優 し い 手   


後悔してもしきれない(5)

体育の授業が終わって、唯菜は奈津美達テニス部員と一緒にテニス部の部室で着替えをしていた。南高には生徒用の更衣室がないので、体育の授業の際には、奇数クラスの教室で男子、偶数クラスの教室で女子が着替えることになっていたが、部室のある部員は部室で着替えている。唯菜は奈津美達のコネで本来は使えない部室を使わせてもらっていた。
唯菜は完全に上の空で、奈津美達の話に相づちを打っていた。服に手を通しながら、頭を占めているのはさっきの二人のことだった。彼女達がなぜ俊介と自分の関係を確認しにきたのか、その理由を考えると息苦しくて仕方なかった。まばたきをすると音がするんじゃないかと思うほどに、マスカラで形作られた睫毛や手入れの行き届いた髪の毛、色づいた唇が目の前をちらついた。自分の真っ黒な髪の毛をブラシで梳く。どんなに梳いてもグラウンドの埃と汗にまみれた髪の毛は手触りが悪かった。いつもは気にならない汗の匂いが、鼻について仕方がない。夏場なら制汗剤を常備しているのだが、この季節には油断して持っていなかった。運動部なら置いてある物があるかと、奈津美に尋ねようかと思った時だった。
「東條でーす、開けてー。」
ドンドンと部室のドアを叩く音がして、美咲の声がした。奈津美が解錠してドアを開けると、寒かったーと美咲が駆け込んできた。
「走ったら暑くなったのに。」
「いやあ、それは勘弁。今日は女の子の日だし。」
「美咲ったら、先週もそう言ってなかったっけ?」
「私1週間以上続くから。先週は1日目、次が3日目、今日は7日目。辛いんですよ。」
唯菜が突っ込むと、美咲はそう言って大袈裟に溜息を吐いた。
「それはそうと。」
一人着替え終わっていた唯菜に、美咲は向き直った。
「さっき、隣のクラスの子に話しかけられてなかった?」
「あ・・うん。」
唯菜が視線を泳がせてしまったのを美咲は見逃さなかった。
「なんだったの?」
「え・・・あ、俊介と復活したのか、聞かれた。」
唯菜は逡巡しながらも、そのまま答えた。俊介の名前を出すのは怖かったが、その反面、美咲の反応を見たいような気もした。
「中村のこと?なんでまた。」
美咲の眉間に皺が寄った。しかめっ面の彼女の睫毛にもきれいにマスカラがのっている。
「隣のクラスって誰?」
奈津美が隣から話に入ってきた。唯菜が彼女達の名前を告げると、奈津美は合点がいったようだった。
「ああ、そりゃ黒崎さん、中村と付き合ってたもん。気になるんじゃない?」
「え?中村ってゆい以外に女いたの?」
「いたよ、1年の時。前話しなかったっけ?」
美咲はそうだっけ、と視線を上向けて考える顔になったが、すぐに、視線を戻した。
「黒崎さんってどっち?」
「髪の長い方よ。」
奈津美の答えに美咲はふーん、と相づちを打つと、唯菜の方を見た。
「他になんか言われなかった?」
「なんかって?」
美咲はさっきまでの興味津々という態度を、トーンダウンさせた。唯菜の顔色を気遣うように見ている。
「中村に近付くなとかそういうこと。」
「まさか、何も言われてないよ。」
ならいいんだけど、と美咲はほっとしたような顔になった。
「また、中村のこと狙ってるんじゃない?」
「別れたのに?」
奈津美の言葉に美咲が訝しげな声を上げる。二人とも唯菜をちらりと見ながら、明らかに唯菜の反応を窺っていた。しかし唯菜は何も言わなかった。内心の動揺が悟られないように表情を固める。
