、苦笑しながらも、そこに充実感が見て取れて、唯菜は一瞬でも彼が理系に行くことに不満を感じた自分が恥ずかしくなった。
「心配ないよ。俊介って数学センスあるもん。」
罪滅ぼしのように言った唯菜の言葉に、俊介は満更でもないという笑顔を浮かべて、サンキューと言った。
「井上、一人?」
「え、ああ、美咲が忘れ物したって取りに行ってるから、待ってるの。」
「そっか。」
俊介は納得したように頷くと、俯いた。スニーカーを脱ごうとしない俊介に、唯菜は自分が邪魔になっているのだろうか、と体を横にずらせて空間を取ろうとした。
「またさ、みんなでどっか行けたらいいな。」
唯菜は動かしかけた足を止め、俊介を見上げた。
反射的にうん、と頷きかけたが、思いの外、真面目な俊介の表情に、緊張の緩みかけていた唯菜の心臓が震えた。
「カラオケとかボーリングとか。・・・遊園地とかさ。」
思わず凝視してしまった唯菜の視線の先で、俊介の表情が緩く崩れた。
「俺一人理系になっちゃうし。また遊んでやってよ。」
「うん。もちろん。」
自分の固まった視線が俊介に苦笑いさせたのを悟って、唯菜は殊更に明るく返して見せた。離れるのが寂しいとも取れるようなことを言われて、唯菜はドキドキしていた。もちろん俊介の言っているのはクラスの仲の良いメンバーで、唯菜を指している訳ではないことは分かっていたが、それでも、自分がその対象の端くれだと思えるだけで十分に嬉しかった。
その後、クラス分けのことで話をしている内に、美咲が足音もけたたましく戻って来た。俊介と唯菜が揃って彼女を振り返ると、明らかにしまった、という表情を浮かべた。
「美咲、遅いよ。」
唯菜が声を掛けると、美咲は気まずそうな表情を一変させて、ごっめーんと大袈裟に両手を合わせて見せた。
「じゃあな。」
俊介はスニーカーを脱いで上履きに履き替えると、教室の方へと駆けていった。その様子に唯菜ははっとして携帯を取り出すと、時間は12時15分になっていた。
俊介は、唯菜が一人にならないように気を遣って、補習までの時間が押しているのに、話につきあってくれたのだ、と気付いて泣きそうになった。
「ごめん、もうちょっと遅く来ればよかった。」
唯菜の表情が暗くなったのに気付いたのか、美咲が本当に申し訳なさそうに謝ったので、慌てて首を振った。
「まさか。補習、12時半からなのに付き合わせちゃった・・・。」
「補習?」
「文理変更の特別補習。」
美咲の怪訝な表情はすぐに納得顔に変わった。
「中村なら、コンビニ弁当食べるのなんて一瞬だし、十分間に合うって。」
「そうだね。」
俊介の心遣いに気付けなかったことは悔やまれたが、それを引きずって美咲にいらぬ心配を掛ける訳にはいかない。唯菜は表情を切り替えて、美咲と昼ご飯をどこで食べるかの相談を始めた。

