優 し い 手   


さしのべられた手を(3)

唯菜は早月と別れ、目当ての靴箱に上履きが入っていることを確認すると、正面玄関を出た。来た道を戻ると、校舎に隠れるようにして立つ。そこからは自転車置き場からやってくる生徒も、玄関に入っていく生徒も一望で確認できた。
壁際の目立たない場所だったが、体育館に跳ね返った風がもろに当たって、スカートがまくれ上がりそうになった。今日は風が強く、外で突っ立っているには不向きだったが、唯菜は寒さを余り感じていなかった。
目の前を校門から入ってきた生徒がときたま通り過ぎていくが、唯菜に目を向ける者はほとんどいなかった。
週末が明けての月曜日、今日から俊介が登校してくるはずだった。昨日の夜、奈津美からの電話で唯菜はそれを知った。唯菜はこちらに向かって歩いてくる生徒に目を凝らせながら、心臓が異常な高鳴りをさせていることに必死に耐えていた。
昨日、奈津美は唯菜の後押しをしてくれた。
お礼を言うだなんて今更だろうか、と尋ねるとそんなことはない、と言ってくれた。そう、奈津美は最後に応援してくれた、と自分を鼓舞しながらも、また別の奈津美の言葉を思い出してしまう。
『卓也に怒られた。余計なこと言うなって。』
余計なこと。
奈津美の彼氏は俊介側にいる。その卓也が、中学時代の話、唯菜を歓喜に舞い上がらせた事実を、余計なこと、と表現したその意味。
『中村は、言っちゃったもんはしゃーないって許してくれたらしいんだけど。・・・昔のことだし、気にしないでって伝えてくれと卓也経由で伝言です。』
そう、確かに昔のことだ。分かっている。
俊介にとっては昔のことでしかなくて、せっかく隠していた事実を唯菜が知って、彼の気持ちを勘違いしてしまうことを恐れているのだろう。そんな馬鹿じゃない、と思いながら、危うく、そうなりかけていた金曜日の衝動的な自分を思い出して恥ずかしくなる。思い留まってよかったと心から思える。
今からしようとしていることも、本当はしない方がいいんだろうか。
また決心が鈍りそうになる。このまま、俊介の登校を待つことなく、教室に向かった方がいいんじゃないだろうか、と体が動きそうになる。そうでなくても、彼が休む前の数日間、言葉を交わすどころか、視線さえ合わされなかった。
(どうしよう、話しかけて無視されたら・・・。)
不安が募る。
でも俊介なら、話しかけてきたのを無視するようなことはたぶんしない。彼はそんな人じゃない。たぶん、心の中で、なんだよ、と鬱陶しく思っても、それをあからさまに態度に表すようなことはないだろう。
だから、やっぱり、せめてお礼だけでも言いたい。
それだけは、この週末、右往左往する思考の中で、唯一最後まで残った望みだった。例え過ぎ去ったことだとしても、今とは無関係だとしても、自分が救われた事実は事実で、それに対して有り難く思うことは否めない。彼のしてくれたことで、自分が行き詰まらずに済んだことの全てを事細かく伝えるつもりも、その先に続く気持ちを押し付けるつもりもない。
ただあの時はありがとう、と一言。
今頃何を言っているのだと思われるだろうか。
『そんなの気にしなくていいって。唯菜は知らなかったんだもん、お礼の言いようがないじゃん。唯菜に感謝されてるって知ったら、中村も報われるって。』
もう一度、奈津美の言葉を繰り返す。報われるというのは語弊があるとは思ったが、迷惑に思われることはないだろう。お礼を言うだけなら。
ぐるぐると無益な迷いに苛まされながら待っている時間は、とてつもなく長く感じる。携帯を開けて時刻を確認すると、予鈴まであと10分程の猶予があった。校門を通りすぎてからどれほどの時間も経っていない。唯菜は携帯をしまいながら、自然と込み上げた息を体外へと吐き出した。
「あ・・・。」
自転車置き場から続く道の向こうに見慣れた姿が見えた。表情は愚か、顔がどこを向いているかもよく分からないほどだったが、その姿形が彼だと言うことは間違いない。
そう、自分が間違えるはずがない。
唯菜はゆっくりと歩き出した。まるで今来たというような顔をして正面玄関の方へと向かう。前から近付いてくるはずの俊介の方を敢えて見ないようにして、開け放たれたドアから校舎内へと入った。唯菜達のクラスの靴箱には誰もいなかった。できるだけゆっくりとした動作で上履きに手をかけた。神経を集中させた背の向こうから、足音が近付いてくる。それが斜め後ろで止まった時、唯菜は振り向いた。俊介だった。
「おはよう。」
