優 し い 手   


そこに秘められた想い(4)

その夜、俊介からのメールは来なかった。テスト期間中に入ってからは毎日一緒に帰っているからか、メールのやりとりはなかったのだが、唯菜は自分からメールをするべきかどうか悩んでいた。
公園からバス停まで、俊介はそれまでの沈黙が嘘のように饒舌になっていた。唯菜も必死にそれに合わせていたから、バスの中では妙にぐったりしてしまった。
俊介は気を使っていたのだろう。お陰で妙な雰囲気はなかったことにしてしまえたが・・・。
あーでも、あれはやっぱりキスしようとしてた?!
キスという言葉の響きだけで唯菜の顔は熱くなった。開いていた教科書に顔を埋めると、紙が冷たい感触を頬に伝える。
唯菜の目を見つめる俊介の目。思い出すだけで眩みそうになる。
思わず逃げてしまったという罪悪感。もう一度落ち着いてやり直しさせてほしいと思うのも、あとの祭りでしかない。
どうしよう、呆れられてるかも・・・。
フォローのメールをするにしても、何をどう言えばいいのか、分からない。こういうことにもっと慣れていたら、と考えて、美咲の顔が思い浮かばれたが、彼女には相談できそうにもないとすぐに打ち消す。
その時、間近に置いてあった携帯の着うたが流れ始めた。慌てて確認したが、期待した人とは別の送信者で、唯菜は肩すかしを食らったまま、開封ボタンを押した。
メールは悠里からだった。
『あさってどうかな?テスト中で悪いんだけど、また予定教えてね。
こっちは明日テスト最終日!なんだけどやる気なしです・・・。赤点だけは免れたい!!』
悠里に連絡すると言っていたことを思い出した。今日のことですっかり忘れていた。唯菜はすぐに返信をした。
『明後日だいじょうぶだよ。3時くらいからでもいける?』
昨日までは悠里に会うのを止めておくという方向に傾きかけていたのに、なんだかもう平気な気がした。悠里がどんなつもりなのかは分からないが、そう悪い話とは限らない。
悠里達には無視されるだけでなく、ワークブックや文房具、鞄を隠された。証拠はないが、たぶん彼女達だったのだろうと今でも確信している。
当時、なくなった物を探している唯菜の側に悠里は必ず寄ってきた。わざわざ悠里の方から声をかけてくること自体がその頃にはあり得ず、唯菜が困っているのを確認しているようにしか思えなかった。
なくなったのは補習で使う問題集、筆箱、鞄。
問題集は放課後に見当たらなくなったが、翌日に戻ってきた。その後になくなった筆箱は見付けられないままだった。唯菜は仕方なく古い筆箱を持ち始めた。
「ゆい、筆箱どうしたの?」
音楽室への移動の時、悠里に尋ねられた。最近では唯菜の持ち物など全く無関心な悠里がまるで確認してくるかのように聞いてきたことに、唯菜は身を縮めた。
「・・・なくしちゃって。」
「ふうん、災難だったね。」
悠里達のくすくす笑いに唯菜は取り囲まれていくような気がした。
その二日後には下敷きと英語のノートがなくなった。唯菜が席を離れていたのは掃除の間だけだった。もう自分の勘違いとするには限界のような気がした。誰かが故意に持って行っている。
それが誰なのか、呆然と座り込んでいる自分に時々投げられる視線の持ち主達であることは勘づいていたが、どうしていいか分からなかった。それをしたのが悠里達だと責めるような証拠も勇気もない。
翌日になっても筆箱と同様に無くなった物は戻ってこなかった。
翌週には、体育の授業から帰ってくると、鞄がなくなっていた。誰が?着替えの間も体育館への移動も悠里達とはたいがい一緒にいたのだ。でも分からない。
朝登校してすぐに学生鞄をぶら下げたはずのフックに今は何もない。もしかしたらもっと前から無くなっていたのかも。
まさか、悠里達じゃないの?
