優 し い 手   


遠ざかるぬくもり(4)

新学期が始まった。
藤山と同様、専門学校に行くと決めている美咲も補習には来なかったので、久しぶりに顔を合わせたのは始業式の日だった。登校してきた唯菜は教室に入り、窓際で向かい合っている奈津美と美咲の所へ向かう。
「おはよう。」
「ゆい、おはよ。」
奈津美とは2日間あった補習の間で話をしているが、美咲の顔を以前と同じように笑顔で見るには、少し気合いが必要だった。しかし唯菜の態度におかしなところはなかったらしく、美咲も変わらない笑顔で答えた。
「そういえば、おばあさん、どう?」
「おかげさまで、退院したよ。自宅療養中。お母さんが週末だけ帰ってる。」
「そっか。大変だったよね。」
二人の神妙な顔に、そう言えば自分はクリスマス以降ずっと母の実家に行っていたことになってるんだった、と思い出した。唯菜の嘘が二人に祖母がとても悪い状態だったと勘違いさせていることに気付いて、慌てて言い訳をする。
「そんなに大したことはなかったのよ。お正月はいつも帰省してるし、今年は早めに行こうってことになっただけで。」
二人の表情は少し和らいだが、すぐに、美咲は唯菜の腕を引っ張った。
「それと、中村のこと。」
美咲の潜められた声にどきりとする。
「納得いかないんだけど。なんで別れたの?」
唯菜は一瞬言葉に詰まった。ここまで正面切って尋ねられるとは思っていなかったのだ。美咲にだって負い目はあるはずだから、その話題を避けるだろうと思っていたのに。
「なんでって、まあ気持ちの問題、かな。」
補習の日、奈津美にも聞かれて答えたとおりを口にする。
「それはナツにも聞いたけど。気持ちって?ゆいは好きじゃなくなったってこと?」
「ちょっと、美咲、声が大きいよ。」
潜めていたはずの美咲の声は、いつの間にか普通の喋り方に戻っていて、奈津美が慌てて彼女の肩を小突く。美咲が我に返ったように周りを見回すと、ごめん、つい、と謝った。
唯菜も彼女に釣られるように、教室の中を見回した。そのとき、ちょうど俊介が教室に入って来た。目が合ったので笑いかけると、彼もぎこちなく手をあげた。俊介は荷物だけ置くとそのまま教室を出て行った。まだ藤山も中川も来ていなかったから、別のクラスへ行ったのだろう。
顔を前に戻すと、美咲がこちらを見ていた。唯菜と俊介が普通に挨拶を交わしているのを目にして、気を削がれたのかもしれない。
「まあ、二人の話だし、私があれこれ言うようなことじゃないんだけど。」
美咲はずいっと唯菜の方に身を乗り出して、ひどく真剣な表情になった。
「本当に、別れちゃってよかったんだよね?」
いきなり迫られたことにたじろぎながらも、唯菜は目を逸らさなかった。
「ちゃんと考えた結果だよ。」
「そう。」
美咲も奈津美もまだ心配そうな空気を漂わせていたが、唯菜はそれに気付かない振りをした。
ちょうど奈津美と同じテニス部のクラスメートが登校してきて、その場の空気は賑やかなものに一新された。今夜から始まる新しいドラマの話をしながら、唯菜はさっきの美咲の言葉を思い出していた。
唯菜には、美咲の言葉の裏に『それなら、私と付き合ってもいいんだね』という確認が含まれているように思えて仕方なかった。そんな風に勘ぐってしまう自分がものすごく汚い物のように思える。下手をしたら、美咲に対して嫌な感情さえ持ってしまいそうで、唯菜は負の感情に巻き込まれないよう、目の前で交わされている会話に集中しようとした。

