優 し い 手   


遠ざかるぬくもり(1)

終業式の日はいい天気だった。朝から薄い空色が遙か高い所で広がっていた。
明日からは、寒気団が入ってくる影響で冷えてくるらしいが、少なくとも今は日当たりのいい場所ならば暖かささえ感じるほどだった。唯菜は南向きの俊介の部屋でくつろいでいた。 一度帰宅していた唯菜は、サッカーの練習を終えた俊介の家に、やって来た。唯菜を迎えたのは、ちょうど練習から帰ってきたばかりの俊介だけだった。彼の母親は不在らしい。
家に二人きり。
そう考えると、一人になって落ち着いていた心臓が途端に波打ってくる。唯菜は俊介の部屋をぐるりと見回す。部屋は広かったが、勉強机のスペースを他と区画するために書棚で区切ってあった。書棚が目隠しになって、勉強机からテレビが見えない構造になっている。最近俊介が勉強に集中できるようにと模様替えをしたと教えてくれた。
唯菜は案内してくれた俊介の言われるまま、ベッドを背もたれにしてカーペットにそのまま座っていた。テレビを見るのにちょうどいい場所だったが、俊介はどこに座るんだろうと考える。勉強の時はミニテーブルを挟んで二人で向かい合ったが、今日はどうするのだろう。
期末テストが終わって以降、2回ほど俊介と昼食を食べに行ったことはあったが、サッカーの練習の時間までという制約もあって、二人きりの空間は久しぶりだった。並んで歩いているときにさりげなく俊介が手を繋いでくることはあったが、いつかの公園や駅ビルのフリースペースであったような、唯菜を普通でいさせなくさせるような接触はなかった。といっても、軽く手を繋いで歩いているだけでも、唯菜は普通の会話をこなすのに精一杯で、美咲達の言うように慣れれば問題ない、という状態には遠かった。
唯菜は鞄の中から携帯を取りだしながら、溜息を吐いた。
美咲。
仲のよい友達の笑顔が浮かぶ。彼女の態度は余りにも普通で、行事の続いたこの1週間余り、俊介と彼女の関係を勘ぐる唯菜の疑念は徐々に薄れつつあった。
それと反比例するように大きくなる罪悪感が、唯菜を暗い気持ちにさせていた。自分のために、美咲は俊介への想いを諦めたのだ、と思うと彼女にどう接すればいいのか分からなくなる。自分は、美咲のために俊介から離れる、という選択肢を選べなかった。
彼女が唯菜に対して何も言わないことをいいことに、気付かない振りをしている。俊介と美咲のどちらかを選べと正面切って要求されれば、唯菜はどちらも選べないだろう。美咲のお陰で、自分は俊介も美咲も失わずに済んだ、と安堵すること自体、狡猾だと思うが、どうしようもなかった。
彼女の気持ちを自分が知っていることは、美咲にも俊介にも知られる訳にはいかなかった。この現状を維持するためには。
軽快な足音が近付いてきたかと思うと俊介が部屋に入ってきた。タオルで濡れた髪を拭きながら、テレビでも見てたらよかったのに、とぼんやりしていた唯菜に言った。
「シャワー浴びたの?」
「ああ。」
「髪、ちゃんと乾かさなきゃ、風邪ひくよ?」
「平気だよ。」
エアコンとホットカーペットの電源を入れながら、俊介は苦笑していた。
「つうか、この部屋寒いな。わりい、エアコン入れるの忘れてたよ。」
「私はいいけど、俊介が湯冷めするよ。」
唯菜は室内が寒くて脱ぐ気になれず、コートを着込んだままだった。一方、俊介は薄手のフリースとジーンズ、しかも裸足とどう見ても唯菜よりは薄着だった。
「井上みたいに冷え性じゃないからね。大丈夫なんだよ。」
ほら、と言って唯菜の隣にすとんと座りながら、俊介は彼女の頬を触れた。
「井上、冷えてんな。」
俊介の指先の温かさに、唯菜は自分の顔が冷え切っていることに気付く。
「温めてやろうか。」
顔に触れていた手が髪の毛をすきながら後頭部に回される。
「だめだめっ、俊介が冷えちゃう!」
唯菜は反射的に彼の体を押していた。平気なのに、と言いながらも俊介は手を引いた。冷え切っていたはずの頬が俊介の手の熱を吸い取ったのかのように、一気に熱くなる。
ついと顔を背けたが、赤くなっているのを、俊介には知られてしまっただろう。そんな自分をにやにやしながら眺めている、彼のそんな気配さえ感じた。
「あ、そうだ、頼まれたの録れてると思うけど見てみる?」
うん、と頷くと、俊介は唯菜の足の上に上体を被せるように手を伸ばすと、床にあったリモコンを取り上げた。その体勢に意味など全くないのだ、と分かっても、突然接近してきた彼の体に反応した唯菜の脈拍は簡単には戻ってくれない。