「どうしたの?」
悠里が唯菜の顔を覗き込んだ。
「鞄が、無くなったかも。」
「え?鞄?何それ、誰かに隠されたんじゃない?」
唇が引きつった。まだ教室に生徒はほとんど戻ってきていなかった。
気付くとグループの子達が悠里の隣に立っていた。
「どうしたの?」
「鞄隠されたんだって。」
「ゆいったら恨まれてんじゃないの?」
「今頃、焼却炉かもね。見に行った方がいいんじゃない?」
口々に喋るのを唯菜は唇を噛みしめて聞くしかなかった。やっぱり隠したのは悠里達に違いないと思うが、証拠もなく、そんなことを問い質すことはできなかった。
教師に相談するつもりもなかった。鞄がなくても別に持ってきているリュックに必要な物を詰めればとりあえずは補習にも行けるし、下校もできる。しかし、鞄がなくなったことを母に知られる訳にはいかない。もし知られたなら、話は大袈裟なものになってしまうだろう。
しかし、心配を余所に、翌日教室に行くと机の横に鞄がかかっていた。唯菜はほっとすると同時に、もう悠里達には関わらないようにしよう、と決めたのだった。
その日を境に唯菜は休み時間の度に教室を出て、部室棟へと向かうようになり、卒業式まで悠里とは口をきくこともないままだった。
逃げることしかできなかった自分。
でも、もう逃げてばかりではいけないような気がする。これに立ち向かったからと言って、今わだかまっている全ての曖昧な状況を打破できるとは思えなかったが、それでも何かを変えられたら、と自然に思っていた。そんな風に思えたのも、俊介とのキス未遂騒ぎで思いのほか浮かれていたからだろう。
もし、嫌な目にあっても、もう2度と会わなければいいだけだし、と唯菜は努めて軽く考えるようにした。
悠里からは了承する返事がすぐに返ってきて、2日後に先日偶然会った駅前で会うことになった。

「え?まじで・・・。」
今日悠里と会う約束をしている、と俊介に言うと、彼の表情が一気に硬くなった。
「うん、ゆうちゃんの学校は昨日テストが終わったらしくて。」
俊介の反応が予想以上に冷たく感じられて、唯菜は焦ってしまう。やっぱり言わない方がよかっただろうか。
悠里に再会した時、明らかに不機嫌になった俊介は、しかし、それ以降全く悠里のことは忘れているかのようだった。中3の当時、俊介と悠里の仲がどうだったか、卒業前のことは余り思い出せなかったが、少なくとも唯菜と悠里の仲がこじれる以前はクラスメートとしてよく話をする方だった。
「何時?」
「え?」
「あいつと会うの。」
「えっと、3時に。」
俊介がふーんと言ったきり黙ってしまった。二人は駅ビルの最上階のフリースペースに置かれたテーブルセットの一つに向かい合わせに座っていた。さっきまで同じフロアにあるゲームセンターで遊んでいた。
休み前と言うことで、どこの学校も午前だけで放課なのだろう。そのフロアは高校、中学の制服が溢れていた。
黙ったままの俊介にちらりと視線を向けると、ちょうど彼の視線とばっちり合ってしまう。
「どこで会うの?」
「えっと、こないだ会ったとこ。」
なんだか尋問されているようで、正直落ち着かなかった。また無言になった俊介を視線の端で確認する。
何か考えているようだった。
その重苦しい雰囲気に、唯菜は自分の決断がまずかったのだろうか、と悠里に会うことに不安を覚え始めた。
でも、俊介は何も知らないはず。悠里達にされたことは誰にも言っていないし、誰かに気付かれたこともない。親にも教師にも、部活棟に逃げていた唯菜に声をかけてくれた奈津美にさえも、唯菜は何も喋らなかったし、また彼らも何も言わなかった。だから同じクラスとは言え、男子である俊介が女子間の仲違いに気付いたとしても、その細かいところまでは分からなかっただろう。
しかし、唯菜の気付かないところで、噂になっていたのかもしれない。井上が福永悠里達にシカトされている、とか。
