優 し い 手   


後悔してもしきれない(3)

中学校の校舎、制服、グラウンド、部室。2年前、そこで日々を過ごした記憶は少しずつ色褪せていたが、意識を戻せば途端に色づき始める。
あの頃、唯菜はクラスメイトの俊介のことを意識していた。今のように好きと言葉にするには躊躇いを感じるほど、ささやかな想いだった。友達が誰かのことを好きだと騒いだり、誰かと付き合ったり、色恋話は幾らでも聞いていたが、自分のその気持ちが彼女達の口にする『好き』というものなのか、唯菜には確信が持てなかった。ただ、彼の動向が気になり、彼と話ができれば浮き浮きした。それがいわゆる『好き』な男の子に対する気持ちなのだと分かったのは高校に入って、俊介と別のクラスになってからだった。
もしも、中学の時に俊介に対する気持ちを誰かに打ち明けていれば、例えば悠里にでも話していれば、悠里との友達関係も破綻するようなことはなかったのかもしれない。
そして悠里のことだから、唯菜が俊介のことを好きだと知れば、二人をくっつけようと画策したり、そうでなくても、バレンタインにお互い好きな人へ告白しようと約束させられたりしていただろう。それに押し切られて彼に告白していれば、もしかしたら高校を入学する時には、彼氏と彼女という関係でいられたのかもしれない。
唯菜はいつの間にか、悠里の話を信じている自分に気が付いた。
悠里とのわだかまりが取れた今、思い返すことを封印していた記憶の中で、確かに俊介は近くにいてくれた。昼間は教室で、夕方になれば部室やグラウンドで、二人は他愛もない会話を交わしていた。
悠里達から除け者扱いにされて落ち込んでいた時期、彼との会話によってかなり救われていたことも、蘇ってきた。
唯菜は毛布の中で身じろぎをした。長い一日だった。枕の下に置いた携帯電話を取り出して時間を確認すると、夜中の1時を回っていた。ベッドに入ってから1時間近く経っている。もう本当に眠らないと明日起きられないだろう。唯菜は睡眠を多く取らないとやっていけないタイプで、日が変わるまで起きていることは滅多になかった。
意思とは裏腹に、唯菜の頭は冴えていた。体は疲れているのに、いろんな感情を行き来したせいか、とりとめのない思考が止まらなかった。自分が選び取らなかった『もし』という仮定を考え始めると、思考はどんどんと広がっていってしまう。
唯菜は携帯電話を元に戻すと、横向きになって体を丸めた。照明を全て落とした室内は、カーテンの隙間から漏れる外の灯りのせいで、うっすらと物の輪郭が見えた。
ふいに、唯菜は思い出した。薄暗い教室。サッカーの練習着姿で立っている俊介。その前で立ち尽くす自分。中学校の教室。
それは3年生の時の自分達のクラスだった。補習が終わった後、唯菜は教室に戻り、なくなった筆箱を探していた。その2日前になくなったワークブックは翌日には自分の机の中に戻っていて驚いた。その日も、今と同じようにクラスメート全員の机やロッカーの中を探した。その時は確かになかったのだから、ワークブックは誰かが間違えて持って帰っただけなのだろう、と思いこもうとした。しかし、筆箱は、間違えるようなものではないはず。
今日も、全ての机とロッカーを確認した。プライバシーの侵害に当たるかもしれないが、ことを大きくしないためには、こっそり一人で探索するしかない。
はあ、自分の席に戻って、唯菜は一人溜息を吐いた。相変わらず悠里達は唯菜の分からない話をしてはくすくすと笑っていた。休み時間の度に疎外感を感じるのに、それでも悠里の傍に行ってしまう。唯菜には休み時間を一人で過ごす潔さも、他のグループに入っていく勇気もなかった。
どうしてこんなことになってんだろう。
唯菜は涙が出そうになるのを堪えながら、それでも帰宅する気にもなれないまま、座り込んでいた。
廊下を近付いてくる足音が聞こえたかと思ったら、がらりと教室の後ろの戸が開いた。
「井上。何してんの?」
そこには練習着を着た俊介が立っていた。訝しそうに近づいてきた俊介に、唯菜は慌てて目をこする。
「俊介こそ、どうしたの?部活は?」
俊介は手ぶらだった。
「借りてた雑誌、返そうと思ったら教室に忘れてさ。」
「見つかったらやばいじゃん。」
「だろ?だから速攻取りに来た。」
俊介は彼の机の中を覗いてから、あれーないなあ、と声をあげた。
唯菜はさっき全員の机の中を確かめたとき、俊介の机の中がそういえば空っぽだったことを思い出した。
「ないの?」
「ああ、教室と思ったけど、違ったかな。まあいいや。」
俊介はそれ以上探そうともせず、椅子から立ち上がったままの姿勢で固まっている唯菜の方を見た。真剣な目の色にどきんとする。少し日が欠けてきたとは言え、西日の差し込む教室だから、唯菜の表情は容易に判別できるだろう。決まり悪くなって、唯菜は俯いた。何か話しなきゃ、と考えを巡らせようとするのに、全く何も出てこなかった。教室はおろか、校舎にも唯菜と俊介以外の誰もいないような気がしてしまうほど静かだった。
俊介は練習の途中で抜けてきたはずで、すぐに教室から出て行くだろうと思っていたのに、なぜか彼は動かなかった。顔を上げることもできずに、唯菜は気まずい静けさにまた涙が戻ってきそうになっていた。
「どした?」
唯菜は息を飲み込んだ。
俯いた視線の先に俊介の上履きが近づいてきたのが見えた。
「ちょっと、進路で親ともめてて。」
もしかしたらいじめに遭っているのかもしれない、なんて思われたくなかった。
顔を上げると、俊介が首を傾げるようにして唯菜の方を覗き込んでいた。
「そっか。」
いつものふざけた彼とは違う静かな声。適当な理由をでっちあげたが、それだけでもういっぱいいっぱいで、それ以上空気を軽くするような言葉を続けることができない。
また涙が滲んできそうになって、それを見られないように唯菜は下を向いて唇を噛みしめる。たぶんどんなに誤魔化しても、もう唯菜が普通じゃないことは俊介に知られているだろう。いっそのこと思いっきり彼の前で泣きわめいてしまえればいいのかもしれない。やけっぱちな部分が唯菜の中に芽生えたが、一方でそんなみっともない、呆れられたらどうするのか、と押しとどめる理性的な部分が笑うように促していた。
「大丈夫だよ。」
さっきより近い所から声がして、唯菜は顔を上げた。
俊介は相変わらず真面目な顔で、こちらを見ていた。彼が心配しているのが分かって、唯菜は涙を堪えた。
「そうだね。」
声は掠れていたが、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。唯菜はふと彼の髪の毛にゴミがくっついているのを見付けた。
「俊介、髪になんか付いてるよ。」
「え!?」
慌てて俊介が自分の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、そのゴミはふわりと床に落ちた。唯菜は彼のその仕草にいつのまにか笑っていて、俊介も彼女に釣られるように笑い始めた。

どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろう。
あの後、二人並んで教室を出て、校舎を出るところまで一緒に歩いたことも思い出した。その日の帰り道はなくなった筆箱さえもすぐに出てきそうに思えるほど気分は高揚していた。 でも、結局筆箱は出てこず、俊介からかけられた温かい言葉の記憶は薄れてしまった。そしてその翌週には鞄がなくなった。
悠里は、隠そうとしていた鞄は俊介が取り返していったという。確かに、鞄はなくなったと思った翌日、机の横にかかっていた。俊介がこっそりと人目に付かない内に戻してくれたのだろう。
もしかして、ワークブックも俊介が取り返してくれたのだろうか。
夕暮れの教室でかけてくれた『大丈夫だよ』と言う言葉も、悠里達とのことで落ち込んでいることを知った上で、励ましてくれたのかもしれない。
唯菜は瞼の裏側で記憶の中にいる俊介を、できるだけ追いかけようとした。
中学の頃、同じ委員を一緒にするようになって親しくなったこと、彼のことを俊介と呼ぶようになったきっかけ、彼の志望校を聞きだそうとさりげなく話を振っていたこと。
もしかしたら彼も自分のことを好きでいてくれたのかもしれない、と思うだけで、些細な会話さえも意味を持ち始める。
付き合ってからも、自分のことを大切にしてくれていた。悠里と再会した時の俊介の張りつめた表情、唯菜が悠里と会うことを過保護なまでに心配してくれたこと、不安を感じている自分の手を引っ張る力強い手の温もり。
唯菜は薄れる意識の中で、次々と現れる幻影に想いを馳せた。それは落としてしまった宝石を見付けたような甘酸っぱい感覚だけをもたらしてくれた。