目が合ったのと、唯菜が挨拶をしたのはほぼ同時だった。声が裏返ってしまった、と思うと、必死に作った笑顔が引きつってしまう。俊介の目が一瞬見開いて視線が落とされた。
「はよ。」
ぼそりと返されたそれと俯いた輪郭に、覚悟が萎えそうになる。唯菜が靴箱に向き直り、出しかけていた上履きを床に置くと、俊介が右隣に立った。上履きを取ろうとしているのが気配で分かる。
「インフルエンザ、治ったんだね。」
唯菜は上履きに足を入れながら、横目で俊介を窺った。
「ああ、なんとか。」
返事が返ってきたことに、思い切って唯菜が顔を向けると、俊介はスニーカーを靴箱に突っ込んでいた。大きなスニーカーを無理矢理突っ込むようにしている。
スニーカーを靴箱に収め、上履きを履いてもなお、こちらを全く見ない俊介に、唯菜は想像していたこととはいえ、心細さと焦燥が増してきた。
「あの、中学校の時のこと。」
立ち止まったまま、俊介がちらりとこちらを向いて、また俯いてしまった。早く本題を、とばかりに、思い切って口にしてみたが、唯菜の覚悟とは裏腹に気まずさが増す。口止めしていた事実が知られてしまったことに困惑しているのが伝わってくる。唯菜がとんでもないことを言い出すのではないかと危惧しているのかもしれない。
しかし、お互いに目を合わせないまま、黙りこくっていては意味がない。唯菜は、お礼を言うだけなのだから、と気力を振り絞った。
「あの・・・いろいろとありがとう。」
視線は俊介の上履きの辺りを彷徨っていたが、はっきりと言い切った。俊介がぱっと顔を上げたのが分かって、唯菜も視線を上げた。
「たぶん、学校休まずに卒業できたのって俊介のお陰だと思う。ほんとありがとう。」
「え、そんな大したことじゃないし。」
彼があらぬ方を見てそう言った。困惑しているのが伝わってくる。やはり今更のようにお礼を言われるてもどう対処していいのか分からないのだろう。大袈裟にしたくない、というのが本音なのかもしれない。
「ごめんね、今更こんなこと言って。」
「あ、いやいやいや、謝るようなことじゃなくて。・・あー、そう言ってもらえて嬉しいから。ほんと。」
慌てて彼は弁明を始めた。
「ただ、なんてゆうかさ、もう気にしないでよ。ほら、中学の時のことだしさ。」
必死に並べ立てる俊介の様子に、唯菜は何と言っていいか分からなかった。ただ、自分にしてくれた過去の気遣いをなかったことにしたいのだな、というのは通じた。
「うん、昔のことだもんね。」
唯菜は無理矢理、笑うしかなかった。俊介は相変わらず当惑しているようで、自分の行動が彼を困らせてしまったことに泣きたくなってきた。ちょうど、同じクラスの男子生徒が二人、靴箱から現れた。俊介達を見て、おやっという顔をしながらもそのまま過ぎていく。もう教室に向かった方がいいのかもしれない。
「そろそろ行かなきゃ。引き留めて、ごめんね。」
唯菜は崩れそうになる表情を隠すように、向きを変えて歩き出した。ああ、と返事とも感嘆ともつかぬような声を上げてから、俊介が大股で唯菜の隣に並んできた。唯菜は目をしばたたかせた。
「あのさ、なんていうか、ほんと自己満足だったからさ、井上に感謝されるようなことじゃないっていうか、いや、嬉しいんだけど、そんな大袈裟なことじゃないっていうか・・・。」
俊介は歩き出しても言い募った。唯菜の落胆が伝わったのかもしれない。もう十分だ、と思った。
「分かってるよ。」
唯菜は俊介を見上げて笑ってみせた。
彼はぽかんとした顔で、こちらを見下ろしていたが、構わずに唯菜は続けた。
「インフルエンザ、早く治ってよかったね。」
もう予鈴が鳴るのだろう、廊下を行き来する生徒がたくさんいて、並んで歩く二人の間は自然と接近していた。
「ん?そうか?」
「うん、美咲はまだ今日来れないって言ってたもん。」
「東條・・・?」
何も考えずに美咲の名前を出したが、俊介は訳が分からないといった風に眉を寄せた。
「えっと、美咲もインフルエンザなの。俊介と一緒の日に休み始めたんだけど・・・。」
もしかして知らなかった?と尋ねると、彼は初めて知った、と驚いていた。
「火曜にさ、なんか体が痛いし、熱出てきたし、これやばいかもってすぐに病院行ったんだよ。検査しても反応出なかったんだけど、医者に友達がなってんなら、早く飲んだ方がいい、って薬出されてさ。なんかさインフルエンザって早く薬飲むと楽に終わるらしいよ。俺は熱もすぐ引いたし。そういや、藤山も先週1週間休んでたんだろ?」
「あ、そうそう。」
「あいつと復帰が一緒になっちゃったよな。」
そうだね、と答えて、二人は階段を上り始めた。美咲と同じ日に同じ病気で休み始めたことに警戒心を抱いていたことが馬鹿馬鹿しく思えた。