そう考えて、唯菜は背筋がぞくりとした。
嫌だ。そんなの。
当時の事実を知られることは、惨めで耐えられなかった。同情や憐憫に訴えて助けてもらうという発想よりも、自分が誰かに切り捨てられるような人間だと認識されるのを忌避しようとする方が強くて、唯菜は他人に知られることを恐れた。当時も、そして今も。
俊介に自分が悠里達に無視をされるような存在だったと知られて、そんな子とつき合いを続けたくないと思われたらどうしよう、と不安になる。彼はそんな人間ではないと思うのだけど。
「井上?」
はっと顔を上げると、俊介の目が間近にあった。瞬時に先日の公園での出来事を思い出して、どきりとして視線を下に向ける。
「寝てるのかと思った。」
「目あいてます。」
茶化すような彼の口調にほっとした。さっきまでの責めるような雰囲気がなくなっている。
なのに、じっと見つめられていることが伝わって、唯菜は顔を上げながらも視線を彷徨わせた。
さっきまでの緊張感とは違う緊張感が唯菜を取り巻いた。
間に小さいとはいえテーブルを挟んでいるし、周りにはたくさんの人がいる。この間の状況とは全く違っているのに、唯菜は必要以上に自分が焦っていることに気付いた。
俊介とキス。それはテスト期間中、勉強しながらもずっと頭を離れなかったことだ。想像しただけでどうしようもなくなる。また、次の機会があるんだろうか。この間の唯菜の行為が拒絶ととられて、俊介が躊躇するかもしれない、と不安になりながらも、唯菜の期待は大きく膨れあがっていた。友達にはやされても、まだまだ自分とは直接関係のないように感じていた行為が、この間から急に身近になってしまった。唯菜はその行為を想像しようとしても、緊張と期待と不安ですぐに頭がパンクしてしまいそうになる。
何気なく見ていたテーブル上の自分の手に、すっと影がかかったかと思えると、指先が温かい感触に包まれた。俊介の手が唯菜の指先を包むようにあった。思わず顔を上げると、身を乗り出している俊介の顔があった。さっきと同じように唯菜を見ている目にはふざけるような色は全く見当たらなくて、唯菜は呆然としてしまう。
こ、これは、なに?
公園でのことが蘇って、唯菜の鼓動は連打され、頬に血が上っていくのを抑えられなかった。
絶対赤くなってる、と思ったとき、俊介が不意にふっと笑った。
「なによ?」
「べつに。」
睨み上げたつもりの自分の顔はたぶん赤くなっているのだろう。俊介はニヤニヤと唯菜の顔を見ている。むっとして、唯菜は反射的に手を引こうとしたが、ぎゅっと力の入った俊介の手に阻まれた。
うっと詰まって唯菜は俯いた。これ以上赤い顔を晒していたくなかった。どの位赤くなっているのか自分では分からないのだけど。
「井上でも照れるんだな。」
「どういう意味よ。」
「べつに。」
「なにが、べつに、よ。」
毒づいて、唯菜は再び手を引こうと試みたが、余計に俊介にぎゅっと手を掴まれていた。彼の手の中にある部分は既に指先だけではなく、手の甲にも及んでいた。
俯いているとどうしても自分の手を掴んだ俊介の手を見てしまうことになって、それで更に居たたまれなくなってしまう。よく日焼けした俊介の手。あまり指は長くないが、唯菜の手より一回りは大きいだろう。
「いや?」
窺うような声に、唯菜はぱっと顔を上げた。
「や、じゃない。・・・・はずかしい、だけ。」
最後の方は呟くように口に吸い込まれて、唯菜はまた顔を伏せた。
嫌なはずがない。本当はめちゃくちゃ嬉しいのに、何かが邪魔をする。この間の公園のことも嫌で避けた訳じゃないと伝えたかった。でも今更何をどう言っていいか分からない。
「恥ずかしいか?誰も見てないって。」