唯菜は美咲と俊介がもし付き合っても、という予想はしていたが、美咲以外の存在は全く想定していなかった。急に目の前にドンと置かれたそれに、唯菜はいい知れない脅威を感じていた。
「付き合ったって言っても1ヶ月も続かなかったし、中村が押し切られて付き合ってたかんじだったし。」
奈津美の言葉に、あんた詳しいね、と美咲は感心するように言った。確か前も同じようなやりとりをこの二人がしているのを見たなあと思い出していると、そこにいた3人が自分の方を向いたので、唯菜は笑って見せた。
「唯菜は、いいの?」
「いいもなにも、それこそ付き合ってる訳でもないし、関係ないよ。」
奈津美の探るような問いかけに、できるだけ軽く言った。自分を心配そうに見ている美咲に、違和感を感じる。このメンバー間で俊介と自分に関する話題になるのは久しぶりだった。そうとは分からなかったが、たぶん皆、気を遣ってくれていたのだろう。聞きたくても聞けない、そういう心持ちだったのかもしれない。狭い部室に立ちこめる空気がぎこちなくなった。唯菜はそれを吹き飛ばすようにバッグを持ち上げた。
「バレンタインも近いし、いろいろ考えてるんじゃない?さ、早く行かないと休み終わっちゃうよ。」
「あ、そうね。」
体操服を出しっぱなしにしていた二人が慌てて片付けている横で、美咲はまだ腑に落ちないといった顔をしたままだった。
「ゆいこそバレンタイン、何かしないの?」
「誰に?」
「そりゃ、中村に。」
唯菜は思わず美咲がすればいい、と言いそうになったが、彼女の真剣な眼差しにその言葉を飲み込んだ。
「まあクラスメートだし、義理チョコとかしてもいいね。みんなでする?」
美咲は全く想定外の唯菜の答えに、憮然とした顔になっていたが、思い直したように、それもいいかもね、と返した。
「じゃあさ、この4人で中川とか藤山とかにあげる?」
部室を出ると、テニス部の二人が部室に鍵を掛けた。4人でだらだらと校舎へと歩く。
「藤山はいいんじゃない?あいついっぱいもらいそうだし。」
美咲の声にそうかもね、と首を傾げる。
唯菜はサッカーの部室の方をそれとなく見回したが、俊介の姿はなかった。もう教室に戻っているんだろうか、と考えながら、奈津美達と話を続ける。
「でもさ、他のメンバーに渡して藤山くんだけなしってのもねえ?」
奈津美の言葉にも皆がそれもそうだと頷いた。
それまで意識しないようにしていたバレンタインが急に不安の要素になってきた。今年も自分には全く関係のないイベントとして、考えないようにしていた。美咲が今の均衡を壊すような行動を起こすはずもない、3年になるまでこの現状が続く、と勝手に思いこんでいが、そんなわけはないのだ。
美咲は俊介の前の彼女のことをどう感じているのだろう。唯菜は美咲の表情をずっと窺っていたが、彼女は唯菜のことを気にするばかりで、彼女自身の心の内は見えなかった。
唯菜は部室で感じた違和感を思い出していた。唯菜と俊介が付き合っていた頃、キスはまだなのかとからかわれた朝、俊介が1年の時に二人の女生徒と付き合っていたことを奈津美が話した。彼女達の名前とその付き合いが短かったこともはっきり言ったと思う。そこには美咲もいて、奈津美がやたらと詳しいことにさっきと同じような言葉で感心していたのに、その時に聞いたことをもう忘れてしまったのだろうか。
自分なら、こんな重要なことは忘れないだろう。好きな人がかつて付き合った人のことに関する情報など、忘れたくても忘れられない。なのに、美咲はすっかり忘れているようだった。あれはお芝居なんだろうか。俊介のことなど何も思ってないという。
わたしに見せるための?
