優 し い 手   


遠ざかるぬくもり(3)

年末休暇に入った父と二人で、母の実家に行くまで、唯菜はずっと自宅に閉じこもっていた。母はクリスマスの翌日から行ったきりで、監視の目がないことをいいことに冬休みの補習は休んでしまった。担任にもクラスメートにも祖母の入院のせいで隣県に滞在する、とごまかした。
行動範囲は室内だけだったが、退屈することはなかった。母に代わっての家事は予想以上に時間がかかったし、さぼった補習分の勉強はしようという心懸けを忠実に守ったせいで、時間を持てあますことはなかった。
お正月は母の実家と病院で過ごし、父の仕事始めに間に合うように一家で自宅に戻ってきた。久しぶりに室内に入った母は、殊の外室内が整頓されていることに気をよくし、お陰で唯菜は臨時収入をもらうことができた。素直に受け取ったが、補習をさぼってしまったことを隠している後ろめたさもあって、明日から始まる補習を休むとも言えなかった。

「行ってきます。」
唯菜は久しぶりに制服を着て自宅を出た。閉じていくドアの向こうから母の行ってらっしゃい、という声が追いかけてきた。さて、どうしよう、と考えながら、足は惰性のようにマンションを出ていつも使っているバス停へと向かっていた。自宅のすぐ外でさえ、こうして歩くのは久しぶりだった。母の実家に向かうときは父の車に乗って出かけたし、それ以外には外出しないままにきた。
ただ歩いているだけなのに、何か落ち着かない気がするのは、それが久しぶりだからなのか、それとも、自分が普段とは違うことをしようとしているせいだろうか。
鞄の中にはきちんと補習で使う問題集が詰め込まれている。このままバスに乗ってしまえば補習の開始時間には余裕で間に合うはずだ。
どうしよう。休むのなら担任に連絡しなきゃいけないし。
唯菜は時刻表どおりにやってきたバスに乗り込んだ。冬休みのせいか車内は空いていた。窓際の席に座り、流れていく風景を見下ろした。よく暖房が効いていて、縮こまっていた体が緩んでいく。
どこの高校も補習があるらしく、自転車を走らせている制服姿はたくさん見られた。その中には唯菜の通う南高の制服もあった。
唯菜は学校までの道程の3分の2あたりまで来たところで、バスを降りた。すぐに横断歩道を渡ると乗り換えのバス停まで歩く。俊介の通学路でもあるはずだから、もたもたしていて、彼に会ってしまっては意味がない。幸い、希望のバスはすぐにやって来た。
再び暖かい車内の空気を満喫して、唯菜は息を吐いた。やっぱり、学校へは行けない。
模擬試験のあった日からずっと誰とも会っていないが、美咲と奈津美にはメールで俊介と別れたことは報告した。二人とも折り返し電話がかかってきたが、唯菜はあんまり好きじゃなくなったから、と理由を言うと、後は母の実家に来ていて余り話ができない、と誤魔化してしまった。
たぶん納得してはないだろうから、顔を合わせればまずその話になるだろう。唯菜にはまだ面と向かって説明できる自信がなかった。
特に美咲に対しては、別れたことのショックを顔に出してはいけない。もしも、唯菜が俊介に対して気持ちを残していることを知ったら、美咲は俊介と付き合おうとしないだろう。美咲と俊介の関係に、これ以上自分が枷になってしまうのは嫌だった。
始業式になればもう休むことはできない。それまでに覚悟ができるのか、と問われれば、全く確証もないのだが、今は、とにかく時間がほしかった。逃げているだけだというのは分かったが、まだ猶予があるのならば、それに甘えていたかった。
唯菜は目的の停留所でバスを降りるとすぐに、学校へ休む連絡を入れた。唯菜はこれまでも補習を真面目に受けていた方だから、担任も大変だな、と心配してくれるほどだった。補習は出ないけど、きちんと勉強はするから、と心の中で手を合わせながら、携帯を鞄にしまうと、唯菜は目的地へと向かった。
まだ通勤時間のビジネス街は人の往来が激しかった。駅前の繁華街からも少し離れ、周りに高校のないその区域で学生服はどうしても異質だったが、誰も唯菜に目を止める人はいなかった。まさか、補導員とかいないだろうけど、と幾分肩に力の入っていた唯菜だったが、目的の図書館の玄関が施錠されているのを知って、がっくりきた。
