優 し い 手   

恋愛バロメーター(1)


その日の唯菜の運気は放課後、彼の一言で最上級にあがっていたのに、その1時間後、一気にどん底に下がってしまった。
余計なことを知ってしまったせいで、それまで最高潮に盛り上がっていた乙女気分は儚くも粉々になってしまったのだ。それでも落ち込んでいるわけにはいけない。唯菜はせっかく掴んだ幸せ(今日で形骸化してしまったとしても)を手放してしまえるほど潔くはなかった。

校舎の玄関に設置された傘立ては、ステンレス製の頑丈なもので腰掛けるのにちょうどよかった。晴れが続いていて、そこにはもう見捨てられたとしか思えないような骨が折れたものやナイロンが破れたような傘が数本まばらにささっているだけだった。入り口の脇に広がるステンレスの格子は外の光に照らされて明るいが、立ち並ぶ靴箱の辺りはその光から見放されたように薄暗い。
唯菜がここに走り込んできたときには、委員会を終えて下校する生徒が何人も靴を履いて出ていったが、気が付くとずいぶん前から人通りが途絶えてしまっている。
いま何時なんだろう?
携帯を見ればすぐに分かるのに確かめるのも億劫だった。何にもせずに一人で座っていると、余計に思考がネガティブな方向になってしまうのを止められなかった。それでも、さっきの衝撃から幾分は復活しつつある。
やっぱり教室に迎えに行こうかな。
立ち上がると、長時間、傘立ての格子に座っていたせいでお尻から太股にかけて痛みが走った。背を伸ばすと固まっていた腰部も軋みそうだった。こんなになるまで同じ姿勢でいたことに自分自身で呆れてしまう。
その時、校舎の方から男子生徒の声が聞こえた。2年生の教室がある北校舎の方から時々けたたましく笑う声と上履きの底と床が擦れる音が近づいてきた。3,4人の生徒の声が静かな廊下に響いて、唯菜はその中に自分の待っている人の声が混じっていることに気付いた。
慌てて自分の靴箱の方に移動する。
「あっ井上いるじゃん。」
やって来たのは同じ組の中川と藤山と俊介の3人だった。彼らと唯菜は数人の女子も交えて、休み時間に一緒に過ごすメンバーなので、こういう時は普段なら唯菜も軽く一言発するはずなのだが、ただ笑って手を振っただけだった。
「お出迎えご苦労!」
「お前が言うなよ。」
「ははは、まあいいじゃん、なあ井上?」
笑顔でいることに必死で、なんだか盛り上がっている男子に混じる気力はなかった。3人が各自の靴箱からスニーカーを出して履き替えると、そのまま外に出た。
「んじゃな」
「おふたりさんさようならー」
中川と藤山はそのまま校門の方へ、俊介と唯菜は自転車置き場へとそれぞれ歩いて行った。
「なんでメール無視すんのさ。」
隣を歩く俊介の肩あたりに唯菜の頭があって、お互いかなり無理をしないと顔は見えない。
「なにが?」
「委員会終わったらメールくれるって言ってたのに。全然くれないからメールしたんだぞ。」
「えっ!うそ。」
唯菜は慌てて鞄から携帯を取り出すと、マナーモードになっていた。
「あちゃ、マナーモードになったままだった。」
「委員会だいぶ前に終わってたんだろ?あんなとこで待ってなくても。」
俊介が呆れたように言った。
「ああ、ちょっと友達と話してたから。」
委員会が終わってメールをせずにすぐに教室に迎えに行ったことは言えない。今日、聞いてしまったことはとりあえず私の胸にしまっておこうと唯菜は決めていた。
「話って玄関で?」
「えっ、ううん、委員会の教室でだよ。」
まさかこんな突っ込みをされるとは予想外で、とっさの返答に詰まってしまう。
「ふーん、じゃあやっぱ待ってたんだ。」
「待ってないって!来たばっかだよ!」
つい、きつい物言いになってしまう。しまったと思ったときは既に遅し、普段通りを貫くはずだったのに!こんなしょうもないことでヒステリーってどうよ、と自分に突っ込んでみる。
余りにも情けなくて、俯いたまま歩く。気まずすぎて俊介の方を見ることができない。
「足にかた残ってるよ。」
俊介がぼそっと呟く。
「へっ?かた?」
「傘立てのあとが。」
「うそっ!!」
慌てて背を反らして太股の後ろを確認しようとするが、よく見えない。スカートから出ている部分を触ってみると格子状に表面がくぼんでいるのが分かった。こんなことなら妙な嘘を付くんじゃなかった、と熱くなった頬を押さえた。
「もしかして」
俊介の訝しむような声にどきんと心臓が波打つ。ばれた?
