優 し い 手   


遠ざかるぬくもり(2)

『私の方はもういいからね。このことはゆいには絶対言わないで。ゆいと一緒にいてあげてね。』
美咲から俊介へのメール。
どういう意味?
唖然としていた唯菜は自分の携帯が鳴っていることに気付いた。一瞬美咲の顔を思い浮かべたが、携帯の表示を見ると相手は母だった。ほっとしながら、受信ボタンを押すと、強張った母の声が唯菜ちゃん、と呼んだ。
『あのね、おばあちゃんが入院したらしいのよ。』 
「え、うそ。」
母は父方を呼ぶときは井上のおばあさんと呼ぶので、すぐに隣県に住んでいる母方の祖母のことを言っていることが分かった。
『お母さん今から行って来るわ。ご飯はできてるから、お父さん帰ってきたら、ちゃんとしてあげて。』
分かった、と返事していると、俊介が部屋に戻ってきた。電話をしている唯菜と目が合うと不思議そうにしていたが、すぐに自分の携帯を開けてメールを入力し始めた。
唯菜は何故か泣きそうになっていた。もう母の言っていることのほとんどが頭に入ってこず、いつの間にか通話は終わっていた。母の声ではなく、無機質な通話音が聞こえ始めたのに気づき、慌てて携帯電話を閉じた。
「どした?」
俊介も携帯を閉じて、唯菜の方を気遣うように見た。もう美咲への返信は終わったのだろうか。ずいぶん早かったような気がする。
「え、ああ、うん、お母さんからだったんだけど。なんか、おばあちゃんが倒れたらしくって。」
「まじ?」
「だから、あの、私帰らなくちゃ。」
母に帰ってこいとは言わなかったが、唯菜は混乱のままに、そう口走っていた。
「え?」
俊介が一瞬目を開いたが、すぐに納得した様子になる。
「ああ、そりゃそうだよな。」
「急にごめんね。」
「送ってこうか?」
「ううん、自転車だし。平気。」
唯菜は俊介と目が合わないように、下を向いて帰る用意をした。俊介はやっぱり送っていくよ、と外まで見送りに出てきてくれたが、それを振り切るように唯菜は自転車を漕ぎ始めた。

どういう意味だったんだろう?
唯菜は一人で自宅のリビングのソファーに寝転がっていた。さっき、隣県にある実家へと向かう母を見送ったばかりだった。母は、突然帰宅した唯菜に驚いていたが、どこかほっとした表情になって、夕食の内容や、その他の細々した注意を喋り始めた。たぶん今夜は向こうに泊まることになるから、朝食くらいはできるよね?と心許なそうな母に、唯菜は気丈な振りをしてまかせて、と答えた。
唯菜のそのパフォーマンスはうまくできていたようで、母はそれじゃあお願いね、と唯菜の表情を気にすることなく、慌ただしく家を出ていった。
ふと気付けば、電気を付けなければ本を読めないぐらいに室内は暗くなっていた。俊介の家を出たとき、既に太陽の光は傾きかけていたのを思い出す。
自分の目にした文章はどこか半端で、唯菜は目にしたとき、その意味を完全に理解できた訳ではなかった。それでも自分にとって良くないものだということだけは伝わってきて、混乱してめちゃくちゃになってしまった。何もなかったかのように唯菜を気遣う俊介。そんな彼に普通に応対する余裕はなく、唯菜はちょうどかかってきた母からの電話を利用して逃げてきたのだ。
そこにあった自分の名前。
『絶対言わないで』
『一緒にいたげて』
『私の方はいいから』
短い文の欠片がずっと頭の中をぐるぐると回っていた。
俊介は美咲の気持ちを受け入れようとしてた?
何度考えたところで、導き出される結論は一緒だった。
どうしてもそこへと行き着いてしまう。
遊園地に行った日、たまたま聞いてしまった美咲の告白。
たぶん俊介は悩んだ末、美咲と付き合うと返事をしたのだろう。しかし、それに驚いた美咲が、唯菜を思いやって、自分の方はいいから唯菜と一緒にいてあげて、と答えた。
そんな図が浮かんでくる。
ありがちなパターン。まるでドラマのようだ。
自分は主人公と思い人の妨げになっている女友達、といったところだろうか。俊介と美咲の障害になっている自分。
「うっ・・・。」
唯菜は突然こみ上げ始めたものをこらえきれなかった。
それまで衝撃のあまり麻痺していた感情が、急にクリアになっていく。自分の立ち位置。それを理解して、唯菜はその惨めさに涙していた。
でも、それならなぜ、俊介は私にキスをしたのだろう?
唯菜の涙が止まった時、室内は真っ暗だった。感情にまかせて泣き通していると、変に冷静になっていた。最初は確かにどうしようもなくて泣き始めたはずなのに、次第に自分がそうしている理由が分からなくなっていく。
唯菜は立ち上がると鼻をかみ、丸まったティッシュを近くにあったゴミ箱に放り投げた。難なく中へと収まるのを見つつ、数時間前に感じた俊介の体温が急激に蘇ってきた。確かに彼は自分の肩を抱き、唇を合わせてきた。唯菜から仕掛けたわけではない。それどころか自分は覚悟を決めていたにも関わらず、硬直してしまっていたのに、俊介は気にすることもなく笑いかけて抱きしめてくれた。あの時確かに伝わってきた彼の気持ちは勘違いだったんだろうか。
初めてのキスに舞い上がった自分の思いこみに過ぎなかったのか。
そうかもしれない。
唯菜にとって重大な意味を持つ行為も、俊介にしてみたら大したことのないことだったのかもしれない。自分とは違って、俊介は初めて女子と付き合う訳ではないのだから。
唯菜は美咲からのメールですっかり意識外になっていたことを、もう一つ思い出した。ちょうど1通目のメールが来る直前に、俊介は唯菜に何かを話そうとしていた。結局内容を聞くことはなかったが、彼の躊躇いぶりと真面目な表情から察するに、どうでもいい話ではなかったように思える。もしかしたら、あれは、付き合うのをやめよう、と切り出そうとしていたのかもしれない。
「なんだ・・・。」
唯菜は独り言を漏らしていた。あんなに言いにくそうにしていたのも、別れ話ならば納得できるではないか。決心したようにそれまで逸らしていた視線を自分に合わせてきた彼の表情を思い出す。
切り出そうとした瞬間に割って入ったメール、あれも美咲からだったのだろう。それがどんな内容だったのか、俊介がそれに対してどんな返信を送ったのか、唯菜は知らない。
唯菜と別れて、真剣に美咲に向き合おうとしていた俊介にとって、あのメールの内容は予想外のもので、しかも喜ばしいものではなかった。だから、あんなしかめっ面をしてたんだ。
唯菜は涙でべとべとになったパーカーの袖を見た。まだ湿っているそれは、さっきまで自分が馬鹿みたいに泣いていたことを思い出させた。あんな風に泣いてしまった自分、悲嘆に暮れていた自分を唯菜はみっともない、と感じていた。

