優 し い 手   


そこに秘められた想い(5)

「待ち合わせ、3時だっけ?」
俊介が腕時計を見ながら言った。
「あ、うん。」
「じゃ、そろそろいこっか。」
俊介の手があっさりと離れて行って、唯菜は一瞬喪失感に呆然としたが、はっとして慌てて立ち上がった。サッカーの練習も3時からで、俊介は自転車で15分かけて学校まで戻らなければならない。唯菜は自分の腕時計を見て、驚いた。3時5分前だった。
「俊介、ちょっともう時間ないよ。」
エスカレーターに並んで乗っている俊介の顔を見上げた。
彼は何も言わなかった。確かに3時からの練習といっても、まず、アップとランニングで時間をとられるから、その間に混じってしまえば問題はないのかもしれない。1階に降り立つと、俊介はショッピングフロアから駅の改札へと続くドアへと歩き始めた。自転車置き場へ行くには逆の出入り口から出た方が近く、エスカレーターを降りたらすぐに別れるのだと思っていた唯菜は、慌てて俊介を呼び止めた。
「どこ行ってんの?自転車はあっち。」
「いいんだよ。」
振り返った俊介は、ぐい、と唯菜の手を掴むとそのまま歩き始めた。足早に俊介の隣に並んだ唯菜は俊介の顔を見上げた。
「練習、遅れるよ。」
「大丈夫さ。」
俊介が瞬間、唯菜の顔を見下ろして、また前を向いた。
「俺も一緒に行くから。」
「え、どこに?」
「待ち合わせ場所。」
唯菜は目を見開いた。俊介も来るってどういうことだろう。
まさか3人で会うってこと?
「福永が誰か連れてたら、俺も一緒にいるから。」
「え・・・。」
ずっと前を向いたままの俊介の顎のラインを唯菜は呆然と眺めていた。悠里が誰かを連れてきたら、など唯菜は考えもしなかった。再会した日に遠くから悠里の方をちらちらと見ていた男子生徒が脳裏に浮かぶ。
連れてくるとしたら、彼氏とか・・・もしくは・・・。
唯菜は浮かんできた顔にぞくりとした。中学3年生の仲良しグループの生徒のほとんどは、悠里と同じ高校に進んだ。彼女達の誰とも連絡を取り合っていない。もともと唯菜は悠里と仲が良かったから、そのグループにいるようになったので、悠里以上に親しくしていた生徒はいなかった。
もし彼女達が悠里と一緒にいたら・・・。
いつの間にか唯菜は俯いていた。きゅっと心臓が縮こまるような気がした。
重いドアを俊介が押し開けると改札口へと続くフロアーは、風が吹いていてひやりとしていた。数歩進んでから、俊介が立ち止まる。唯菜は顔を上げて巡らせると、改札口の向こう側の時計はちょうど3時を指していた。
「いた。」
俊介が繋いだ手を軽く引っ張った。
制服の悠里は長椅子に座って携帯を見ていた。両隣に座った人間は高校生ではなかった。たぶん見知らぬ他人なのだろう。
唯菜の緊迫感は少し緩んだ。じゃあ、と俊介の顔を振り仰いだが、彼は唯菜の手を持ったまま、悠里の方に歩き始めた。悠里がふっと顔を上げて近づいてくる唯菜に気付いて、「ゆい!」と笑顔になるが、隣に俊介がいるのを見て訝しげな顔になった。
「ごめん、ゆうちゃん、待った?」
「ううん、全然。こっちが早かっただけよ。」
離れない俊介の手が気になって、唯菜の笑顔はぎこちなかった。それまで黙っていた俊介が口を開いた。
「福永、お前ひとりか?」
「え、ひとり、よ。・・・なんで?」
突然聞かれたことにたじろいでいた悠里は、しかしすぐに訳が分からない、といった風に口を曲げた。
しばらく悠里と俊介は互いの顔を見合っていた。唯菜には二人が睨み合っているようにしか思えなかったが、その場をどう取り繕えばいいのか分からない。
「じゃ、俺行くわ。」
するりと俊介の手が離れていく。唯菜が見上げると、俊介は離した手で唯菜の頭を軽く撫でた。悠里の見ている前でされた行為は繋いでいた手以上に恥ずかしくて、唯菜は自分の顔が瞬間に赤くなるのが分かった。そんな唯菜の顔を見てか、俊介はふっと笑うと、メールする、という囁き声を残して、振り返るとそのまま去ってしまった。
「ゆいと中村、仲いいね。」
往来への出口のドアの向こうへ消えていく俊介の背中をただ見ていた唯菜は悠里の声にはっとした。