先を歩いていた美咲と目が合う。
「ゆいもいける?」
唯菜は問いの意味を何も考えずに頷いた。
美咲の自分に向けられる屈託のない笑顔。
それとも、あれは演技などではないのだろうか。本当に俊介の前の彼女について聞いたことを覚えていなかった、ということは、どういうことになるのだろう。
唯菜の頭の中は混乱していた。
「じゃ、そういうことで、連休中に買いに行こ!」
奈津美にぽすんと背中を叩かれて、唯菜ははっと我に返った。ぼんやりしている間に、義理チョコを買いに行く話は決着し、4人は教室に着いていたらしい。分かった、と返して、唯菜は体操服を入れようとロッカーに近付いた。ちょうど、俊介と中川が唯菜のロッカーの前で、喋っていた。中川はロッカーの上に腰掛けている。
「ごめん。」
俊介の脇をすり抜けるようにして、自分のロッカーを開けた。黙ってしまった二人の視線を感じ、俊介に接近している状況に緊張していた唯菜の体の動きは、ますますぎくしゃくしてしまった。
あ、そういえば。
突然、教室に戻ってくる前に、部室で汗臭さが気になっていたことを思い出した。結局、制汗剤を借りそびれたままだった。
唯菜は咄嗟に体を引いた。すぐ近くにいる俊介に、汗臭さが伝わってしまうことを恐れたのだ。ボスン、と体操服の入った袋が落ちた。
俊介の上履きと自分の間に落ちてしまった袋を唯菜は見下ろした。
「何やってんの?」
頭上から、中川の笑いを含んだ声が降ってきて、唯菜は顔がかあーっと熱くなった。慌てて床に落ちた袋を拾おうと手を伸ばすと、唯菜よりも先に袋に手を伸ばしていた俊介の指先に触ってしまった。
「あっ。」
思わず手を引っ込めると、同じように屈んだ俊介と目が合った。唯菜が手を引いたことに驚いたように目を見開いたのは一瞬で、彼はすぐに目を逸らすと、何も言わずに袋を唯菜に手渡した。ちょうどチャイムが鳴った。
「あ、ありがと。」
踵を返した俊介の背に向けた唯菜の小さな声は、届いたかどうか分からなかった。すぐにでも呼び止めてそうじゃない、と言いたかったが、唯菜の足は動かなかった。ロッカーから降り立った中川は、袋を持ったままの唯菜を不可解そうに一瞥して、俊介の後に続いた。
「遅れるぞ。」
中川の声に唯菜は弾かれたように動いて、開けっぱなしだったロッカーに袋を突っ込むと、不安をぶつけるように扉を閉めた。アルミ製のロッカーの軽い衝撃音は、教室へと急ぐ生徒のざわめきを打ち破ることはなかった。

失敗した。
そんなつもりは全くなかったが、俊介の好意を退けるような態度になってしまった。一部始終を見ていた中川も、変に思ったに違いない。
どうしてあんな不審な行動を取ってしまったのか。汗くさいのに気付かれるかもしれない、ということに恐怖さえ覚えたのは、俊介の前の彼女を間近で目撃してしまったせいだろう。自分とはタイプの違う彼女の女らしい側面を見せつけられた後で、顔を無造作に洗い、汗の匂いをさせている自分が、ひどくみっともないように思えた。
あの時、俊介の目に映る自分の姿を急に意識してしまった。
1年の時に俊介と付き合った二人も、美咲も、以前俊介がいいなと言っていた佐藤も、見かけで言えば同じ、どちらかと言えば派手目なグループに入ることに、唯菜はショックを受けていた。
当たり前のようにメイクをしたり、髪をカラーリングしたり、いろいろとお洒落に気を使っていて、しかもそれの似合う女っぽい人達。
唯菜も身だしなみには配慮していたが、色つきのリップを塗る程度でメイクはしたことがなく、髪も真っ黒のボブ。もちろんパーマも当てていない。
何の飾り立てもしていない自分のような女子よりも、いかにも女らしい女子に俊介の意識が移ってしまうのも仕方ないのかもしれない。
こんなことで自信をなくして、俊介に変な態度をとってしまう自分が情けなくて、余計に唯菜は俊介の方を見ることができなくなっていた。
その後、俊介とは喋る機会どころか、彼の方を見ることもできなくなっていた。彼がどんな顔をしているのか、知るのが怖くて、もし目が合って逸らされたらどうしよう、と思うと、そちらを向くこともできなかった。
時間が経つほどに、唯菜の態度に俊介が怒っているというのは余りにも自意識過剰に過ぎやしないかと思えてくる。ならば何もなかったように喋り掛けてみればいいのに、それもできないまま、下校時間を迎えた。
幸か不幸か、翌日からは三連休だった。