俊介は体を戻すとテレビを点けて、録画を呼び出した。唯菜が気に入っているバンドのライブがちょうど俊介の家で加入しているCSで放映されるのを知って、録画を頼んでいたのだ。 CMの後、番組が始まった。聞き慣れた歌が流れて、唯菜の意識は画面へと引き寄せられる。自分の家では受信していないCSだったから、見られないものと諦めていたのだ。視線が釘付けになっている唯菜の隣で、俊介が首を傾げた。
「この曲、聞いたことあるかも。」
「CMに使われてたからね。車の、えっと、あの人が出てた・・・」
唯菜が俳優の名前を言うと、俊介はああ、あれ、と車の名前を言って、納得していた。
「へえ、あの歌ってこのバンドが歌ってたのか。知らなかった。」
「あんましテレビ出ないからね。でもこの曲オリコン1位だったし、わりと有名なんだよ。」
「この曲けっこういいもんな。」
唯菜は彼がCMの曲をいいと言ってくれたことが嬉しくて、つい、聞かれてもないのに、そのバンドが決してポピュラーではないが、十代、二十代に熱狂的なファンがいることを夢中になって喋っていたことに気付いた。我に返ると、俊介がにやにやしながら、唯菜の顔を見ていた。
「井上ってこういう感じの男が好みなんだ。」
「えっ、いや、曲が好きってだけで、別に。」
慌てて否定する唯菜を余所目に、俊介はテレビに視線を戻した。
「なんか藤山に似てるよな。細いし。」
「まあ、細い人の方が好きだけどさ・・・。」
唯菜はその後に、俊介も細いし、と続けようとしてやめた。自分が俊介のことを好きだと言ってるのと同じじゃないか、と気付いたのだ。少しくらいは伝えてみたい誘惑もあったが、彼がどんな反応を返すのか分からない。全く気付かずに、もしくは気付かないふりで流されるのか、それとも気持ちの重さに引かれてしまうのか想像もつかない。いずれにしても自分がその後どういう心持ちになるのか、うまく対応できる自信がなく、一度引っ込めた言葉はそのままになってしまった。
そんなことを逡巡していた唯菜は、いつの間にか俊介の手が自分の肩に回されて、そのまま引き寄せられていることに気付いた。すぐ目の前には俊介の顔。目が合った。余りの近さに目を見開いてしまう。視線を少し落とすと唇があった。あ、と思った瞬間、俊介の顔が更に近付いて、反射的に唯菜は目をぎゅっとつむった。自分の唇に触れる感触。
キスだ、と思った瞬間、心臓が跳ね上がった。
一瞬で唇は離れていったが、まだ近くに俊介の息づかいが聞こえて、唯菜は目を開けられなかった。
「やだった?」
窺うような俊介の声に、唯菜はばっと目を開くと、無言のままで首を横に振った。嫌じゃないと否定したかったが緊張のせいか、うまく声が出せなかった。でも必死だったのは伝わったようで、俊介の表情が少し緩んだ。
髪の生え際をなぞるように動く俊介の指先が熱い。ゆっくり顔が近付いてきて再び唇が合わさった。
唯菜は自然と目を閉じていた。さっきよりも気持ち強く押しつけられている。俊介の唇が少しかさついているのに気付くと、自分が部屋に入ってすぐにリップをつけたことを思い出して、俊介は変な味がしないだろうか、と気になってしまった。俊介は何度か角度を変えてゆっくりと唇を合わせてきた。
唯菜はいろんなことが思考に昇ってきたが、どれも混乱したまま消えていって、結局どうすることもできずに、俊介のなすがままだった。唯菜の息が苦しくなった頃、それに気付いたのか俊介は唇を離して、そのまま片手でぎゅっと唯菜を引き寄せた。俊介の胸に頭を付けた唯菜はそっと目を開けた。隣に並んで座っていたはずが、向かい合っていて、唯菜の横座りをした足の両側を俊介のジャージが囲い込んでいた。
彼の心臓の音を感じる。それが自分と同じように早くなっていることに、唯菜はほっとししながらも、いつ顔を上げればいいのか、分からなかった。

俯いたままだった唯菜に動くきっかけを与えたのは俊介のお腹の鳴る音だった。
唯菜は思わず顔を上げた。至近距離に俊介の照れ臭そうな苦笑があって、またドキドキした。
「ごめん、俺、腹減ってんだよね。」
その言葉で二人はぎこちなく体を離しながら顔を見合わせて笑い合った。
「練習の後だもんね。」
唯菜の言葉に俊介は頷いて立ち上がった。食べる物を持ってくるから、テレビ見ててよ、と言い残して俊介は部屋から出ていった。テレビはずっと唯菜のお気に入りのバンドのライブ映像を流していた。すっかりそのことを意識の外へと追いやられていたことに気付く。
キスした。
俊介と、キスしちゃった!
