優 し い 手   


さしのべられた手を(1)

本鈴が鳴って、生徒達ががやがやと自分の席に着いていく中、唯菜は奈津美と目を見合わせた。
「来ないね。」
「うん、連絡ないし。サボりではないみたい。」
奈津美は後でね、と言うと、自分の席へと戻って行った。唯菜はクラスメートが席に着く中、空いたままの美咲の席に目を移した。その3つ隣にある藤山の席も空いている。彼の休みは今日で3日目。インフルエンザなのだから今週中は登校できないだろう。
担任が教室に入ってきた。日直の号令に皆がガタガタと立ってバラバラの挨拶をした。
着席する前に、唯菜は斜め後ろを振り返った。隣の列の二つ後ろの席も空いている。俊介の席だ。登校していても、別のクラスに寄って来る朝もあるので、その内来るかもしれない、と予鈴が鳴ってからずっと気にしていたのだが、結局彼は教室には入って来なかった。
「えっと、東條さんと中村君、インフルエンザらしいです。藤山くんに続いてうちのクラスでは3人ですね。他のクラスでも何人か休んでいる人がいるようなので、気を付けるように。」
インフルエンザ。
美咲と俊介が同じ病気で休んでいることに、唯菜はああ、そうか、とすんなりと聞き流せなかった。俊介は藤山からうつってしまったんだろう、と推測できる。
じゃあ、美咲は?
「ゆい。」
突然、奈津美の顔が目の前に現れて、唯菜はびくんとなった。
「なに呆けてんの?美術行くよ。」
いつの間にかSHRは終わり、生徒はめいめいに芸術の選択授業に向かうための準備をしていた。
待って、と慌てて鞄の中から筆記用具を取り出す。用具はロッカーに入れてあるから、奈津美と二人で廊下に出た。
「美咲、インフルエンザなんだね。」
「うん。」
頷きながらロッカーから油彩セットを取り出す。
「藤山君からうつったんだろね。私らもうつってたりして。中村はともかく、美咲がうつるんなら、私らがうつってもおかしくないことない?」
奈津美と唯菜は油彩セットを手に廊下を歩き始めた。
「二人とも藤山君からうつったとは限らないじゃない。それより、美咲からうつった可能性を心配する方が現実的だと思うけど。」
「あ、そうね。」
奈津美がぽん、と手を打ち合わせると、手首に掛けた油彩セットの中身がガチャガチャと音を立てた。
「うわ、どうしよ、私、卓也にうつしたかも。」
まだ自分が罹ってもないのに、と突っ込もうとしたときだった。
「なに、彼氏とチューでもしたの?」
背後からの声に振り返ると、ニヤニヤしながら中川が後をついてきていた。いつもは同じ選択の俊介と一緒に移動しているが、今日は俊介が休んでいるから、彼は一人だった。
「そうなのよね、って何言わせるのよ!」
奈津美は照れるわけでもなくぼけ突っ込みをかますと、ぼすっと肘で後ろにいる中川の腹部を小突いた。
「いって、お前ね、ちょっとは恥じらってよ。井上みたいにさ。」
「えっ。」
話を振られた唯菜は慌てて両頬を隠した。
「もうやーだゆいったら、話だけでその反応って。」
「ちょ、ちょっと、何でもないったら。」
ニヤリと口端を上げた奈津美に慌てて否定するものの、自分でも中川のチューという言葉に顔が赤らんでいたのが分かった。しかも、意識すると余計に顔がのぼせてくる。
「でもさ、まじで俺らもうつってるかもなー。俺なんか昨日中村のジュース飲んじゃったもんな。」
「えー男同士で間接キスとか気持ち悪い。」
話がそれたことに唯菜はほっとしながら、まだ頬が熱いことを冷えた指先から感じていた。
「間接キスっていうから気持ち悪いんだろ?ただの回し飲みじゃん。でもな、結構他でも流行ってるだろ?部員で休んでる奴もいるし。学級閉鎖とかならねえかなあ、4分の1だっけ、担任が言ってたよな。」
「ばっかねえ、学級閉鎖になったら、その分休みの日に補習すんのよ。」
中川の呑気な言葉に、奈津美の厳しい指摘が入る。
「まじ?」
中川に救いを求める視線を向けられて、唯菜はきっぱり「ほんとだよ。」と答えた。
そりゃないだろ、と情けない声を上げると、中川は二人を追い越して美術室に入っていった。
「卓也の友達もなってるらしいんだよね。」
「そうなんだ。」
「ああ、お互いにうつしあってたりするのかなあ。」
奈津美の嘆きに、先程の会話を思い出し、唯菜はなんと返していいのか口ごもってしまった。しかし、ちょうどチャイムが鳴り響いたせいで、奈津美に再びからかわれることはなかった。自分の反応が過剰なのか、それとも奈津美がさばけすぎているのだか、よく分からない。でも、あの場に美咲がいたならば、間違いなく彼女からもからかわれていただろう。
指定された席に座って、溜息を吐いた。美術室は独特の匂いがする。絵の具の匂いだろうか。教室に比べると暖房の効きが悪いが、幸い、唯菜は窓際の席だったから、背中に当たる日光のお陰で暖かかった。
ふと前方に先週、持久走の時に、唯菜に話しかけてきた隣のクラスの女子が見えた。芸術も体育と同様、隣のクラスと合同なのだ。授業を受けているのは、1年の時にクラスメートだった生徒で、俊介の前の彼女はこの教室にはいない。たぶん別の科目をとっているのだろう。俊介も美術を選択しているから、彼女とは違う選択科目になるのだと思い当たったが、そんな些細な事にさえ優越感を抱いてしまう自分が、すごく矮小な人間に思えて、また溜息が出た。
結局バレンタインに、俊介が誰かからチョコレートをもらったのかどうかは分からずじまいだ。今のところは前の彼女と復活したという噂も聞かない。
美咲との間でバレンタインに何かあったとも思えなかった。これからもたぶん起こらないのではないか、と昨日までの美咲の態度で安心していた。
しかし、今日、二人は揃ってインフルエンザで休んでいる。さっきの中川の言葉が蘇って、やっぱりそういうことしたら、うつりやすいだろう、と想像してしまう。例え、キスをしなくても至近距離で話をすれば、それだけで感染する確率は高いだろう。
もう、消えてしまったように見えた俊介と美咲の間の繋がりが、また明らかになってしまったような気がする。朝、二人が休むと担任が告げるのを聞いた時から、唯菜はそれがずっと引っ掛かっていた。
静かだった美術室で、急に生徒の話し声で騒々しくなり、唯菜ははっと顔を上げた。さっきまで今日の予定を話していた美術教師がいなくなっていた。奥にある準備室に入ったのだろう。唯菜の隣の生徒はクラスが違う上に、余り親しくない。唯菜は話しかける気力もわかず、昨日、美咲の気遣いに救われたことを思い出していた。

