優 し い 手   


後悔してもしきれない(4)

「それでいいの?今のままで?」
「うん。」
ガシャガシャと紙コップにたっぷり残った氷をストローで掻き回しながら、悠里は唯菜の顔を見た。
「まあ、ゆいがいいって言うんならいいんだけどさ。」
しばらく二人は顔を見合わせていたが、悠里はふうーっと大きく息を吐いた。
「なんだかなあ、きちんと確かめた方がいいと思うんだけど。」
「何を?」
「ほんとに中村がその友達のことを好きなのか。その友達も本当に中村のこと好きなのか。」
唯菜は悠里の部屋に行った3日後、再び彼女と会っていた。泣いていた唯菜を気に掛けた悠里が駅前に呼び出したのだ。二人で入った駅前のドーナツ屋は、制服の客が多かった。
唯菜はちょっと間を置いてから、悠里を見た。
「やっぱり聞けないよ。クラス替えあるまでこのままでいいかなって。」
悠里はしばらく無言だったが、思い切ったように口を開いた。
「でもさ、ゆいの中ではその友達に対して疑いみたいなのがある訳じゃん。そういうのやじゃない?」
悠里の言葉に唯菜は顔が強ばるのを感じた。たぶん悠里もそれに気付いたのだろう。
「私が言えるようなことじゃなかったね。」
中学の時に自分のしたことを思い出したのだろう、悠里は苦笑した。
しかし、唯菜は彼女の言葉に痛いところをつかれて、何も言えなくなった。
美咲とは以前と変わらずに接しているつもりだった。しかし、美咲のちょっとした言動にも裏があるのではないかとつい勘ぐっている自分にふと気付き、そんな自分の不審な部分を彼女に気付かれてないだろうかと不安になるのだった。確かに以前と全く同じ気持ちで接するには、自分の中にある疑いが晴れないと無理なのかもしれない。
悠里はトレーの縁をとんとんと叩きながら、彼女自身のその指を見ていたが、視線を唯菜に戻した。
「たださあ・・・・。中学の時にね、多田に言われたことをそのまま信じて、ゆいにあんな嫌がらせまでしたでしょ?もし私がちょっとでもゆいに聞いてたら、あんなことにしなかったと思うし。ゆいだって、ちゃんと確認した方がいいんじゃないかなってて。その友達が中村のこと好きじゃないんなら、何にも悩むことないんじゃん。」
「・・・でも聞いてそうだって言われたら?両思いだから諦めてって言われたら、・・・さすがに今までみたいにはできないよ。知らないフリしてる方がマシ。」
唯菜の切羽詰まった声に悠里は驚いていたが、すぐに目を伏せた。
「ごめん。」
悠里の項垂れた様子を見て、唯菜は慌てて声を和らげた。
「ううん、ゆうちゃんの言ってることも分かる。こんなにうじうじしてないで、聞いちゃえばいいって思うもん。」
普段は俊介に関することを忘れて美咲の傍にいられたが、時々、彼女と接することが苦しくなることもあった。片想いでもいい、と吹っ切ったつもりだったが、前向きな気持ちを維持し続けるのは難しい。
決定的な事実があれば、自分も諦めざるを得ないだろうと思うが、美咲も俊介も一向にその関係を変える気配はなかった。まるで唯菜が目撃してしまった告白も、メールも、なかったかのように以前と同じようにクラスメートの顔を保っている。
そしてそれは自分にも言えることだった。何も知らないフリを装って行動していた。それが耐え難いほど辛いという訳ではなく、このままでいいじゃない、と思える時の方が多かった。 ただ、一人になると、とてつもなく脱力感に苛まされることもある。付き合っていた時に、自分に向けられた彼の笑顔、言葉、思いやり。そういった甘美な記憶がどっと押し寄せて恍惚となったその一瞬後には、それらが過去でしかないことを実感すると、どうして今はそれがないのだろう、と考えずにはいられない。
でも、美咲も俊介も現状維持を選んだ今となっては、自分がその均衡を崩す勇気はない。
「やっぱり今のままでいいや。白黒つけてもうまくいかないような気がするから。」
悠里は唯菜の出した結論に対しては何も言わなかったが、別れ間際に真面目な顔をして唯菜に言った。
「ゆい、何かあったら言ってよ。聞くしかできないけど。言えばましになるってこともあると思うし。」
唯菜はこくんと頷いた。ちょっと涙ぐみそうになった。
帰りのバスの中で、かつての悠里との関係を思い出す。一方的に傷つけられて、もう話することもないだろうと思っていた彼女と、こんな風に気遣ってもらえるような関係になるなんて。卒業式の頃には想像もできなかったことが現実になっている。
悠里に対する禍根を完全に絶ってしまえた訳ではない。しかし、悠里も中学の時に唯菜にしてしまったことを本当に悔やんでいる。一緒にいるとそれが口先だけのものではないことが伝わってきて、唯菜はかなり悠里のことを信用する気になっていた。もうあんな風に裏切られることはないだろう、と。
そう思えることは、今の唯菜にとってはかなりの救いになっていた。