バスを降り立つと、途端に木枯らしが吹き荒れて、唯菜の髪の毛を巻き上げた。余りの寒さに唯菜は体がぶるりと震えた。唯菜の後ろから早月がステップを降りてきた。
「さむっ!」
二人は通学生の自転車の邪魔にならないように、身を寄せるようにして歩道の端を歩いた。
「さすがに氷点下の寒さだね。」
早月がぼそっと呟いた。
「いやあ、もう1℃くらいには上がってるんじゃないの?」
「だよね。自転車通学の人かわいそうー。」
ほんとね、と言いながら、次々と横を走り抜ける自転車を見送る。唯菜の頭の中では当然のように自転車で通学している俊介の存在が思い浮かんでいた。昨夜の名残のせいか、俊介のことを想像しただけで、不本意にも顔の温度が上がってしまう。唯菜はそれを隠すように、手袋をはめた両手で自分の頬を押さえた。昨日はよく眠れなかった。うとうとしながらも頭の一部がずっと覚醒しているようで、夢なのだか、自分の意識なのだかよく分からない状態だった。起きてもまだふわふわとした感覚が抜けない。
すっかり葉を散らせてしまった桜並木を歩いて、正面玄関から校舎に入った。早月とは靴箱の並びが別になるので、そこで一旦別れて、唯菜は自分の靴箱に近付いていった。
「おはよ。」
靴箱の前でちょうどスニーカーを脱いでいた姿が彼だと気付くのと、顔を上げた俊介が唯菜に挨拶をしたのは、ほぼ同時だった。軽く口端を緩ませた彼と目が合う。
「おはよ。」
先に視線を逸らせたのは唯菜だった。俊介の顔が眩しくて見ていられなかった。しかしすぐ、普通にしてなくちゃ、ということを思い出して、視線を逸らせたわけではないというように、脱ぎかけた靴へと顔を向けた。唯菜が靴を入れて、上履きを床にパタンと落としたとき、俊介は大きなスニーカーを無理矢理押し込むようにして靴箱へ入れていた。彼が気に入っているスニーカーはボリュームがありすぎて、学校の靴箱に収まりきらない、と不満げに言っていたのを思い出す。
「寒いな。」
俊介の声が隣から聞こえた。今、この近くには俊介と自分しかいないことを確認しながら、唯菜はずっと静まらない鼓動に戸惑っていた。
「うん、自転車辛いよね。」
「ああ、もう半端ないな。」
二人の靴を片付け終わるタイミングが同じになって、そのまま俊介は唯菜の隣を並んで歩き出した。
「その割には、相変わらず薄着だね。」
「井上はもこもこしてるな。」
制服にネックウォーマーと手袋だけの俊介が、ダウンジャケットにマフラーをきっちり締めて手袋の手を摺り合わせている唯菜を横目で見下ろしながら笑っていた。
「どうせ着膨れてます。」
拗ねた表情で彼を見上げて、ふと彼の後ろにある風景に昨日の記憶が蘇った。そう言えば、昨日、ここで俊介にもう普通のクラスメートになれるからと言われた。その言葉通り、今朝の俊介は唯菜を避けないばかりか、自分から話しかけてきた。この1ヶ月余り、唯菜から挨拶をすることはあっても、俊介の方から唯菜に関わることは皆無だった。
隣の靴箱を背にして立っていた早月が、俊介と唯菜の姿を認めて、はっとしたような顔をするのが見えた。唯菜が早月に声を掛けるよりも早く、俊介はじゃな、と言うとスタスタと先に歩いて行った。
「中村くんと普通に喋ってるんだ。」
「うん、そうなんだ。」
早月にも、別れたのはお互いの気持ちが冷めたからだ、と伝えていた。
「同じクラスで別れちゃうと後が気まずいもんだけど、そういうのなくてよかったね。」
「うん。」
昨日は彼が普通になると急に宣言したことに驚いて、困惑してしまったが、ぎこちない挨拶を返されるよりも、やっぱり普通に会話できる方がずっといいと思える。
唯菜はずっと俊介に片想いしていた日々にあった喜びを思い出していた。毎日話ができただけで嬉しかった。彼に笑いかけられる度にどきどきして、でも自分の気持ちを周りに悟られないようにその場では平静なフリをし、帰宅してはその日一日のことを思い返して顔を緩ませていた。そんな毎日。普通のクラスメートに戻ると言うことは、つまりはそんな片想いの日々が戻ってくるということで、そう簡単には彼への気持ちを整理することはできなさそうだった。
これから先に、俊介が美咲と付き合ったとしても、自分が彼を好きな気持ちを無理矢理変えなくてもいい。ただ想っているだけなのだから。
昨日学校を出たときは全てが終わったかのように、呆然としていたのに、一晩でここまで浮上できたのも、たぶん、昨夜、眠れずに思い出し続けた彼の記憶のせい、ひいては悠里の打ち明け話のお陰なのだろう。

<2011.2.6>