「井上、脳トレしてたんだろう?」
はっ脳トレ?!唯菜は俯いていた顔を上げて俊介を見上げた。思わずそのまま声に出してしまうところだった。
「えっ、そ、そうだよ。分かった?」
「なーに、一人で特訓して俺を負かそうたってむりむり!」
どこからそういう発想が出てきたのか唯菜には不明だったが、他に適当な言い訳を思い付けそうにもないことを瞬時に判断した唯菜は、俊介の勘違いに便乗することにした。
『脳トレ』というのは、一昔前に流行ったDSのゲームソフトだ。中川の兄が持っていたのを彼が見付けて以来、仲間内で密かにはまっていた。俊介のように家でそのソフトを眠らせていた子は他にもいて、そのソフトを使い回していた。
単純な計算を繰り返したり、バラバラになったパーツから漢字熟語を当てたりするのだが、どれもタイムを競うようになっていたから、誰がベストの記録を打ち出すかに燃えていたのだ。
そのゲームのトレーニングの一つに「瞬間記憶」という、画面上にある文字枠に一瞬現れる数字の配列を記憶するものがあるのだが、唯菜はこれが苦手だった。何度か繰り返す内に平均並にはなったが、俊介は逆にこれが得意で、幾ら唯菜が記録を更新しても彼には敵わなかった。
この数日、唯菜が半ばやけになって、そのトレーニングばかり繰り返しているのを俊介はその度にからかっていた。
「いい加減諦めたら?井上って意外と負けず嫌いなんねー。」
「別に俊介に負けてるからやってんじゃないもーん。これ克服できたらちょっとは数学得意になるかなーと思って」
俊介の安易な思いつきにとりあえずは難を逃れたことにほっと息をつく。
まあ、気付くはずないよね。
唯菜が委員会を終えてすぐに教室に戻り、戸を開けようとしたときに室内で男子生徒が喋っていた内容を聞いてしまったこと、逃げるようにその場を離れたこと、それからずっと玄関ロビーでぼんやり座っていたことは誰も知らないはずだ。

俊介は自転車通学、唯菜はバス通学だった。お互いの家はかなり離れているが、方向は同じだった。俊介は自転車を押しながら唯菜の隣を歩いている。試験前の1週間は余程のことがない限り、部活は休みだ。全ての部活が休んでいるとこんなに静かになるんだ。
人影のないグランドや校舎を少し他人行儀に感じていた。校舎を挟んで正門とは逆方向に位置する自転車置き場からさっきまで留まっていた玄関が見える場所まで戻ってきた。玄関前から正門までの道は両脇に銀杏が植えられている。この時期はまだ緑の葉が繁っていて、夕方の西日に木陰を作っているが、1ヶ月後にはその葉も真っ黄色になってそこら辺を舞う。
俊介のかごに押し込まれた自分の白い鞄を眺めていた。クラスメートと別れた後向かった自転車置き場で1台ぽつんと残った自転車を引き出してすぐに、俊介は自分のリュックは背負ったまま、唯菜の鞄をかごに入れるように言った。遠慮していると、彼は「ぶつくさ言わない。」と言いながら唯菜の肩に掛かっていた鞄を自転車のかごに無造作に入れた。 その時は咄嗟にお礼が言えずにそのままになってしまった。
口は悪くても、俊介は基本的に気遣いのできる男子だ。外見は抜きんでていると言う程ではないにしてもそこそこいけてて、背が高く、気さくでかつ誰にでも優しいサッカー少年なんて女子が放っておく訳がない。
俊介とは中学も一緒の学校だったが、高校に入ってからは身長が伸びたせいか格段に注目される存在になっていた。
「なんか今日おとなしいなー。」
俊介が少し屈んで唯菜の顔を覗き込んだ。自分が上の空で適当な相づちを打っていたことに気付く。
「そんなことないよ。ゲームしすぎて頭痛するだけ。」
半分嘘だが、半分は本当のことだ。ゲームは俊介の勝手な思いこみに便乗した言い訳だが、頭痛は先程からずっと唯菜を暗い気分に陥れる原因になっていた。