昨日の昼休みは、テニス部の二人がお弁当を食べると卒業式の打ち合わせを部活の顧問とするからと言って出て行った。残った唯菜と美咲は、窓際で美咲の持ってきた雑誌を読んでいた。
「ねえ、ゆい。」
「んー?」
「こないだの体育の時にさあ・・・。」
唯菜は広げていた雑誌から目を上げた。普段とは違う美咲の声にどきりとした。
「隣のクラスの子に中村のことで話しかけられたって言ってたよね?」
「うん。」
俊介の前の彼女の話はテニス部の部室で話して以来、全く口にしていなかった。美咲の神妙な顔を見るのもその時以来だろう。
「その時にさ、ほんとは中村と話するな、とか言われたんじゃない?」
「え・・、ううん、言われてないよ。」
つい息を飲み込んでから、慌てて首を振ったが、美咲は明らかに信じていなかった。
「ほんとに?だって、ゆい最近中村と全然喋ってないよね。ていうか、避けてる。」
唯菜は固まりそうになった表情を緩めながら、否定した。
「そんなことないよ。普通だけど?」
しまった、と思った。まさか、美咲に気付かれているとは思いもしなかった。
確かに、あの持久走の後からずっと、俊介とは話しどころか、視線も合わせていない。バレンタインの日に、視線を外されたことが唯菜の記憶に重くのし掛かっていて、無意識の内に彼を避けてしまっていた。
「そんなことあるよ。別れた後はさ、そりゃぎこちなくなるのも仕方ないかなあと思ってたけど。最近、またよく話するようになったから、安心してたのに。それをあの元カノだか何だか知んないけどジャマすんなってのよ。」
「ちょっとちょっと、ほんと何にも言われてないんだって。」
美咲の声が急激に興奮していくのを、唯菜は慌てて押し留めた。
「ほんと?」
「ほんと。」
俊介に普通に接することが出来ない原因は自分にあって、前の彼女に何か言われたからではない。その誤解は解かなければ、と唯菜はきっぱりと言い切った。
美咲は困ったような顔をして、唯菜を見ていたが、ふうーっと大きく息を吐いた。
「でも、ほんと何か言われたら、黙ってないで私に言いなよ。だいたい、ゆいが一人になったの狙って、二人で押しかけていくってのが気にくわない。あの時も急に走って行くからどうしたのかと思って見てたら、ゆいに何か言ってるし、ゆいも変な顔してたし。」
唯菜は自分のために怒っている友達の顔から視線を外せなかった。彼女は本心から自分を心配してくれている。
どう見ても美咲が俊介に想いを寄せているようには思えなかった。余程うまく秘めているのか、それとも、自分の勘違いだったのか。
どちらにしても、美咲が自分を簡単に裏切るとは、考えられなかった。