唯菜はぼんやりとテレビの方に目を向け、頭の中では、さっきの衝撃的な数分間を繰り返していた。
「夢中だな。」
テレビを注視していた唯菜は、部屋に戻ってきた俊介にからかわれた。実際はテレビの画像など見ているようで頭には入ってきていないのだが、まさか、さっきのキスのことを考えていたとも言えず、唯菜はまあね、とごまかした。
俊介は何やらたくさんの物が詰め込まれたらしいスーパーの袋を持っていた。
「買い物行ったの?」
「まさか。お盆の場所が分からなかったから、袋に入れてきただけ。」
この量を持って階段を上る自信なかったからな、と悪びれずに俊介は袋をどん、とミニテーブルに置くと、中身を取りだした。
「いつもこんなんだぜ。井上が来たときくらいだよ。お袋がわざわざ持ってくるのなんてさ。サッカーの連中とか来たって、何のおもてなしもないもんな。」
「へえ、そうなんだ。」
「やっぱり、女子を連れてきたってのが、お袋の野次馬根性を刺激するんだろうな。何せ初めてだったし。」
「初めて?」
唯菜は思わず聞き返していた。
「うん、体育祭の時みたいに、みんなでってのはあったけど、一人だけ連れてきたのはな。」
そうなんだ、と相槌を打ちながら、なぜか、唯菜は俊介の顔を見られないでいた。たぶん彼と目があってしまったなら、自分の顔がだらしなく緩んでいるのを俊介に気付かれてしまうだろう、と唯菜は思った。
俊介はこれまでに2回彼女ができた。どちらも長くは続かなかったようだが、どんな付き合いをしていたのかは疎か、俊介が過去に自分以外の人と付き合っていたことについて、彼から何かを聞いたことはなかった。俊介の過去について、興味はあり過ぎるほどあったが、唯菜から聞き出すこともできずにいたから、彼女として自宅に連れてきてもらったのは自分が初めてだという事実は、十分に唯菜を浮かれさせた。それはさっき経験した初キスの余韻とも相まって、自然と顔がほころんでしまうのだった。
俊介は袋の中にある物を次々とテーブルの上に並べると、ペットボトルの紅茶とスナック菓子の袋を開けた物を唯菜の前に置いて食べるように勧めた。そして自分は唯菜の隣からスナック菓子の袋へと手を伸ばしてかなりの勢いで食べ始めた。
俊介が袋へと手を伸ばすたびに唯菜の肘と俊介の腕が触れ合うくらいに二人は接近していたが、唯菜は部屋に入ってきたときよりも自然体でいられた。こんな風に少しずつ二人の距離が狭まって、それが当たり前のことになっていくのだ、と唯菜は嬉しかった。
「三者面談で担任に相談したんだけどさ・・・。」
頬張っていた口の中を飲み込んで、俊介がちらりと唯菜の方を見た。
「俺、文理変更しようかと思って。」
唯菜は目を見開いて俊介の顔を見た。
「理系に?」
「うん、井上に勉強教えてもらうようになってさ、俺ちょっと成績あがっただろ?なんか、数学の方ができるような気がしてさ。国語よりはってレベルだけど。」
照れくさいのか、俊介は視線を俯けたまま、スナック菓子を口に放り込んだ。
「そうだよね。それは私も思う。」
唯菜は頷きながら、この部屋で俊介と向かい合って勉強したことを思い出す。彼に請われて、唯菜は俊介の躓いている箇所にアドバイスをしていた。その度に、俊介は数学的なセンスがあるなあと感じていた。
「理系に変えるっていうのもありじゃない?」
「そう?」
「うん。」
上目遣いで尋ねてくる俊介に唯菜は意識的に笑顔を見せた。自信なさげだった彼の顔にも照れ笑いが浮かぶ。
「文系から理系かあ・・。けっこう大変だよね。」