時計を見るとまだ半時間ほどある。携帯のサイトを見てればやり過ごせない時間ではなかったが、吹きさらしの風に吹かれたまま寒空の下でいるのは耐えられそうになかった。唯菜は仕方なく、一番近くにあったコンビニへと歩いて行った。
ここで立ち読みでもして時間を潰そうと、手袋を外して、雑誌コーナーに近付く。思ったより人の少ない店内はあまり長居できそうな雰囲気ではなかったが、余りやる気のないらしい店員は客の動向など気にも留めてないようだった。
唯菜はよく見る音楽情報誌を手にした。ぱらぱらと捲る。店内は暖かい上に明るかった。手袋の中で萎縮していた指先が、突然の暖気に痺れているのさえも心地よい。 これなら30分くらいは居られるかな。
「井上?」
訝しげな声に、振り仰いだ先には、藤山の顔があった。こんな時だというのに、つい目当てのバンドが掲載されたページに集中してしまい、知り合いが入ってきたことに気付けなかったことを唯菜は悔やんだが、もう遅い。彼はニットキャップをかぶっていた。
「あけおめ。」
「あ、おめでと。」
彼は私服だった。
「もしかして補習行くとこ?」
「あ、うーん。そんなとこかな。えっと、藤山君は?」
咄嗟に曖昧な返事をすると、誤魔化すように相手に話を振った。
「俺は進学しないから補習は免除。」
「え?!大学行かないの?頭いいのに。」
意外な答えに唯菜は藤山の顔をまじまじと見てしまった。
「まあいろいろね。金銭的理由ってやつ。」
彼は事も無げに答えたが、唯菜には返す言葉が思いつかなかった。唯菜の戸惑っている雰囲気を察したのか、藤山はふっと笑った。
「トップの井上さんに頭いいとか言われると、さすがに嬉しいね。」
自分がうまく返せなかったせいで、彼に気を回させてしまったことに気付いた唯菜は、情けなくなったが、ここで落ち込んでいる場合ではない。
「こちらこそお褒めいただきありがと。」
こういう時は、できるだけ軽く対応するのに限る。唯菜のおどけた表情に藤山も事実ですから、と澄ました様子で返した。
後から入ってきた客から避けさせるように、藤山がさりげなく唯菜の背中を押した。
「あ、ごめん。」
入口に近いその場所は立ち話をするには邪魔になることに、今更ながら気付く。
「出ようか。」
さっきかばうように触れられた背中を軽く押された。
「え、藤山君は買い物いいの?」
「うん、もしよかったら、朝飯つきあってよ。」
藤山はガラスのドアを腕で開けたまま、何も言わずに唯菜を通した。そのさりげないエスコートぶりに、唯菜はちょっとどきりとした。
そのまま藤山と店の外に出てしまった唯菜は、どうしようと迷った。藤山とこれ以上話をすれば俊介の話題は避けられないだろう。
「中村が妬くか?」
藤山の顔を見上げる。からかうような表情。
ああ、藤山君はまだ知らないんだ。
「ううん、平気。行こう。」
何も知らない藤山なら、必要以上に突っ込んでくることもないだろう。二人はコンビニの道をはさんで向かいにあるファーストフードの店へ入った。
藤山はサンドイッチのモーニングセット、唯菜はスープを買って、窓際の2階席に座った。ガラスの向こう側には、さっきまでいたコンビニが、更にその奥の方には唯菜が行こうとしていた図書館が見えた。もう少しで開館する時間だな、と唯菜は時計を確かめた。
「藤山君って家この近く?」
「そうだよ。昨日つれの家に泊まってたからさ、その帰り。」
モーニングのセットの実物を唯菜は初めて見たのだが、通常のセットに比べるとボリュームがないように感じた。目の前でその控えめな食事を済ませている藤山の食べ方も何というか、淡々としている。
「お腹いっぱいになる?」
「うん。」
俊介ならこのセットを2つくらい平らげそうだ、と思ってはっとする。藤山の食べ方への感想も、どんな量もあっという間に食べ終えてしまう俊介のがっつき方と比べていたに過ぎないと気付いたのだ。
「中村はよく食うだろ?」
「そうだね。」
まるで唯菜の思考を読んだかのようなタイミングで俊介の名前が出された。
「あいつ細いのに、中川より食うぐらいだよ。ヤセの大食いってああいうのを言うんだろうな。」