「ま、私には手に負えなかったって感じかなあ。」
安いランチを狙って入ったファミレスで、藤山のことを話す美咲は自嘲気味に薄く笑っていた。
「同じ学校の子と付き合うつもりはなかったみたい。たぶん、私なら、軽く遊べるかなって思ってやっちゃったのが、予想外にこっちが本気になっちゃって、向こうも焦ったんだろね。」
「やっちゃったって?」
思わず聞いてしまったのを後悔したのは、美咲がしまったという表情をしたからだった。
「ちょっとね、成り行きでエッチしちゃったのよ。」
「そうだったんだ。」
唯菜はもうそれ以上、突っ込まなかった。美咲が唯菜に秘密にしていた理由が分かったような気がしたからだ。二人は言葉もなく、空になったお皿に目を落とした。
「あいつって、女の扱いに慣れてるじゃん。うちの学校じゃ珍しいよね。私も年上とばっかり付き合ってきたから、お互いなんか試してみたかったんだよね。どれほどのもんかって。・・・ま、向こうが上手(うわて)だったってとこかな。」
声もなく笑う美咲に、唯菜は頷くだけだった。掛ける言葉が思い付かない。
美咲は、興味本位だったことを強調しているが、きっと本気で藤山を想っていたのだろう。しかしそれを問い正したところで、じゃあどうすればよいのか、というアドバイスなんてできるはずもない。
そもそも唯菜にはそういう経験が圧倒的に不足している。付き合ったのは俊介だけで交際期間も4ヶ月と短く、デートも数回で終わってしまった。キスだけで舞い上がっていた唯菜は、『やっちゃった』という言葉だけで、顔にこそ出さなかったが、軽く混乱していた。
「いつ別れたの?」
「うーん、・・・付き合ってたわけじゃないしなあ。二人で会うのをやめよう、って言われたのは2月入った頃かな。」
「そうなんだ。」
付き合ってはいないけど、二人で会って、エッチもしてた、ということを唯菜はやっぱりうまく消化できなかった。そういうこともあるのかな、とは想像できるが、あくまでも小説やドラマの世界での話だ。でも、目の前の親友とクラスメートの男子はそういう関係にあった。
「軽蔑した?」
美咲の言葉に、唯菜は慌てて頭を振った。
「まさか。・・・大人だなあとは思うけど。」
大人かあ、と美咲が呟いた。唯菜はそれ以上の言葉をうまく思いつけず、決まり悪さに視線を泳がせた。平日の昼時、店内は大勢の客で溢れている。向き合って座る男女の姿も混じっていた。ちょうど正面に見えた制服を着崩した高校生らしきカップルも、もしかしたら付き合っている訳ではないのかもしれない、そんなことをふと想像してみる。
「大人と言うか・・・、たぶん、藤山は誰のこともそんなに好きじゃなかったんだと思う。私と会ってた時も、なんか年上の女の人とかと連絡取ってたみたいだし。誘われれば行く、でもめんどそうなのは勘弁、て感じ?私もそういうのでよかったはずなんだけどねえ・・・なんかさ、好きな子ができたみたい。」
「え、誰に?」
「藤山。付き合ってはないはずなんだけど、香蘭の子らしくってさ。藤山が進路を国立に変えたでしょ?それもその子に言われたからだって。まあ中川から聞いた話だから、よく分かんないんだけどさ。」
そこに中川の名前が出てきたのが不思議で尋ねると、その香蘭女子の生徒というのはもともと中川の知り合いだったらしく、その関係で藤山と彼女が顔を合わせたということだった。
「ま、私の推測だからさ、藤山に聞いてもそんなんじゃないって言うけど、本当に好きなんだろうなって分かっちゃった。分かったらそっかって諦めがついた。誰のことも好きじゃないんなら、そういうままで会うこともできたのにね。」
寂しそうに笑った美咲に、唯菜はやっぱり口を開くことができなかった。
「秘密にしててごめんね。」
唯菜は言葉の代わりに、また大袈裟なほどに頭を振っていた。視界が潤んだのは、頭を振ったせいだと言い聞かせながら、目を見開いて美咲を見た。
「やっぱ内容が内容なだけに、言いにくかったし。」
特に奈津美にはね、怒りそうだもん、あの子、と美咲が弱々しく呟くのに、唯菜は何とも返せず、意味もなく頷くだけしかできなかった。

家に帰ってから、もっと美咲を元気づけるような言葉を言えばよかったと後悔した。藤山との恋愛を推奨するようなことはさすがに言えないが、美咲ならまたすぐに出会いがある、と前向きに励ますことならできただろう。
美咲がせっかく打ち明けてくれたのに、生返事しかできなかった。自分の機転のきかなさに、唯菜は落ち込みながら、のろのろと衣服を替えた。
脱いだ制服をハンガーに掛ける。明日から春休みだが、ほぼ毎日、補習があるから、制服を着ることになる。
美咲と藤山に何かあった、という推測は当たっていた。俊介のことを確認してはいないが、やっぱり、自分の勘違いだったのだろう。
唯菜はベッドに俯せに倒れ込んだ。枕の上に組んだ腕に顔を埋めると、後悔の念が押し寄せてくる。
どうして自分から別れるようなことを言ってしまったのだろう。
どうして美咲か俊介に確認しなかったのだろう。
なぜ、二人のことを信じられなかったのだろう。
どんなに後悔したところで、自分がしてしまったことなのだ。
唯菜は長い時間、ベッドの上で伏せていた。
「あーあ。」
唯菜は思い切って声を出すと、体を起こした。顔を当てていたトレーナーの袖に染みが残っていた。
その袖口を引っ張って、目をこする。硬い素材のせいで走った痛みに、悠里を思い出した。ここに悠里がいたら、濡れタオルを持ってきてくれるかもしれない。
でも、悠里に美咲から聞いた話も、自分が死ぬほど後悔していることも、話さない、と決心していた。
たぶん悠里に言えば、もう一度俊介に話をするべきだ、と後押しをしてくれるに違いない。彼女に強く言われる内に、思わずその気になってしまうかもしれない。
でも、それは絶対しちゃいけない、と唯菜は思う。
もう、俊介に迷惑をかけたくない。
俊介は中学の時の話をなかったことにしたがっている。お礼を言ったときの彼の困惑した様子が蘇る。それを目の当たりにしてショックを受けた自分も。
ショックを受けたことが顔に出てしまった唯菜を傷つけないように、必死になって俊介は言い繕っていた。優しい彼。もうあんな厄介事を彼の元へ持ち込みたくなかった。
いつ顔を合わせても笑って話せるような、気兼ねなく付き合える友達でいたい。
また遊んでやってよ、と言った俊介の言葉を、反芻しながら、既に染みが乾いてしまったトレーナーの袖をぼんやりと見下ろした。

<2011.3.30>