そう思ったのは昨日だったのに。
今朝、二人がインフルエンザで休んだと聞いただけで、その確信は脆くも崩れていた。目の前のことにすぐ左右されてしまう、自分の弱い心が嫌になる。
奈津美も中川も俊介と美咲が同時にインフルエンザで休んだことを、特に気にしている風でもなく、二人の仲が怪しいと不在の者をからかうような雰囲気もクラスの中には全くなかった。
だから、気にするようなことじゃないんだ、と思うのに。
インフルエンザが同じ時期に発症しただけで、そこに因果を疑ってしまうのは自分だけなのだろう。
いっそのこと、昨日、美咲に聞いてみればよかったのだ。好きな人はいないのか、と。そうすればすっきりしたのかもしれない。
いや、でも聞いたところで、変わらないのかもしれない。もし、いないと言われても疑う気持ちが完全に消えることはないだろうし、いると言われても、それが誰なのかなんて追求する根性までは持てなかった。
何よりも、自分が美咲を疑っているということを彼女に知られるのが怖かった。些細なことで不信に囚われるほど疑心暗鬼になっているのに、何もないような顔をして美咲と接している自分。
もっと早い段階で、例えば遊園地での二人の会話を聞いてしまった後だったら、それほど深刻にならずに聞き出せたのではないのだろうか。少なくとも今よりは・・・。
身動きが取れないような状況になってしまったのも、結局は誰にでもいい顔をしようとしてしまう自分に原因があるのかもしれない。

「本人に聞けないっていうのなら、周りにそれとなく聞いてみたら?」
「周り、ねえ。」
唯菜は食べ終わったスイーツの空き袋を眺めた。悠里の部屋に寄る前に、バス停の前のコンビニで買ってきたデザート。悠里は甘いものなら何でも好物だから、唯菜は自分の好みのもの、ベイクドフロマージュとフロランタンとを購入した。案の定、悠里はどっちでもいい、と言いながら散々悩んで、フロランタンを選んだ。
唯菜のことを心配しているのか、悠里から頻繁にメールが来るようになって、唯菜は俊介に関することの殆どを悠里にだけは喋っていた。バレンタイン前、俊介の前の彼女達に俊介との関係を尋ねられたこと、自分の態度のせいで俊介と再びぎこちなくなっていること、美咲がそのことを心配してくれたこと、そして今日、美咲と俊介がインフルエンザで同時に休んでいること。
「ゆいは一人で考えすぎ。他の人の意見も参考にした方がいいよ。」
唯菜は首を傾げて、悠里を見た。
「こうやってゆうちゃんに喋ってるよ?」
「あのねえ、私じゃ学校のことは分かんないでしょ?ゆいの話しか聞いてないんだし。」
余りにももっともな意見に唯菜は返す言葉がなかった。悠里の言うとおりだと分かるが、やっぱりクラスメートに打ち明けるつもりにはなれなかった。
「別に中村と友達のことそのままを聞くんじゃなくてさ、その美咲って子、今フリーなんでしょ?仲いい子に、好きな子いないのかなあ、とか言って探ればいいのよ。それくらいなら問題ないわよ。それにさ、今その子休んでるじゃん、その方が聞きやすいって。」
美咲のいない所で彼女の気持ちを探るような真似をするのはどうかと案じる部分もあったが、今までになく浮いた話のない彼女の恋愛関係を気にする程度なら、それほどの違和感はないようにも思える。唯菜は悠里の言うことに頷いていた。
「そうだよね。もしかしたら馬鹿馬鹿しいことに悩んでるだけなのかもしれないし、ちょっとはすっきりできるかもしれないよね。」
「そうそう。」
朝からずっと引っかかっていたことが幾分軽くなって、唯菜は悠里の存在を有難く感じていた。彼女がこまめにメールをくれるから、唯菜はつい気になっていることを彼女に打ち明けてしまう。本当は猜疑心にまみれた憶測を他人に知らせるのは気が引けてしまうのだが、それでも悠里が何でも言ってね、と自分を気にしてくれるからつい甘えてしまっていた。
「気楽に聞いてみればいいよ。」
「うん。」
明日、奈津美に聞いてみよう、と唯菜は頬を緩めた。

<2011.2.28>