唯菜は相槌を打った。本当に藤山は何も知らないらしい。
「あ、そういや、補習って何時から?のんびりしてたら間に合わねえよな。」
「え?」
藤山は自分に関係ないということで、全く補習の時間割を知らなかったらしい。そのマイペースぶりが可笑しくて、唯菜は自然と笑っていた。
「ん?」
「補習は普通の授業と一緒の時間に始まるんだよ。」
藤山は一瞬ポカンとしていたが、慌てて袖をまくると腕時計を見た。
「・・・ってそれじゃとっくに始まってるじゃん。」
「あ、いいの、今日は休むつもりだったから。」
腰を浮かしかけた藤山は座り直すと、唯菜を見て、にっと笑った。
「めずらしい、井上がサボリなんてさ。」
「そう?」
思った通り、藤山は補習を休む理由を聞こうとしなかった。
「じゃあ、時間はある訳だ。」
「うん、午前中。」
補習って昼までなんだな、と呟いて紙コップのジュースを飲むと、藤山はまた唯菜を見た。
「てことは、俺に会わなかったら、ずっとコンビニでいるつもりだった?」
「まさか、図書館に行ったんだけど、まだ開いてなかったら時間つぶし。」
唯菜は窓の外を指さした。なるほど、と藤山も図書館の方に顔を向ける。唯菜は前にいる人の白い顎の線を見上げた。考えてみれば俊介以外の男の子と二人きりでこんな風に向かい合うのは初めてだった。同じような体格だと思っていたが、近くで見ると実際は随分違うんだなあと、思わず観察してしまう。
俊介は今日の補習に出ているだろうか。
模擬試験の後、当然といえば当然なのだが、俊介からのメールは途絶えた。メールの履歴にあった彼の名前を目にしてしまうと、もう受けることもないのだと現実が押し寄せてきて、思わず全て消去してしまおうとしたのだが、結局しきれなかった。俊介に突き返されたプレゼントも絶対に目に付かないよう、クローゼットの奥に押し込んだが、捨て去ってしまうほどの潔さはなかった。
プレゼントはクリスマスの1週間前に買った。一緒に下校している早月に付き合ってもらって選んだ。
そういえば、早月には俊介とのことを知らせていない、と唯菜ははっとした。彼女には片想いの相手はいるのだが、クリスマスのプレゼントを渡す予定はないらしく、唯菜のためだけに買い物に付き合わせたのだ。唯菜がすまながっていると、早月は、もし私にそう言う機会があったら付き合ってもらうから、と笑って、嫌な顔一つ見せなかった。プレゼントは散々迷った挙げ句、マフラーにした。他にも候補はあったのだが、余り高価な物は相手を引かせてしまうだろうし、もらって困るようなものも避けたい。早月と相談しながら、選んだマフラーは、俊介が今使っているものとかぶらない色を選んだ。
いいクリスマスになるといいね、と終業式の日に別れて以来、早月とは年賀メール以外では、連絡をとっていなかった。まさか、あの何時間後かに、クリスマスを駄目にしてしまうような事実に突き当たってしまうとは思いもしなかったし、たぶん早月も予想できなかっただろう。
ふと視線を感じて、唯菜は自分がぼんやりと藤山の顔を眺めていたことに気付いた。はっとすると、藤山が苦笑した。
「そんなに見つめられると、人の彼女とはいえ照れるんですけど。」
全く照れたような表情は見えない藤山の調子に唯菜はふっと笑いがこみ上げた。
「もう彼女じゃないんですけど。」
「どういうこと?」
彼のおどけた調子に合わせて軽く言ってみたが、さすがに流されることはなかった。藤山は顔をしかめた。
「別れちゃいまして。」
「まじ?!」
「ほんと。」
藤山に別れたことを報告するつもりはなかったが、彼が俊介とのことを何度も口にするので、唯菜は黙っていられなくなった。突発的に言ってしまったが、唯菜は意外に普通の表情を繕えていた。
「驚いた?」
「いつだよ。」
「えっと冬休み入ってすぐ。」
思った以上に藤山の表情が剣呑なので、もしかしたら俊介から聞くよりも先に、自分から知らせてしまったのはまずかっただろうか、と心配になる。
「冬休み会ってなかったからな。」
藤山はぼそりと呟くと、唯菜の顔を見つめた。
「何が原因か聞いていいんか?」
「原因・・っていうか、あんまり本気になれなかったってとこかな。」