「あっ、帰ってきた。ちょっと中川。これ後輩が持ってきたよ。」
美咲が学食から戻ってきた中川に向かって、手に持った鍵を上げた。
「お、サンキュー。」
中川は窓際に座っていた美咲達の所にやってくると、鍵を受け取った。中川の後から教室に入って来た藤山と俊介もゆっくり窓際の方に歩いてきた。ちょうど窓を背にするように座っていた唯菜は、俊介と一瞬目があったが、俊介はついと視線を逸らせた。
「あ、お前ら、いいもん食ってんじゃん。」
「食べる?いっぱいあるよ。」
お弁当を食べ終えた唯菜達は、奈津美が作ってきたシフォンケーキを囲んでいた。中川は机の上にあったそれにさっと手を伸ばすと一切れを豪快に口に頬張った。
「いける。ほれ、藤山も。あんまり甘くない。」
「ほんとだな。」
最初、控えめに一口を齧っていた藤山は、にっと笑うと、残りはあっさりと食べてしまった。
「中村も。試食してよ。」
「なに、試食って。」
俊介が最後の一切れを摘んだ隣で、中川が奈津美に顔を向けた。
「バレンタインのケーキ。何がいいか試してんの。」
「は?バレンタイン?」
「気が早くないか?」
藤山と中川は口々に言った。俊介も口をもごもごさせながら、驚いている。
「でしょ?まだ1ヶ月あるのにねえ。」
「リベンジだもん。」
もともとお菓子づくりの好きな奈津美は、去年のバレンタインに初めて生チョコを作ったのだ。失敗したが作り直す間もなく、とりあえず体裁を整えて渡したが、ラッピングを開いて現れた物を見た時の彼氏の表情はその一日、奈津美の機嫌をとことん悪くしたらしい。
「聞いた、その話。卓也はおいしかったって言ってたぞ?」
ケーキを食べ終えた俊介が思い出しながらそう言った。
「私のプライドの問題。今年は開けた瞬間に、おおーって歓声があがるようなものを目指してるの。来年はそんな暇ないかもしれないし。」
熱弁を振るう奈津美に、来年も折り込み済かよ、と中川が呆れた声を上げた。
「ということで、中村、卓也には言わないでよ。」
「ああ、言わない言わない。」
苦笑しつつ答える俊介の方に唯菜の視線が向いたとき、一瞬目が合った。しかし、またするりと外される。唯菜は不自然にならないように顔を廻らせて奈津美の方に視線を戻した。
「まあナツが頑張ってくれるんなら、試食はいつでもするけどね。」
唯菜がそう言うと、美咲もそうそう、と笑った。太るぞ、とちゃかす中川に対して、美咲はうるさいわよ、と彼の下腹にチョップを入れた。うっと大袈裟に痛がる中川を見上げていた美咲が、ふと思い出したように言った。
「そういや、空手部ってずいぶん指導が行き届いてんのね、あんたの後輩とは思えない。」
「は、何が?」
「えーっと、多田君だっけ。鍵届けてくれた子。1年3組?4組?」
「5組よ。」
唯菜が助け船を出すと、そうそう、1年5組の多田君、と言って美咲は大きく頷いた。
「きちっと挨拶もできてたし、ちゃんと名乗るなんて、すごくない?こんな先輩の元でいるとは思えないんですけど。」
こんな、と指さされた中川は、にやっと笑った。
「それって下心あっからだよ。多田ってさ、東条のこと、なに勘違いしてんのか、綺麗な先輩とか言ってやがったからな。」
「いやーん、見る目もあるじゃん!」
「騙されてるだけだろ。」
「あんたいちいちうるさいわね。あの子ちょっと見た目もいいし、ナイスなんじゃない?」
「かもね。」
はしゃぐ美咲に唯菜は相槌を打った。
「5組って英数だし、頭もいいじゃん。」
奈津美も美咲を煽るようなことを言いながら笑っていた。
「うわ、まじ?!これはロマンスの到来?ちょっと中川、そういうことはさっさと報告してよ。」
「お前の毒牙にかけるには多田がかわいそすぎる。」
皆笑っている。俊介も。
唯菜は他の男子を誉める美咲の言葉に、はらはらしながら思わず俊介の表情を窺ってしまった。何も感じてなさそうな彼の笑い顔に、ほっとする。ぼんやりと彼の顔を見ていた唯菜の方を俊介の視線が巡ってきた。一瞬目が合ってしまい、思わず唯菜の方が先に目を逸らしてしまう。それから、しまった、と悔やむが、もう顔を戻すわけにはいかない。
そっと目の端で窺うと、俊介は藤山にもたれかかるようにして、まだ続く中川と美咲の話に笑っていた。
美咲の言葉が冗談に過ぎない、ということが分かってるから、別に慌てもしないんだな、とそれが重たく澱となって沈んでいく。美咲の言葉に俊介が不快感を浮かべたなら、それはそれでショックを受けただろうが、そんな風にまるで気にしてもないような態度を取られると、そんな戯れ言に左右されるような関係ではないということか、と勘ぐってしまう。
つくづく、自分の狭量さが嫌になるが、そんなことはおくびにも出さずに、唯菜は笑っていた。
笑顔の裏で、さっき合ってしまった視線を自分から逸らしてしまったのは失敗だった、と反省する。俊介は唯菜に対して罪悪感を持っているらしく、すぐに目を逸らされてしまう。しかし、彼の表情がどんなに堅かろうが気まずそうであろうが、唯菜はそんな彼の態度を無視して、あくまで平常通りでいるように心懸けていた。そのせいか、奈津美や藤山達もまるで何もなかったように応対してくれる。たぶん、他のクラスメートからは、唯菜の周りの人間関係は冬休み前と何の変化もないように見えるだろう。
俊介と美咲にとって自分の存在というのがどういう物なのか、想像したくなかったが、少なくとも美咲は唯菜に申し訳なさを感じているようではなかった。
唯菜が美咲と俊介の繋がりを知ったことを、俊介は結局気付かなかったのか、それとも気付いた上で美咲には伏せているのか。唯菜には分からなかった。いざこざを嫌う彼のことだから、どうにか丸く収めようと色々と取り繕っているのかもしれない。
唯菜にとって救いだったのは、美咲と俊介の関係も変わったようには見えないことだった。彼と彼女のことは気にしないと決心してはいたが、無意識の内に、二人の近さを目が追ってしまうのだった。そんな自分の意志薄弱さを忌々しく思ったが、そればかりはどうしようもなかった。ただ、はっきり目に見える形で変化がなければ、表面上の自分は取り乱さずにいられるだろう。胸中に暗い感情を抱えていようとも。
あと3ヶ月。たぶん3年になれば俊介は理系のクラス、美咲は私立文系、唯菜は国立文系、とクラスが離れてしまう。そうすれば、もう二人が一緒にいるところを目にしなくて済む。目にしなければ、徐々に気持ちは薄れ、俊介と美咲が付き合い始めたという話を聞いても、きっと笑って祝福することができるだろう。
だから、それまで、皆の前で暗い顔を見せてはいけない。私は振られた訳ではない、同情される理由もない、罪悪感を持たれる意味もない。そのように振る舞おうとするプライドだけが、今の唯菜に平静を保たせていた。

<2010.12.28>