優 し い 手   
後悔してもしきれない(1)

1月末の学力テストの後、唯菜は悠里と会う約束をしていた。彼女とは時々メールを交わしていたが、会うのは2学期末テストの最終日以来だった。前に会ったときは、俊介が心配して待ち合わせ場所まで護衛のように付いてきてくれたのだった。今思えば、あれも美咲が仕向けたことだったんだろう。いわば恋敵である唯菜に対して美咲がそこまで配慮するのも不思議な気がしたが、身を引こうとしていた美咲ならば、そういうアドバイスをしてもおかしくはない、そう考えながら、隣を歩く美咲の顔を少し見上げた。彼女との関係は表面上、全く変わりなかった。俊介とはどうなっているんだろうか、と気になり始めると、薄暗い感情に襲われそうになることもあったが、それを外に出さずにいることは唯菜にとってそれほど難しいことではなかった。
「テストはやだけど、早く帰れるのはいいよね。」
「んー確かに。」
「ああ、早くベリータルト食べたーい!」
美咲はこの後、ケーキ屋に行くらしい。唯菜も誘われたが、悠里との先約があったから断った。
「言わないで、私も食べたくなる。」
「はは、唯菜の分も食べてきたげる。レアチーズでしょ?任せてよー」
「何を任せるんだか。」
二人は笑いながら靴箱に辿り着いた。大口を開けて笑う美咲を見ていると、気の置けない友達である彼女を失わずにすんでよかったと思えた。
「外寒そー。」
靴を取り出しながら、そろって曇り空の下のグランドを眺めた。ドアが開閉される度に吹き込んでくる風の音がうなり声のようだった。
「井上!」
唯菜は自分を呼ぶ声にドキリとした。まさか、と思いながら振り返ると俊介が駆けてきていた。
こんな風に名前を呼ばれるのも、きちんと顔を合わせるのもあの日以来初めてのことだった。何だろう、という不安と期待に鞄を持つ指先が震えた。
「じゃあ、私はお先に。バイバイ!」
はっとした時には美咲がささっと靴を履いて唯菜に手を振っていた。
「あ、美咲・・・。」
美咲は唯菜の返事も待たずに、手を振りながら出て行ってしまった。一緒にいた美咲ではなく、自分が呼び止められたことに、唯菜の心臓は尋常じゃない動きをし始めた。
「ごめんな。」
唯菜は手に持っていた靴をもう一度靴箱に戻して、俊介の方を振り返った。
「これ。」
俊介の手にはDVDのケースがあった。何だろう、と思いつつ差し出されたそれを受取る。
「録画してたライブ。遅くなってワリイな。」
唯菜の訝しげな表情に、俊介は苦笑しながら説明した。
「え、うそ。そんなの、いいのに。」
唯菜は好きなバンドのライブ録画をDVDに落としてもらう約束をしていたことを思い出した。それは終業式の後、俊介の部屋で交わした約束だったが、その直後にあった出来事のせいで、すっかり忘れ去っていた。唯菜はいったん手にしたそれを俊介に押し戻そうとしたが、俊介は受け取らなかった。
「俺が持ってても仕方ないし。」
そう言われると、確かにその通りで、唯菜は透明のDVDケースに視線を落とした。
「でも・・・。」
「そのDVDもまとめ買いで安かったやつだから。」
そのまま受け取ってしまうことに躊躇いを感じていた唯菜に俊介は事も無げに言った。
ちらりと俊介の表情を窺うと、かなりの至近距離で目が合ってしまった。唯菜は慌てて俯くとDVDを鞄の中に入れた。
「ありがとう。」
視線を彼のネクタイの辺りに彷徨わせたまま、唯菜はお礼を言った。年が明けてから1ヶ月近く、俊介は唯菜に対してずっとぎこちなかった。それはあからさまでないにしろ、普通どおりを心懸けていた唯菜にしてみれば、そこまで罪悪感を持たれると、情けをかけられているように感じて苛立つことさえあった。しかし、今の俊介はずっと以前の屈託のない彼に戻ったように思える。
唯菜は自分の顔を真っ直ぐに見ているであろう俊介の前で、黙っていることに居たたまれなくなった。必死に言葉を探して視線を下ろしたとき、彼が手に何も持っていないことに気付いた。
「あれ、部活行かないの?」
「ん、今日はこれから特別補習。」
俊介が理系クラスに進むための補習を受けていることを思い出した。その話を聞いたのも、終業式の後だった。
唯菜は胸がずくんと痛むのを感じた。
「テストだったのに、大変だね。」
「ま、自分で決めたことだしな。」
唯菜は俊介の顔を振り仰いでいた。彼の言葉が唯菜とのことを言っているような気がしたのだ。唯菜ではなく美咲を選んだのは自分の意思なのだと。