祝日を挟んで、終業式の翌々日は冬休みでクリスマスイブだったにも関わらず、全国模試のために登校しなければならなかった。希望者のみとなっていたので、クラスに登校している生徒は半分強だった。美咲は来ないことを知っていたが、試験が始まっても空席のままであることを振り返って確認しながら、唯菜は心底ほっとしていた。彼女の席の幾つか前の席で、俊介が前から送られていた試験問題を受け取っているのが見えた。
体を前に戻して、唯菜は試験問題に向かい合った。
余分なことは考えないようにしよう。
不思議なことに雑念は余り湧いてこず、問題に集中できた。今日の模試は英、国、数の3教科しかないので、午前中だけで試験は終わった。私立受験を決めている生徒は国語の試験が終わると下校してもいいので、教室に残っている生徒はまた少なくなった。奈津美も唯菜に頑張ってね、と声をかけて帰って行く。奈津美の態度は特に変わりがないように見えた。少なくとも美咲と唯菜が三角関係じみたことになっていると知っている風ではない。美咲は俊介以外に自分の気持ちを口外していないだろうという推測は確信になっていた。
たぶん俊介以外知らないのだ。
唯菜は試験問題を後ろの席の生徒に渡すために振り返りざま、習慣になったように俊介を目の端で確認していた。試験の時は出席番号順になるから、席順はいつも同じだ。唯菜は教室の端の最前方、俊介はちょうど真ん中に座っていて、振り向かなければ彼の姿を見ることはできない。
始終、目に写る場所に彼がいなくてよかったのかもしれない、と唯菜は試験問題に意識を戻す。思ったよりずっと平静でいられるのが、自分でも不思議だった。その一方で、案外自分の中で整理を付けるのは簡単なのかもしれないと思った。
試験が終わった後、俊介は帰り支度を終えると唯菜の所にやって来た。
「どうだった?」
「けっこうできたかも。」
唯菜の答えに、俊介は眉をしかめる。
「えー?英語難しくなかったか?」
「それは、俊介が苦手だからじゃない?じゃあ数学は?」
「数学は割とできたと思う。」
神妙な表情で頷く彼の表情から唯菜は視線をずらせた。俊介の顔を真正面から見ることができない。
「井上はもう帰るんだろ?」
唯菜はうん、と頷いた。俊介の態度には、唯菜を切り離そうとするような素振りは全く感じられない。それが美咲の頼みを聞くために俊介自身の思いを押し殺した結果なのだ、と考えると唯菜は保っていた笑顔がどうしても強ばってしまうのだった。
「練習、また3時からになったんだよな。かなり、時間に余裕あってさ。」
「あ、じゃあ、ちょっとだけいい?」
話のきっかけを窺っていた唯菜はすかさず切り出した。
「うん、昼食いに行く?」
当たり前のように続いた俊介の言葉に、唯菜は慌てて首を振る。これまでなら嬉しいはずのお誘いも、もう受けることはないだろう。
「ううん、そうじゃなくて、今。あの、渡したいものがあって。」
「別に・・・全然余裕だけど。」
怪訝そうな俊介に、そこでいて、と声をかけて、唯菜はロッカーに入れておいた袋を取りに行った。教室には唯菜と俊介だけが残っていた。廊下の奥の方からはまだ喧噪の名残が響いていた。
「これ、明日渡そうと思ったんだけど、クリスマスプレゼント。」
真っ白の紙袋を俊介に押しつける。
「え?いまくれんの?」
「うん、明日無理になっちゃって。おばあちゃん入院したから、隣県なんだけど、私も行くことになって。」