たぶんそういうことではないのだ。第三者のことばかりを気にしていたが、結局は自分と俊介、二人の間でいろんなことが変わっていく。ただそれだけのこと。
「久しぶりに外出たけど、寒いな。」
「そりゃ、その格好じゃね。」
俊介は病み上がりにも関わらず、今日も薄着だった。制服にネックウォーマーと手袋。
「そういう井上は、まるで病気中のように、着膨れてんね。」
「だって寒いもん。無理したら風邪引くでしょ?」
唯菜はいつものようにダウンジャケットにマフラー、手袋、タイツとストッキングの二枚重ねとありったけの重ね着をしてた。
「確かにそうだ。」
思わず二人で笑い合っていると、さっきまでの気まずさがまるで嘘のように感じた。先週、思いがけず彼を避けるような行為をしてしまったことも、バレンタインの日に目を逸らされたことも、なかったことのように思えた。俊介もそう感じてくれればいいのに、と唯菜はさっきとは打って変わって、屈託なく笑う隣の人を見上げた。

結局美咲が学校に登校してきたのは、休み始めた日からちょうど1週間後だった。
休みすぎて体がなまっちゃうよ、と言って笑った美咲は確かに、病み上がりには見えなかった。
「そういや、中村も休んでたんだってね。」
「うん、そう。美咲と同じ日から休んでたよ。月曜日から来てたけどね。」
唯菜が返事をすると、奈津美が一瞬気遣わしそうな視線を向けたが、唯菜は取り合わなかった。月曜日の朝、俊介と唯菜が並んで教室に入るのを見た奈津美は目を見開いていた。その後の休み時間に、とりあえず、お礼を言ったことは報告したが、それ以来、なぜか奈津美は唯菜と俊介の間を心配しているようだった。彼女の憂慮を余所に、俊介とは気兼ねなく話できるような関係に戻っていた。
「やっぱ鍛え方が違うのかね?私ってか弱いってことよね。」
「てゆうか、俊介の場合は検査の反応出る前に薬飲んだみたいよ。美咲は?」
「あーもうばっちり陽性出たね。夜に救急で診てもらったんだけど、そん時の記憶あんまないんだよね。すでに手遅れだったってことね。」
できるだけ薬早く飲む方がいいみたいよ、と俊介から聞いた情報を口にしながら、美咲は母親しかおらず、その母親も仕事があるから病院に行くのが遅くなってしまうのも仕方がないのかも、と思った。
「藤山君もまる1週間休んだもんねえ。俊介の場合、藤山君からうつったかもっていう自覚あったから、すぐ病院行ったけど、普通は熱出てからだし。ラッキーってことじゃない?」
「ていうかあんまり休めなかったからアンラッキー?」
唯菜の言葉に奈津美が笑いながら付け足した。
「そうそう、藤山君って言えばさ、バレンタインの休みの日に家まで押し掛けてきた子いたみたいよ。チャイム鳴っても無視してたら、郵便受けに入ってたって。」
「そこまでするもんなのねえ。」
テニス部の子のもたらした情報に、唯菜は思わず感嘆の声を上げてしまった。
「普通、インフルエンザで弱ってる時には行かないよね。しかも顔見知りでも何でもないらしいよ。」
「それは引くね。せめてクラスメートとかなら、あり得るけど。」
先週、休んでいる俊介の家に押し掛けようと一瞬でも考えた自分のことを言われたようで、唯菜は疚しさの余り、口を噤んだ。自分はクラスメートだし、実際は行動しなかったんだし、と自分に言い訳してみても、もしあの時衝動のままに俊介の家のチャイムを鳴らしていたなら、「引くね」と言われる対象は自分だったのかもしれないという事実は気恥ずかしい。
「そう言えば、藤山君って3年生の進路変えたらしいよ。就職から国立に。」
「え、そうなの?」
「今頃?」
奈津美と唯菜の驚いた声が重なった。
「みたいよ。中川が騒いでた。一緒のクラスになれるなあって。」
「へえ、まあ藤山君頭いいもんね、大学行かないのはもったいないって感じだったし。」
唯菜は、冬休みの補習をさぼった時に偶然、藤山と会い、奈津美の言葉と同じ感想を持ったことを思い出して、そうよね、と相づちを打った。
進路希望書は冬休み前に提出してあった。もうすぐ3月という今の時期は希望変更としてはたぶんギリギリの時期だろう。確か金銭的な理由で進学しない、と藤山は言っていたが、何かあったのだろうか。
「そしたら、ゆいと中川と藤山君が国立で、私らが私立、就職は美咲だけか・・・。美咲、仲間いなくなって寂しいね。」
「そうだね。」
奈津美の問いかけに、美咲は苦笑していた。唯菜はふと違和感を覚えた。
そういえば、さっきから美咲は殆ど喋っていない。 (いつからだろう?)