唯菜の通う高校は2年進学時に文系と理系の選択をし、3年で更に国立私立に分けてクラス分けをする。あまり多くないが、毎年3年に進学するときに文系と理系を変更する生徒はいるらしい。
しかし、その多くは理系から文系への変更だったはずだ。
「そうなんだよな。取ってない科目あるから、3学期は昼休みとか放課後とか補習してくれるらしい。」
「補習?え、一人で?」
「いや、まだわかんないけど他にもいるんだって。ま、もし俺一人でも副担が面倒は見てくれるって。塾も行かないとな。」
「塾も・・・。」
俊介が理系に進む。
想像もしていなかったことに、唯菜は少なからず動揺していた。3学期になったら就職組以外は現在の早朝補習に加えて放課後の補習が週2回始まると聞いていた。明日からの冬休みも補習が組まれている。ただでさえ、受験生として過密スケジュールになるところへ、文理変更のための補習、そして俊介には部活もある。たぶん最後の総体に向けてサッカーの練習は厳しくなるだろう。
「頑張ってね。」
唯菜はいつになく厳しい表情の横顔に笑いかけていた。会う時間が少なくなるだろうという不安と、3年は確実に別のクラスになるという不満はあったが、それでも真面目な表情で話をする俊介を応援したい、という気持ちも本心だった。
「ありがと。俺さ・・・」
俊介はなぜか視線を彷徨わせて、口をつぐんだ。しかし、その雰囲気で、何か言いたいことがあるのだろう、というのは伝わってきて、唯菜は次の言葉を待った。
「あのさ。」
俊介が視線を唯菜の顔に定めた時、テーブルの隅に放置されていた俊介の携帯が着信音を上げた。俊介は邪魔されたことに苛立つような、それでいてどこか安堵しているような複雑な色を浮かべて、取り上げた携帯画面を見た。一瞬、驚いた表情を浮かべて携帯の画面を凝視する。唯菜は視線をテレビの方に向けながら、俊介の素振りに違和感を感じていた。
俊介は無言のまま、ボタンを押し始めた。たぶん返信をしているのだろう。二人でいる時に、俊介がメールを受けることはよくあったが、たいがい、サッカー部だ、とか藤山から、とか、何気なく送信元を唯菜に伝えてくれていた。俊介は送信したのか、携帯を畳んで自分の前に放り出した。
誰から?
同じようにテレビを見始めた俊介は、なんとなく心ここにあらずといった気配を漂わせていた。
さっき言いかけたことは?
気にはなったが、どちらの疑問も強引に聞き出す術を唯菜は持っていなかった。ただ気にしていない風を装うだけだった。
また同じ着信音が鳴る。間髪入れずに携帯を取った俊介の顔は、メールを読んで顔をしかめた。その剣呑な雰囲気に、唯菜はどきどきしていた。
突然、ドアの外で着信音にしては大きな電子音がした。電子音は2回同じフレーズを流して止まった。唯菜が驚いて音のした方を見ると、俊介が立ち上がった。
「宅配かな。ちょっと見てくるから。」
俊介は唯菜に声をかけると部屋の外へ出ていった。唯菜を驚かせた音は家の呼び出し音だったんだと分かって、唯菜はテーブルへと視線をもどした。そこには無造作に俊介の携帯が置かれていた。
メールを受けた彼の常とは違う態度を思い起こす。横目でしか見られなかったが、俊介の表情は明らかに怒っているようだった。
こんなこといけない、と思いつつ、唯菜の手は俊介の携帯に伸ばされていた。何度か見せてもらったことのある携帯をゆっくりと開ける。
画面は受信メールを開いたままだった。
「え?」
発信者の名前を見た瞬間、唯菜は思わず声を上げていた。
東条。
それは美咲の苗字だった。考える間もなく、短い文章を読み終わると、呆然としたまま、唯菜はパタンと携帯を閉じてテーブルの上に戻した。

<2010.11.22>