落ち込んでいるから頭痛が発生したのか、頭痛のせいで余計にブルーになってしまうのか。唯菜は睡眠不足や肩こりからすぐに頭が痛くなる体質だったから、頭痛は珍しいことではない。ただ、慣れているとはいえ、やっぱり暗い思考への手助けになってしまうのだ。
「はー?頭痛するまでゲームってありえんだろ。」
健康優良児で視力もいい俊介は頭痛なんて滅多にないんだろうなと思う。
「わたし頭痛って年中だし。繊細だから。」
「おいおい繊細って。それはないだろ。」
「いや本当だし。」
いつも通りのやりとりに戻ったことに唯菜はほっとしていた。
普段通りに振る舞うことがこんなに難しいとは・・・。
俊介といる間はとりあえず忘れてよう。じゃなきゃもったいない。
毎日部活の練習で帰りの遅い俊介と帰宅部の唯菜は、試験前の部活がない期間くらいしか一緒に帰る機会はない。しかも、今日は委員会があり、何の委員にも当たっていない俊介とは帰れないと諦めていた。なんで試験前に委員会があるのかと腹立たしく思っていたら、俊介はHRが終わった後、当たり前のように「教室でいるから終わったらメールして。」と声をかけてくれたのだ。あの時は気分も急上昇、つまらない委員会の間さえも周囲がきらきら輝いて見えた。
そうだ、今日は俊介の方がわざわざ待っててくれたんだ。
そう思うと幾分は落ち込んでいた気持ちも浮上する。
「でも頭痛いんならどっかで休む?それかすぐバス乗った方がいいか?」
「えっ?うーん、休んだ方がいい。バス酔っちゃうかも」
バスに酔うというのはかなりの誇張だった。確かに頭痛はあるが、15分位のバスに酔うほどでもない。少しでも一緒にいる時間を長くしたいという唯菜の本能が生み出した咄嗟の言葉だった。
「酔うってそんな調子悪い?そういや顔色わるいな。どんだけ脳トレしてたんだよ。」
唯菜はへへっと笑ってみた。さっきの余り意味のない嘘がこんなとこにも出てきて少しばつの悪い思いがした。
唯菜は普段、学校から2分ほどの場所にあるバス停を使っていたが、俊介と一緒の時は俊介の家の近くにあるバス停まで歩くことにしていた。ゆっくり歩いて20分位の距離は、俊介と二人で話をしているとあっという間だった。バスが来るまで俊介は傍にいてくれたから、バス停に着いてから次のバスがなかなか来ないときはらっきー!と喜んでいた。もちろん声には出さず、である。
そんな些細なことで喜んでいる唯菜にとって、途中で寄り道をするなんて、願ったり叶ったりの状況だった。
「どうする?この先にある公園でも行こうか。ここらへん店ないし。」
学校から少し離れたこの場所は住宅街でフランス料理の店や常連しか入らなさそうな喫茶店はあったが、高校生が気軽に入れそうな店はなさそうだった。
「うん。」
バスが通る幹線道路から歩道のない道に曲がった。2分くらい歩くと大きな白い建物が幾つか建ち並んでいるのが見えてきた。
「そこ。」
俊介が指さす先を見やると、コの字型に建っているコンクリートの建物に囲まれたスペースに公園らしいスペースがあった。遊具はどれも錆びが所々見られて、決して新しい物ではなかったが、滑り台にブランコ、シーソー、ジャングルジム、回転台と数種類のものが広いスペースに散らばっていた。中央に大きな木が植えられている。その隣には屋根のある休憩所らしきものが置かれていた。ベンチは他にも幾つかあったが、俊介は中央の方に進んでいった。自転車を止めて「ここでいいよな。」と唯菜に確認してから、「ちょっと待ってて。」と言い残すと来た方とは逆の入り口の方に迷いなく走り去って、建物の影に消えた。
さすがサッカー部一の俊足、と感心しつつ背中を見送る。唯菜は、一人になると俊介との会話のおかげで薄れていた記憶が軽い頭痛と共にフラッシュバックしてきたことに溜息をついた。