「え、いや、そんなことは全然ないんだけど。」
「照れなくても。こんなとこまで付いてくるなんて、中村もゆいから離れたくないってかんじ?」
「や、今のはそういうんじゃなくて、ゆうちゃんが誰か連れてたらって気になったみたいで。」
「誰かって?」
唯菜は余分なことを言ってしまったか、と焦った。
「彼氏・・とか。あの、彼氏がもしいたら、俊介もいようかって、たぶん数合わせみたいなかんじ。」
「ふーん。あいつって心配性?・・・まあ相手が私だからか。」
唯菜が悠里の最後の言葉に反応する前に、悠里は何事もなかったように笑って、駅前のコーヒーショップに行こう、と提案すると、今さっき俊介が出ていった出入り口の方へと歩き始めた。

今日も疲れた・・・。
唯菜はベッドに飛び込んだ。そろそろ俊介からメールがくる頃だ。テストが終わったばかりで勉強をやる気にもなれないが、かといって小説もマンガも手に付かなさそうだった。
唯菜の頭の中は帰宅したすぐにはもやもやした思いでいっぱいだったが、徐々にそれも放課後の俊介との接触した体温の記憶に押し流れつつあった。髪の毛に触れた指先、右手を包んだ手のひら、大口を開けて笑う顔、そしてこれまで余り接したことのなかった怖い雰囲気。
その時枕元に置いてあった携帯の着信音が鳴り始めた。唯菜は体を起こすと携帯を開いた。期待通りに俊介からのメール。
『あの後どうだった?どっか店行った?』
文の短さはいつも通りだ。唯菜と悠里が中学の終わりに仲違いしていたのを知っているんだな、と確信した。しかし実態をどこまで知っていたんだろう。悠里達のグループにシカトされて、一時期、休み時間の度に教室から逃げ出していたことまで気付いていたんだろうか。いや、まさか。
別のクラスだった奈津美が休み時間の度に唯菜が部活棟に避難しているのを知って、一緒にいてくれるようになり、その内同じクラスのテニス部の子のいるグループに混ぜてもらうようになった。お陰で、唯菜の逃避期間はそれほど長くなく、同じクラスでも男子に気付かれることはなかったと唯菜は思っていた。
『コーヒーショップで話し込んでました。実はゆうちゃんとは中学の終わりにケンカっぽくなってたんだけど、いろいろ誤解があったみたいで、まあ仲直りってかんじです。俊介のお陰だよ。ありがと。』
悠里と会ってもいいかな、という勇気が出たのは俊介の存在によるところが大きい。もし嫌な目にあっても彼がいれば乗り越えられる、と感じたからだ。
『俺は何もしてないけど。まあよかったよな。ケンカは辛いもんな。』
すぐに返ってくる。
『ゆうちゃんとは長いつきあいだったから、また復活できたのは結構嬉しいです。』
悠里に言われたこと、俊介と唯菜はすごくお似合いだと言われたことを伝えようか、と思って止めた。さすがに恥ずかしい。代わりに明日から始まる球技大会の話を始めた。
俊介からのメールを待つ間、唯菜は悠里が話した内容を思い出していた。コーヒーショップに入って二人向かい合うとすぐに悠里は真剣な表情になった。
「ゆい、今日は会ってくれてありがとね。」
「や、別にそんなん・・・」
改まってお礼を言われるとは思っていなかった唯菜は、どう返していいか分からなくなった。確かに自分は悠里と会うことに迷いがあった。
「ううん、やっぱり会えない、って言われるかと思ってたから。」
迷いを見透かされていたのかと思うと何とも言いようがなかった。
「今日はね、ゆいに謝りたくって。ていうかずっと謝りたかった。中学のこと。すごいひどいことしたって。謝って許されるようなことじゃないけど。」
やっぱりこの話になるのか、と覚悟していたとはいえ、唯菜には返す言葉はなかった。謝ってもらえるなら、謝ってほしいが、謝ってもらっても、もうどうしようもない、という恨みも確かにある。
悠里は唯菜の逡巡には関係なく話し始めた。
「3年の時、私、山下君のこと好きだったでしょ。」
その当時、悠里はテニス部の山下のことが好きだった。それは唯菜もよく知っていた。唯菜も山下と同じテニス部だったから、悠里はテニスコートの外で練習風景を見ながら唯菜を待ち、練習が終わると唯菜と悠里は二人で下校していた。