インフルエンザの話をしている間は普通に話をしていたはずだ。
(テニス部の二人が藤山の話を始めてから?)
唯菜は美咲を窺う。その場ではまだ藤山をネタにした話が続いていた。中川と藤山の二人に席の近いテニス部のクラスメートが仕入れた藤山のバレンタイン事情を披露している。藤山は女子の関心を引かずにはいられないタイプだから、自然と話題に上がることも多かった。普段なら、どちらかというとそういう話題の時も、美咲が中心になることが多かったのに、今日は全く口を挟むことがない。
(もしかして藤山君と何かあった・・・・?)
唯菜は秘かに美咲の表情に気を配りながら、半分上の空で、奈津美達の話に相づちを打っていた。

やっぱり、美咲は藤山と何かあったんだ、という唯菜の疑念はほぼ確信に変わっていた。藤山の変化は唯菜には分からなかったが、美咲の彼に対する態度は前よりも一歩ひいたものになっていた。
奈津美や中川達もその変化には気付いていたのかもしれないが、誰も何も言わなかった。それは唯菜と俊介が別れた後の皆の態度と同じだった。
だから、唯菜も何も気付かなかったことにした。美咲に尋ねようかと思わないでもなかったが、彼女が秘密にしているのを敢えて聞かなくても、たぶん時がくれば教えてくれるだろう、と思った。当事者同士がクラスメートだと、揉め事を打ち明けるのが難しくなるというのは、自分も経験済みだ。
そして、美咲と藤山に何かあったというのに勘付くと、自然に、美咲と俊介の間に何かあったのかもしれないという唯菜の勘ぐりもただの誤解だったのかもしれないと思い当たった。美咲が俊介に向かって好きと言ったことも、唯菜に知らせないようにメールしたことも、俊介が美咲と藤山の関係に第三者として関わっていただけだと考えれば説明が付く。
俊介は積極的に唯菜と別れようとしていなかったのかもしれない。
悠里にその話をすると、俄然勢いづいた彼女は、俊介にもう一度話をするように急かした。
唯菜もそれを考えなかった訳ではないが、全ての誤解を解いて、またつきあうなんて、都合のいい想像でしかなかった。美咲と藤山のことも唯菜の推測でしかないし、なにより、別れてからもう3ヶ月が経とうとしているのに、今更、あの言葉をなかったことにしてほしいなんて言えるはずがなかった。
本当は別れたくなかった、と打ち明けるには、なぜ別れようと考えずにいられなかったか理由を説明しなければならないだろう。勘違いだったとはいえ、自分は友達と彼氏を簡単に疑ってしまったのだ。唯菜は自分がそんな浅はかで自分勝手な人間だということを俊介に知られるのをどうしても避けたかった。
色々とあったが、今はなんとか俊介と、お互いまるで何事もなかったかのように接している。時々、本当に彼と付き合ったことがあったのだろうか、と思えることさえあった。かといって、俊介への気持ちがなくなった訳ではない。彼を特別視していることを秘めたままの片想いは、唯菜にとっては長く当たり前の状況だったから、特別無理をしているという自覚はなかった。
学校に行きさえすれば、彼の姿を見ることができたし、運がよければ話をすることもできる。
彼を目で追いかける日常は、特に辛いものではなかった。
付きあっていた時期の記憶を蘇らせることさえなければ。
何の前触れもなく、以前、自分だけに向けられていた柔らかな視線、心地よい言葉、そして親密な触れ合い、そうしたものの欠片が唯菜の脳裏に舞い降りてきて、その度に、ぎゅっと胸がつかえたようになった。
それでも、唯菜は耐えた。救いは彼がホワイトデーを過ぎても、誰とも付き合っていないことだった。もし今、俊介に彼女ができたなら、自分は耐えきれないかもしれない。
かつて、彼が自分以外の女子と付き合った時とは比べようもないほど、悲しくて仕方ないだろう、ということだけは分かった。

<2011.3.20>
<一部改稿 2011.4.21>