一人になると、自分のとった態度が悔やまれて仕方なかった。余裕がなかった。俊介のことを好きという気持ちだけでいいじゃないか、と片想いの状態を肯定したはずなのに、全く想像もしなかった存在の登場に、すぐ気持ちが挫けそうになる。
もしかしたら、あの彼女とまた付き合い始めるかもしれない。
唯菜は体の内部が痛むのを感じた。ぽたりと目の前の問題集の紙に水滴が落ちたのを見て、自分の涙だということに気付いた。
1年の時、俊介が同じクラスの女の子と付き合い始めたと聞かされた時、必死に何でもないような顔をして過ごした。一人になって虚無感に襲われることはあっても、泣くまでのことはなかった。その当時、俊介はかなり遠い存在になってしまっていて、別の誰かと一緒にいるのだと思うと、悲しかったが、こんなに痛くはなかった。
でも、今は違う。彼の傍にいた時の記憶が、唯菜をズキズキと突き刺した。手を繋いだこと、キスされたこと、抱きしめられたこと。そのどれもが、あの彼女のものになってしまうのかもしれない、と想像するだけで真っ暗な気分になってしまった。もう片想いでもいい、なんて言ってられない。俊介のことを好きでいることさえも、受け入れられないかもしれない。誰かの彼氏になった俊介をずっと好きでいられるだろうか。
この苦しみがずっと続く、と思っただけでまた涙が零れた。
そんな風に絶望に打ちひしがれながら、一方では美咲が俊介のことを何とも思っていないかもしれない、という可能性に、縋ろうとしているのが、我ながらおかしかった。
はっきりこの耳で聞いたのに。随分昔のことのように思えるが、忘れた訳ではない。美咲の口から出た気持ちを。
彼女は、自分の気持ちを殺すことを選んだのだ。唯菜のために。
俊介の気持ちは分からない。あのメールだけでは、推察の域を出ない。その行く先は美咲なのかもしれないし、他の女の子かもしれない。でももう自分ではない。
もうどうせ、誰かと付き合ってしまうかもしれない相手なら、別に嫌われてもいいんじゃない、と半ば自棄気味に思おうとしたが、無理だった。週明けにもし俊介と普通に喋ることができなければどうしよう、という不安は他のどんなものよりも大きくのしかかってくるのだった。

週明けの学校は、全体に浮かれているように見えた。それが実際にそうなのか、バレンタインということを意識している唯菜の感覚のせいなのかは分からない。
藤山はインフルエンザに罹ったらしく、休みだった。こんな日に休むとは、可哀想なヤツ、と中川は笑っていたが、美咲達は、チョコをもらうのがウザくて休んだんじゃないか、と全く別の視点で苦笑していた。
昼休みは、奈津美が彼氏のために作ったクッキーやケーキの残りを頬張りながら、奈津美の努力を褒め称えた。画像で見せてもらった彼女の作品は、3種類のクッキー、2種類のケーキにトリュフを詰めた籠もりで、ラッピングもまるでケーキ屋さながらに仕上げられていた。部活の後、家に寄ってもらって渡すらしい。
見目だけじゃなくって味もいけてる、とご相伴に預かった面々にお墨付きをもらい、奈津美は満更でもなさそうだった。唯菜は彼氏の近藤卓也が大袈裟に感動することを予想して思わず笑みがこぼれた。
その後、食堂から戻ってきた俊介や中川達に、皆で買っておいたチョコレートを贈った。テニス部の女子二人が、みんなから、と無造作に渡していく。
「気が利くじゃん。これで妹に馬鹿にされずに済む。」
中川の言葉にそこにいる全員が笑った。彼の隣に立つ俊介も笑っていた。
俊介は誰かにもらったんだろうか。
呼び出しを受けるところは、今のところ目撃していないし、噂にも聞いていない。できれば、自分の目の届かない所でやってほしいと思っていた唯菜は、できるだけ無関心を装い、朝から俊介に注意を向けないように心がけていた。それでも、気になってしまうのは仕方ない。
つい、彼をじっと見てしまい、こちらを向いた俊介の視線と自分の視線が交差した。
あ、と思った瞬間、実に自然にするりと視線が外された。あたふたする間もない。一瞬高鳴った鼓動がすっと鎮まって、唯菜は自分の表情が強ばるのが分かった。
そのまま、視線を落とす。
中川の自虐ネタと美咲の突っ込みは、今日も皆に受けていた。唯菜の周りは明るいざわめきで満ちている。
唯菜は顔を上げて、何事もなかったように皆に合わせて笑った。俊介の方には一切目を向けずに。ひたすら明るく振る舞うことで、自分の内にできてしまった澱にも気付かないふりをした。

<2011.2.16>