唯菜は表情が崩れないように注意しながらそう言った。何故別れたのか、誰からも聞かれるだろうその問いかけに、唯菜は自分の気持ちが薄れたのだ、と答えようと決めていた。美咲達に対しては、それだけではたぶん言い逃れられないような気はしたが、何と聞かれようと言い張るしかないだろう。
しかし、自分の気持ちをよく知らない藤山ならそれで納得してくれる、と唯菜は軽く考えていた。
「本気になれなかった・・・?」
「うん、ほら、私と俊介って冗談みたいなつきあいだったでしょ?」
唯菜は以前遊園地で藤山に言われた言葉を引用して、笑い飛ばそうとしたが、彼はにやりともしなかった。自虐的なネタが受けなかったことに、唯菜の口角は徐々に下がっていく。
「井上から言い出したんだな?」
「ああ、まあ・・・」
なんで分かったのだろう、と唯菜は不思議に思いながらも曖昧に頷いていた。
「あいつはそれで納得したの?」
「え・・・うん。」
「ほんとに?」
「ほんと。」
藤山が何に拘っているのか分からなかったが、予想外に食い付かれている。困惑する一方で唯菜は、彼が俊介と美咲のことに気付いていないのだろうと推し量った。もし少しでも勘付いていたなら、俊介が別れることに同意したかどうかなど、気にはしないだろう。
本当に誰も気付いていないんだな、と唯菜は取り残されなかったことに安心していた。もし自分一人が何も気付かずに、最後まで浮かれたまま俊介と付き合っていたとしたら、情けなさ過ぎる。
どうせ別れるのなら、自分から言い出せてよかった、と唯菜は自分の決断が間違ってなかったことを確信した。
何か考え込んでいるような藤山からは、きっと唯菜は平然としているように見えるだろう。少なくとも別れて打ちひしがれているようには見えないはず、と唯菜はそのままの表情で腕時計を確かめた。
「そういうことなんで。私そろそろ図書館行くよ。どうする?藤山君も出る?」
「ああ。」
唯菜を見上げた藤山の表情は思いの外、堅かったのが、唯菜は不思議だった。しかし、彼が何を思案していたのかまで気にする余裕はなかった。唯菜は店を出たところで藤山と別れた。そのまま後ろを振り向かずに図書館へと向かう。朝の寒さがだいぶんやわらいできて、日なたに入れば暖かささえ感じられた。
唯菜は明日はきちんと補習に出ようと決めた。こんな風に逃げていても、ますます行きづらくなるだけだと思ったし、さっき藤山に俊介との顛末を話をしている間も、ちゃんと普通にしていられたことが自信になっていた。
あの日、受け取られることのなかったプレゼントと一緒に、自分の気持ちも目の届かないところに隠してしまった。現物を目にしてしまうのは少し辛いけど、その内、あのプレゼントを物置の奥から取りだして封を開けることも平気になるだろう。
俊介ともクラスメートとして付き合う前のように接すればいいし、美咲ともちゃんと友達をやっていける。体育祭の前に戻ればいいだけなのだから、それほど難しいことはないだろう。 長い片想い期間の内、失恋したと落ち込んだことは2回あった。その度に、喪失感に打ちひしがれながらも、誰にも悟られることなくやり過ごしてきたのだ。気持ちを伏せておくことはそう難しいことではない。
開館時間を1時間ほど過ぎた図書館は、思ったよりも人が多く、特に児童図書のコーナーからは子供のはしゃぐ声が響いてきた。唯菜はそれを背に、柔らかい絨毯を踏みしめながら奥へと進んでいく。初秋のころ、試験勉強のために俊介と二人で座ったテーブルの傍を通り過ぎた。一瞬蘇った記憶を振り払うと、唯菜は壁際に並んだ自習席に腰掛けた。そこまで来ると、ロビーで耳に障った騒ぎ声は届かない。静かな空間に息を吐いて、唯菜は鞄の中から問題集を取り出した。ふと、藤山が人の別れ話を気にしていたのがいつもの彼らしくない、とニットキャップをかぶった彼の渋い表情を思い出した。何故だろう、やっぱり男の子でもそういう話を本人以外から聞かされるのが嫌なんだろうかと考えかけたところで、唯菜はもう言ってしまったことだし、気にしても仕方ないか、と思考を止めると、意識を集中させやすい数学の問題集を開いた。

<2010.12.19>