もちろんそれは唯菜の思いこみでしかなく、俊介は表情を失っている唯菜に一瞬驚いて目を瞬かせたが、すぐに真剣な顔になった。
「いろいろ、ごめん。気ィつかわせて。」
俊介と視線を合わせたまま、唯菜の頭の中は真っ白になっていた。彼の声が耳に入ってきているのに、その意味が理解できない。
「もう普通にクラスメートできると思うから。」
俊介の表情が和んだ。唯菜も釣られて口元を緩めていた。しかし、その実、なぜ彼の雰囲気が緩んだのか、分かっていなかった。
「じゃな。」
俊介はほっとしたように力の抜けた様子でそれだけを言い残すと、そのまま駆けて行った。下校の生徒とは逆方向へと進んでいく彼の背中は、渡り廊下へと曲がったのを最後に見えなくなった。唯菜は呆然と固まっている自分に気付き、慌てて靴箱へと手を伸ばした。さっき戻した靴をもう一度取り出す。
頭の中で何かが鳴り響いているようだった。唯菜はぼんやりしたまま、冷たい風の吹き荒れる屋外を一人で歩き始めた。

「あっ。」
思わず声に出してしまって、唯菜は慌てて口を押さえた。バスの中はしんと静まりかえっていたが、唯菜の突然上げた声に、振り返った人はそれほどいなかった。
それでも唯菜は顔を隠すように俯かせながら、慌てて携帯電話を確認した。あと10分で悠里との待ち合わせ時間になろうとしていた。待ち合わせは以前と同じ駅前だったのだが、唯菜はいつも乗る自宅へのバスに乗ってしまっていたのだった。今からバスを乗り換えていては、とてもでないが間に合いそうにもない。
唯菜は悠里にメールを打ち始めた。バスに乗り間違えたことを伝えて、少し待ってもらうようにメールをする。窓の外に目をやり、次のバス停が俊介の家の近くのものであることに気付き、停車ボタンを押そうと伸ばした手を降ろした。俊介はまだ補習を受けているはずだ。補習の後はサッカーの練習で、彼がその辺りにいるはずはないのは分かっていたが、唯菜はその停留所で降りたくなかった。
何度か俊介と一緒にバスが来るのを待つために座ったベンチやそこから見える風景。今はそれを見る気になれなかった。
停留所名のアナウンスを流しただけで、バスは停車せず、進んでいく。唯菜は窓の外を見ないように俯いていた。視線の先で握りしめた携帯電話のイルミネーションが光り、着信があったことを伝え始めた。
悠里からのメールは、自分もまだ学校を出たばかりだから、駅での待ち合わせをやめて、家に来ないか、と誘うものだった。悠里の家はいつも降りる自宅近くのバス停から3つ先のバス停のすぐ近くにある。
唯菜は了承の意を伝えるメールを送ると、肩の力を抜いて、窓の外へと視線を移した。自宅近くの見慣れた風景を通り過ぎると、中学の頃、通学に使っていた道へと移っていった。無意識の内にこぼれた溜息がバスのエンジン音に掻き消されていく。背もたれに凭れさせた頭がズキズキしていた。いつもの頭痛とは違って妙に重く感じる。
このお店まだあるんだな・・・あそこ、あんなマンションあったっけ?
唯菜は記憶に残る風景と目の前の風景を比べることに集中した。
さっき悠里との約束を思い出すまでの間、ぼんやりとしていた唯菜の頭の中は黒い靄に覆われていた。全ての望みが絶たれた後の空しさ。関係のないことを考えていなければ、空っぽになった思考を埋めるように後悔と嫉妬が押し寄せてきそうだった。

大型店舗の並ぶ大通りで唯菜はバスを降りた。そこは唯菜の通っていた中学校の近所だった。悠里の家は中学校からも小学校からも近かった。
唯菜の家族は現在住んでいるマンションを購入するまでは、悠里の家のすぐ近くにあったアパートに住んでいた。引越をすると親から聞かされた時、小学校を転校する必要がないと聞いて安心したのを思い出す。あの頃は本当に悠里と仲が良かった。家が離れても、学校が一緒ならずっと仲良しでいれるね、と悠里が一緒になって喜んでくれたものだ。
それからいろいろあって、もう彼女の家に行くことなど想像もできなかったのに、自分は今こうして彼女の家に向かっている。動転していて考慮する余裕もなかったのだが、いきなり悠里の家に行くなんてよかったんだろうか、と忘れていた不安が募り始め、唯菜の足は少し遅くなった。
悠里の家は呉服屋で、店舗もその奥にある自宅も純和風の構えだった。駐車場を横切ると、息を潜めるようにして店の前に立つ。幼い頃、まるで自分の家のように上がり込んでいた頃のままだった。唯菜は意を決して開き戸にかけた手に力を入れた。戸はからからと軽い音がして開いた。