ところが、唯菜が部活を引退した後、悠里は仲良しグループの一人だった多田に、唯菜も山下のことを好きだから気を付けた方がいい、とに言われたらしい。多田は、唯菜本人から山下が南高に行くから、唯菜も志望校を香蘭から南高に変えたと聞いたのだ、と主張したらしい。
悠里は最初そんなはずはない、と否定した。しかし、唯菜は誰にも好きな人の話をしたことはなかった。聞かれてもいない、と答えていたのだ。当時グループのほとんどのメンバーに好きな子がいたし、中には付き合っている子もいた。当然、好きな男の子の話は年中していたが、唯菜は余りその話に加わっていなかった。
その上、唯菜と山下は補習のクラスが一緒で、話をする機会も多かった。その内、悠里も多田の言葉を信じるようになってしまったらしい。
「そんなのあり得ないよ。多田さんにそんなこと言ったことない。」
唯菜は多田のひどい言い掛かりを聞いて、憮然となった。そもそも志望校については最初から香蘭女子に行くこと自体、唯菜の念頭にはなく、担任や母親に勧められるのを断り続けていただけで、南高にしたのは家から一番近い進学校だったからだ。俊介が受験する可能性のある高校だったこともあるが、彼はどうも合格ラインすれすれだったから、それはほんの望み程度でしかなかった。
「どうあっても山下君のことは知り合いとしか見てなかったけど。」
「やっぱり、そうよね。」
悠里がカフェモカの入ったカップに口を付けて苦笑いをした。
唯菜の持ち物を隠したのもやはり悠里達だった。補習に行かせたくなかったのだという。
「ほんと自己中だったよ。多田の言葉に乗せられて、ゆいにあんなことして。いま考えたら、すごい恥ずかしい。」
俯く悠里の明るい髪の毛の色を見ながら、唯菜はカフェオレを飲み干した。なんと言っていいか分からなかった。
あの当時はなぜ自分が悠里達に無視をされ始めたのか、ずっと理由が不明なままだった。何もしていないのに突然仲の良い友達に切り捨てられた、と思うことは唯菜にとって自分の存在意義を失わせるもので、それは唯菜を深く傷付けた。悠里達から見捨てられた自分をどんな風に保てばいいのか分からなくなって、教室から逃げるしかできなくなってしまった。
今、理由が明確になってしまうと、唯菜は悠里のした行動もなんとなく理解できるような気がした。多田が全くの嘘をでっち上げてまで自分を陥れようとしたのも、彼女ならありそうだと思う。2年の時から悠里と同じクラスだった多田は、3年になって唯菜が悠里と一番近しい場所に立っていることをよく思っていなさそうだとということを、当時から唯菜は感じていた。唯菜は母親が厳しいこともあって、どちらかというと真面目な生徒に区分されていたが、唯菜以外のグループのメンバーは服装や授業態度も奔放で教師から目を付けられがちだった。多田は唯菜のことを真面目な、と皮肉って、グループ内で異分子扱いするような態度をよく取っていた。好かれているとは決して思っていなかったが、まさかそこまで嫌われていたとは・・・。
唯菜は思わず大きく溜息を吐いた。悠里が不安そうに唯菜の顔色を窺っていた。
「でも、なんで多田さんが嘘吐いたって分かったの?」
「ああ、分かったって言うか、実はさ、中3のクリスマスに山下君にこくってさ、なんか付き合うことができたんだよね。」
「え、うそ、そうだったんだ。知らなかった。」
「うん、受験生だし、そんなに会ったりもできなかったから、周りには知られてなかったと思うよ。まあ、それでなんとか続いてたんだけど、高校が別になったでしょ?それで自然消滅、みたいな。こっちは暇なのに、あっちは補習やら部活やらで時間は合わないし。なーんかどうでもいいか、ていうか、身近な人に付き合ってって言われたら、あ、そっちいっとこ、みたいな。」
「それがこないだの彼氏?」
「いや、また別。そいつともすぐ別れて、その後に付き合いだしたのが今彼。」
少なくとも自分よりは色恋の方面に積極的だった悠里ではあるが、中学の時は山下に告白するのも長い間戸惑っていたことを考えると、やっぱり高校生になったら違うんだなあと唯菜は感心してしまう。