3学期に入ってから、体育はもっぱら持久走だった。広いグラウンドをひたすら周回するという持久走は生徒に非常に人気がない。体調が悪いと言って見学する生徒が大勢いた。殆どがさぼりだったが、唯菜のクラスを受け持つ体育教師は甘かったので、見学者が減ることはなかった。
唯菜も、持久走なんて面倒だなあ、と感じながらも、根が真面目なことから、さぼりきることはできなかった。今日もテニス部の奈津美達と一緒にきちんと運動場を走っていた。
「見学者、掃除させられてるよ。」
「ほんっとだ。」
息切れしながらも、言葉を交わしている現役テニス部二人の会話を聞いて、唯菜も視線を同じ方にやった。グラウンドの隅の方で一列になっている、黒い制服の固まりがあった。ゴミを拾わされているらしい。今日は生理だから見学、と体操服に着替えなかった美咲もあの中にいるのだろう。
「掃除とは、考えたね。」
「えー、あっちがましだって。私も、顧問に言われなきゃ、走るより掃除とるな。」
「そう?」
奈津美ともう一人のテニス部員の会話もはっ、はっ、という息の合間にされていたが、唯菜は会話は疎か、相づちを打つこともできないほど、息が上がっていた。残り1周、たぶん女子の先頭に位置するのだろう。他の二人は唯菜に気遣って割と遅めのペースで走ってくれているようだが、唯菜は日ごろ走り込んでいる二人に付いて行くだけで精一杯だった。3人で並んで走っていく外周を、ざっざっ、と軽快な足取りが追い越していった。
俊介だった。彼は一人で走っていた。
「男子って、プラス2周でしょ?きっついよね。」
少し遅れて中川が3人を抜いていく。いつも一緒にいる藤山はどうなんだろう、と思ったが、確認する気力もなく、足を動かした。
やっとノルマの周をこなし、3人でグラウンドに座り込んだ。女子で走り終えていたのは運動部ばかりで、体育教師に頑張ったな、と褒められたが、唯菜はそれにはい、と答えるのもようようという有り様だった。
「ゆいったら、さすが根性あるわ。」
奈津美達は、少し休息をとると、すぐに平然としているように見えた。
「付いて行くので、精一杯よ。」
どうにかそう答えると、付いて来れるのがすごい、と返された。長袖のジャージを脱いでしまいたいくらい暑かった。2月に入ってから、比較的穏やかな天候が続いている。今日も風はなく、空は透明感のある薄い青色がどこまでも広がっていた。
唯菜はベンチに置いてあったタオルを取ると、洗い場へと向かった。グラウンドではまだ走っている生徒がたくさんいた。ふと見ると、男子のゴール地点の近くに俊介と中川が座っていた。男子はまだほとんど完走していないようだった。走っている最中、男子が何度も自分達を追い越していったが、俊介の背中だけは自然と目が追ってしまった。彼の走る姿は随分余裕があるように見えた。サッカーの練習前後に、嫌というほど走り込みをやらされる、と言っていたから、授業の持久走くらいはどうということはないのかもしれない。
走り終わったときは噴き出してくるかと思うほど出てきた汗が、洗い場に着く頃にはだいぶん鎮まってきていた。洗うのを手だけにしようか、顔も洗ってしまおうか、一瞬迷ったが、思い切って顔も洗った。まとわりついていた汗と埃が洗い流されて、爽快だった。
「ねえ、井上さん。」
突然背後から呼びかけられて、唯菜はタオルに埋めていた顔をばっと振り向けた。
「あ・・・。」
そこには隣のクラスの女生徒が2人制服で立っていた。唯菜を呼び止めたのは去年同じクラスだった女子だ。
体育は2クラス合同で男女に分かれて行う。去年のクラスメートと並んで唯菜を見ている女子とは体育で顔を合わせるが、話をしたことはなかった。しかし、唯菜は彼女の名前が黒崎であることはもちろん、彼女が去年俊介と付き合ったことがあるのも知っていた。
「井上さんって、中村くんとまた復活したの?」
「ふっかつ?」
「最近、また仲いいよね。別れてたんだよね?」
唯菜の頭に『復活』という漢字が浮かんで、やっと相手の言っていることが理解できた。咄嗟のことに何と答えていいのか戸惑ってしまう。思わず、去年のクラスメートではなく、その隣の彼女に視線が移ってしまった。彼女は最初から一言も発していない。自分より少し背の高い彼女が、こちらを見下ろしていたが、唯菜はすぐにクラスメートだったショートボブの女生徒に視線を戻した。隣の彼女の長い髪が風にそよいでいる。それは嫌らしくない程度に茶色く色づいていた。
周りには誰もいない。まだグラウンドを周回している体操服が彼女達の背後に、小さく見え隠れするだけだった。
「えっと・・・、別れたまま、だけど。」
絞り出すようにそう答えると、目の前の二人、特に長い髪の彼女の表情が緩むのが分かる。つやつやした唇が動いて、ぱっちりした目が少し細くなった。
「ふうん、そうなんだ。」
ありがとう、と言うと、二人は身を翻してぱたぱたと走って行った。その先には、制服の生徒がいるのが見えて、ちょうど美咲らしき生徒が、唯菜に気付いて手を振っているのが見えた。条件反射のように手を振り返した後、唯菜は、タオルを握り締めたまま、しばらくそこに立ち竦んでいた。

<2011.2.12>