「あ、唯菜ちゃん!悠里からメールあってね、帰るまでここで待っててって。」
こんにちは、と挨拶する前に、悠里の母が駆け寄ってきた。相変わらず朗らかな人だなあと勧められるままに店先のテーブルセットに腰掛けた。店内はエアコンが効いていて、バスを降りて数分で冷えていた体がすぐに暖められる。
広い土間と上がり框の向こうの畳敷き、壁のショーケースの中に陳列された着物、奥の棚に積み上げられた反物。よく遊びに来ていた頃と何も変わってないように思えることに安心した。
自宅のある奥へと引っ込んでいた悠里の母親は、お茶の用意をして戻ってきた。唯菜の前に湯飲みを置くと、自分もテーブルセットの一つの椅子に座った。少しふくよかな体を包む和服が板に付いていて、仕草に違和感がない。
「お母さんとは時々会うんだけど、唯菜ちゃんとは久しぶりねえ。」
はい、と答えながら、たぶん中学の卒業式で顔を合わせて以来だと思い返していた。家が近所だった頃は、ほぼ毎日のように顔を合わせていたので、全く変わっていない彼女の外見と人柄に、するすると緊張がほぐれていく。両親のことや高校のことを話している内に、悠里が帰ってきた。
「ごめん、ゆい!」
息を切らせながら、悠里はぼん、と鞄を畳の上に置くと、手袋とマフラーを取った。
「これ、悠里、荷物は持って行きなさいよ。」
「分かってるって。唯菜、上がってよ。」
靴を脱いだ悠里は鞄を持ち直すと、のれんをくぐって奥へと歩いていった。
唯菜も悠里の母親にお茶のお礼を言うと、悠里に続いて畳へと上がった。
「じゃ、おじゃまします。」
「ゆっくりしてってね。」
彼女の朗らかな声にお辞儀を返しながら、勝手知ったる屋内を進んでいった。
「こっちこっち。」
階段の下で悠里が手招きしていた。
悠里の家も、二階に子供部屋があった。トントンと急な階段を軽快に上がっていく悠里の後ろから、唯菜は足を踏み外さないように手すりを持って上っていった。
「こっちが私の部屋。」
「あれ?ここってお姉さんの部屋じゃなかった?」
悠里が開いたドアの向こうはかつて二人で遊んだ子供部屋の隣の部屋だった。悠里に続いて入った室内は、記憶にあるかつての悠里の部屋よりも広いようだった。
「そうそう、はるねえが東京でマンション買っちゃったからさ。もうこっちには帰ってこないだろうって。」
「え、マンション?」
確か悠里の姉は3歳上だった。唯菜と同じ南高校から東京に出たというのは聞いたような気がする。
「そう。二十三区ではないらしいんだけどね。」
部屋は暖かかった。悠里の母親がたぶんエアコンを点けてくれていたのだろう。悠里は鞄を床に置くとミニテーブルを動かして、その両側にベッドの上にあったクッションを置くと、ちょっと待っててね、と言い残して部屋を出て行った。
残された唯菜は、話に出た悠里の姉のことを思い出していた。成績優秀だった彼女はてっきり大学に進学したのだと思っていたが、マンションを購入したということは、もう働いているのだろうか。大学生ならまだ卒業してないはずだし、と疑問に思ったが、さっきの悠里はどことなく歯切れが悪かったようで、たぶん余り立ち入らない方がよさそうだと唯菜は判じた。 初めて入る部屋の中をぐるりと見渡す。壁際のチェストの上にはぬいぐるみが所狭しと並べられていた。悠里のぬいぐるみ好きは変わらないんだな、とたくさんのぬいぐるみがごろごろと転がっていた以前の部屋を思い出して、唯菜はちょっと頬を緩めた。最近人気のキャラクターもシリーズで揃えたのかと思うほどたくさんあった。彼氏とはよくゲームセンターで時間を潰すと話していたから、彼にユーフォーキャッチャーで取ってもらった物も混じっているのかもしれない。部屋にはテレビがあった。俊介の部屋にあるテレビよりは小さいけど、と無意識の内に俊介の部屋を脳裏に思い浮かべていた。
彼の部屋と比べていたことを自覚して唯菜は溜息を吐いた。もうあの部屋に行くこともないだろう。そう考えると、ひどい虚脱感に襲われた。
何を今更、である。別れてから1ヶ月近く経ち、自分の中での整理も一応ついたはずだった。油断するとさっきのように俊介に関連することを考えてしまうこともあるが、回数は少なくなってきている。このまま2年生の終了式まで過ごしていけばいいと思っていた。
でも、本当はまだ分かっていなかったのかもしれない。俊介と別れたということをきちんと認識できていなかったのかもしれない。
悠里の家に来てから、幾分収まっていた頭痛がまたひどくなったような気がした。

<2011.1.18>