俊介の言葉に、ふと唯菜は周りを見渡す。確かにフリースペースのテーブルは全て人で埋まっていたが、みなカップルや友達同志で盛り上がっていて、他人のことなど気にしていないように思えた。実際唯菜も周りを観察する余裕などあんまりなかった。でも誰にも見られてないと分かっても、やっぱり恥ずかしくて、嬉しいのに逃げたくなるのはどうしてなんだろう。 逆に余裕のある俊介の態度が不思議だった。視線を俊介に戻す。彼は周りを見ていたが、唯菜の視線に気付くとこちらを向いた。
「な、平気だろ?」
「わかん、ない。」
人が見ていようが見てなかろうがこういう行為に慌ててしまうのは、唯菜がとにかく免疫がないからだと自覚もある。その一方でずっと唯菜の手を離そうとしない俊介は顔色も変わらず、唯菜の慌てた様子をからかっていられるほどの余裕がある。この差はいったい何なのだろう。
俊介にとって唯菜は3人目の彼女だ。こんな風に手を繋ぐことにも慣れているのかもしれない。思えば付き合い始めてからのイニシアティブはほとんど俊介が握っていた。メールを送ってくれたり、一緒に帰ろうと誘ってくれたり、手を繋いでくれたり、俊介がそうだったからこそ、こんな風に放課後、二人でいることが自然になってきたのだと思う。そこには俊介のお陰だと感謝する一方で、なんだか唯菜はもやもやしたものを抱えていた。
それがつまらないやきもちだということは、唯菜にも分かっている。俊介がいちいちそういうことに戸惑っていたら、付き合おうかという話さえなかったことになっていたかもしれないのだから。
それでも、かつては彼女だった女子の手を握ったりキスしたりしたんだろうか、と考えると息が苦しくなってしまう。
もしも自分が誰かと付き合ったことがあったのなら、彼の過去にこだわることもなかったんだろうか。こちらだけが狼狽えている姿をさらしているのもみっともないような気がして、恐る恐る顔を上げる。俊介は相変わらず唯菜の顔を見ていた。
だから、そんな目で見ないでよ。
唯菜は慌てて視線をあらぬ方に逸らして、バクバクと弾む心臓の音に耐えながら、それでもおとなしく俊介の手の温もりと彼の視線を感じていた。
唯菜の中ではせめぎ合いがあったものの、しばらく動かずにいると、俊介に手を握られていることも自然なことに思えてくる。唯菜が視線を戻すと、俊介の視線と繋がった。俊介が笑顔になる。それは今までのからかうようなものではなく、自然と口の端が上がってしまったというような、穏やかなものだった。唯菜はそれにどう返していいのか分からないまま首を傾げるようにして、彼の視線を受け止める。顔が赤くなっているのが自分でも分かるが、動くことはできなかった。うるさく波打つ鼓動の音が周囲の喧噪を打ち消してしまった。
「25日って・・あいてる?」
目を合わせたままで俊介が口を開いた。
「え、25日・・・。」
俊介と見つめ合っているという状況にいっぱいいっぱいの唯菜の耳には、彼の問いかけが上滑りに流れてしまいそうになっていた。
「冬休みだろ。午前中サッカーだから、昼からになるけど。」
25日、クリスマス、プレゼントという単語が真っ白になっていた唯菜の頭の中に矢継ぎ早に浮かんできた。
「う、うん。あいてる。クリスマス、だよね?」
身を乗り出すようにして言うと、俊介が嬉しそうに頷いて、唯菜の手を握っていた指にきゅっと力を込めた。彼の体温を一層感じて、唯菜の緊張と歓喜は最高潮になっていた。美咲達にそろそろクリスマスをどうするか考えた方がいいんじゃないか、とせっつかれて、ずっと意識してきた。自分からは誘えない、と不安に感じながらも、プレゼントの下見だけはずっと続けていたのを、あっさり俊介の方から誘ってもらえたのだ。
幸せすぎる・・・かも。
自然と唯菜の頬も緩んでいた。手を握り合って顔を見つめ合っているなんて、いちゃいちゃしている以外の何ものでもなかったが、唯菜からは恥ずかしいという感情は消え去って、誇らしい気持ちにさえなっていた。こんなに仲がいいんだと、みんなに見せびらかしたいかも、と思った。

<2010.10.31>