「クリスマスだめなのか?」
本当に残念そうな顔をしている俊介に、一瞬自分のしようとしていることの意味を見失いそうになる。なぜ本心は別のところにあるというのに、俊介はこちらを勘違いさせるような態度をとることができるのだろう。
「ごめん。」
「いや、仕方ないよな。あ、でも、補習は出てくるんだろ?」
「ううん、たぶんもう年末までずっと向こうでいると思う。」
「ふうん、そっか。じゃあ年明けになるか・・・。」
俊介の言葉が演技なのだと思うと腹立たしささえ感じる。もし自分が何も知らなければ、彼が自分に会いたがってくれてる、と胸をときめかせていたに違いない。
でも、もうそんなぬか喜びも今日で終わりだ。
「あのさ、もう二人で会うのとか、やめた方がいいと思う。」
「は?」
口を開けて固まった俊介の顔から視線を逸らせながら、唯菜は一気に続けた。
「俊介と私って、なんか成り行きで付き合ったようなものだし、なんていうか、このまま続けていくのもあんまり意味がないっていうか。」
「どういうこと?」
俊介のとぼけた台詞にむっとする。最後まで美咲との約束は守るというつもりなんだろうか。唯菜は俊介の顔を睨んでいた。
「だから、こんな冗談みたいな付き合い続けてたら、本当に好きな人に勘違いさせちゃうってこと。」
「・・・・・・。」
俊介は何も言い返さなくなった。美咲とのことを知られたことを気付いたのかもしれない。唯菜は、知っていることをばらさずに終わるつもりだったが、言い繕う言葉は浮かんでこなかった。かわりにもうどうでもいいやという自棄な気分になっていた。
俊介と視線が合った。
「別れるってこと?」
「そう。」
唯菜は何でもないことのように、にっこり笑ったつもりだった。余裕のある素振りで目の前に視線を戻すと、ちょうど俊介の唇があった。この唇が私の唇と合わさったんだ、と突然、意識の外にあったことが蘇った。
ぎくしゃくした沈黙が二人を取り囲んでいる。さっきまで廊下の向こうから聞こえていたざわめきはもう耳に届かなくなっていた。模試の終わった後は、どこのクラスも生徒達はあっさりと退けるらしい。
「うん。分かった。」
唯菜ははっとして、俊介の方を見上げた。一瞬合った視線はすぐ逸らされた。
「これはもらえない。」
俊介は手に持っていた紙袋を脇にあった唯菜の机の上に置くと、そのまま出口の方へと歩いて行った。
唯菜が振り返ったとき、もう彼の背中は目の届かない場所に行ってしまっていた。遠ざかっていく足音だけが彼の存在を伝えていた。
俊介が行ってしまう。
大きな衝撃に、唯菜は突かれた。酷い焦燥感だけが渦巻いたが、それでも彼を追いかけることもできずに、立ち竦んだままだった。
我に返った時、唯菜は俊介から突き返された紙袋を抱えていた。頬が冷たく、自分がまた泣いてしまっていることに気付いた。
自分から別れることを決めてからは、気持ちの整理もついて平静だったはずなのに、と涙を拭いながら、実のところ、別れる覚悟はできてなかったんだということを自覚した。自分が別れを切り出しても、俊介がそれを拒否してくれるんじゃないか、という期待があった。唯菜と別れたくない、と言ってくれるんじゃないかと。
彼の気持ちは分かり切っていたはずなのに、最後まで、自分を選んでくれるかもしれないという浅はかな期待を捨てきれなかったのだ。
「ばかみたい・・・。」
呟いた言葉はしんとした校内に吸い込まれていった。

<2010.12.9>