「まあ、それより多田なんだけど、あの子、高校入ったらさ、クラス変わったってのもあって、全然話もしなくなっちゃって。それくらいなら別によくあるかって感じなんだけど、どうも、高校入学してから山下君に付き合ってって言い寄ってたらしいのよ。その時にさ、私のことをあることないこと言ってたみたい。山下君は断ったから、多田とつき合うことはなかったみたいなんだけどね。うちのテニス部の子がそこら辺のことを聞いてきて教えてくれたんだ。」
「多田さん、どんなこと、言ってたの?」
「んー、私が、高校入学したら、他の男と遊びまくりーとか、援交してる、とか。」
悠里は淡々としていた。
「それ、山下君に誤解解いたの?」
「まさか。多田のこと知ったの最近だし、高校なってからのことってまあ半分ほんとって感じだしね。ま、でもさすがに援交なんて嘘言われてたことは分かったから、むかついて多田と話つけようとしたんだけど、謝るどころか、開き直っちゃってさ。あの子、今はクラスでもほとんど無視されてるみたいだし。」
「そっか・・・。」
「それで、もしかして中3の時のゆいの話も多田の嘘だったのかなって思って、他の子に聞いたら、あの話は多田しか知らなかったし、そう言われてみると嘘だったかもって。」
当時、誰も唯菜にそんな話があることを聞いてこなかった。その時に、悠里でも他の子でもいいから、唯菜に一言聞いてくれれば、反論もできたかもしれない。そうすれば状況はもっと変わっていたのだろうか。
誰も、一番仲のよかった悠里でさえも、自分ではなく多田の言うことを信じたのだ、と分かると力が抜けていくような気がした。
悠里は、こんなことを言える立場ではないんだけど、と前置きした上で、できればまたメール交換したり遊んだりしてほしい、と頼んできた。悠里の必死な様子に、唯菜はいいよ、と答えるしかなかった。
まだ悠里を完全には受け入れられない。まだ何か裏があるのではないか、とか、また同じようなことがあるのではないか、とか考えてしまう。でもそれも仕方ないだろう。
理由があったとはいえ、悠里が唯菜を裏切った事実は変わらない。狭量な人間だと思うが、何もかもをなかったことにして、悠里を許すことはまだできなかった。
別の高校なのだから、彼女と会わずにいようと思えばできる。どこにも逃げ場のなかった中学の時とは違う。きっとそこまで深刻に考える必要はないはずだ。
それに、例え何かあっても、彼がいてくれればそれだけで自分は平気だ、と思いながら、唯菜は俊介からの返信メールに目を通していた。
彼からのメールには、悠里のことは一切触れられておらず、唯菜は少しほっとした。
俊介を頼りにはしているが、今更、過去のことを彼に話す気にはなれなかった。悠里の話で少しは整理がついたとはいえ、やはり忌むべき記憶であることには変わりなく、なかったことにしたいという気持ちも変わらない。もし、これから悠里とも連絡を取るようになったとしても、もう中学のことを必要以上に気にしてほしくなかった。
それにしても、と唯菜は悠里に対する俊介の刺々しい態度の理由が気になった。
俊介は、常に明るい雰囲気で、何かあってもいちいち目くじらを立てるよりは、どちらかというとふざけて流してしまうような、そういう穏やかな雰囲気があった。教室で集まっていても、喜怒哀楽を隠さない中川がむっとした顔を始めると、クールな藤山はそれを取りなすでもなく放置しているが、俊介はなに怒ってんだよ、と軽い感じでいなして雰囲気を元に戻してしまう。
そんな俊介が悠里には、決して笑った顔を見せない。相手の機嫌を損ねようが、全く気にしない、といった態度で、今日も隣にいた唯菜はどうしていいか分からなくなった。
対する悠里も、彼女の性格ならば俊介のつっけどんな物言いに、おとなしく引き下がることなどないだろうに、彼の態度を仕方ないものとして受け入れ、文句を付けることもない。
やっぱり二人の間に何かあったんだろうか。
唯菜は中学の時を思い出そうとしたが、3学期の教室がどんな様子だったのか、ぼんやりとしか思い浮かばなかった。その内、俊介とのメールに夢中になって、そのことは頭の片隅に追いやられていった。

<2010.11.7>