優 し い 手   


そこに秘められた想い(3)

「ゆい!昨日見たよー。」
教室に入ると早々に美咲がニヤニヤしながら手招きした。
「なに?」
鞄を持ったまま美咲と奈津美の所に近づくと、美咲は声を潜めた。
「昨日見ちゃったんだよね、中村とゆいがおてて繋いでるとこ。」
「あっらー!えーどこで?」
言葉をなくしている唯菜を無視して奈津美は興味深そうに聞いている。
「駅前でさ、なんかいちゃついてるのがいるなあと思ったら、知ってる顔でさ。」
「いちゃついてないし!」
唯菜は憮然としていたが、奈津美達はどこ吹く風である。
「なんで声かけないのよ。」
「それがさ、呼ぼうと思ったんだけど、すごい勢いで中村がゆいを引っ張って行っちゃったんだよね。」
「ありゃ、ちょっとゆいったらどこ連れてかれたの?」
奈津美は周りにあった空き椅子を唯菜の側に引っ張ってきて座るように促した。
「それ誤解いっぱいなんですけど。別に引っ張られてないし。バス停行ってただけよ。」
「「ふーん。」」
俊介のことで二人にからかわれるのは慣れているとはいえ、やっぱり顔が熱くなってしまう。自分がからかわれるのは、反応が美咲と奈津美の望んだようなものになってしまうからで、手を繋ぐくらいどうだというのだという態度でいれば誰も騒ぐことはないと唯菜も分かってはいる。
「こないだから聞きたいなあと思ってたんだけど、お二人はキスもまだなのかしら?」
唯菜は寄ってきた奈津美の顔から視線を逸らせた。
「ま、まだよ。」
普通に返事できるほど開き直れるものでなく、またネタにされると分かっていてもたじろいでしまう。すでに全て体験済の美咲と奈津美からすればキスなど大した事ではないのだろうが、唯菜にとっては大事なのだ。
「報告ないからそうとは思ってたけど。ちょっと遅くない?」
「そうね。3ヶ月付き合ってて、それもまだってのはどうよ、と思うわね。」
「遊園地行った時にも思ったんだけどさ、もしかして手とか繋ぐのもあんまない?」
「・・・ない、かも。」
美咲の発した遊園地という言葉にそれまでとは違う意味でどきりとして、彼女の顔を思わず凝視してしまう。
「意外と中村ってとろいわね。藤山のツレだからさ、慣れてそうなのに。もしかしてあいつも付き合うの初めて?」
「いやいや、1年の時に確か麻植さんと黒崎さんに告られて付き合ってたよ。ま、すぐ別れたから何もなかったのかな、どうだろ?」
奈津美が思い出すように言うと、美咲がきょとんとした顔をして言った。
「奈津美ったら詳しいわね。ゆい知ってた?」
「中村って卓也と仲いいもん。中学から一緒だし。ね、ゆい。」
唯菜は二人の問いかけのどちらにもこくこくと頷いた。俊介が一年の時に2人の生徒と付き合ったことは知っている。その頃は俊介への気持ちは誰にも明かしていなかったから、無造作にもたらされるその話に胸を痛めて、そして別れたという噂に安堵していた。それも今では、遠い昔のことのようだ。
「そうか、きみら一緒の中学だったね。・・・てことは、中村も経験なしってなると・・・。いやーなんかほっとけなーい!!」
「だねー。」
奈津美と美咲は憮然としている唯菜を後目に、意気投合していた。唯菜は自分をからかう二人の会話にいつものように不機嫌なフリをしたまま、ずっと美咲の言葉の端々や視線の行く先を意識していた。
もしも美咲が俊介のことを好きなら、こんな会話はすごく辛いことなんじゃないんだろうか。
昨日、自分達を見かけたときにすぐに声をかけなかったのも、そのせい?
一見普通に見える態度も、見方を変えるとその裏に何かがあるように思えてしまう。
あの日のことは聞かなかったことにしようと決めたのに、どうしても振り払えない邪念。
なんだか自分が嫌になる・・・。
自分の気持ちを押し殺して唯菜に接してくれている美咲。彼女に対するもやもやとした感情をどう整理すればいいか分からない。
どうして、あの日、私はあの場所にいたんだろう。
聞かなければ、たぶんずっと気付かなかったはず。その方がよかった。
美咲と奈津美は朝からお互いの初キスの体験談を唯菜に聞かせ始めたが、唯菜は何度か聞いたその話にいつものような興味を持つこともできずに、おざなりな相槌を打つばかりだった。

学校の正面玄関を出たところで、美咲や藤山達と別れた。俊介と二人になると思わず息を吐く。じゃあね、と手を振って離れていく美咲の後ろ姿を思い出して罪悪感で胸がズキンとする。
しかし、俊介と美咲が同じ空間にいると思うと、訳もなく緊張してしまうのは誤魔化しようのない事実だった。
美咲と俊介が自分の知らないところで何か交わしてるんじゃないかと警戒している。そんなはずはないのに・・・。
遊園地へ行った日から2週間が経った。あの日、盗み聞いてしまった美咲の言葉は、実は自分の幻聴だったのではないか、と思えるほど、美咲と俊介の関係は何も変わりがなかった。それでも、唯菜はその裏に何かあるのではないかと邪推してしまうのを止められず、そんな自分の心の狭さを嫌悪していた。
「あーあ、とうとう明日からか。」
「そうだねー。期末は教科多いしなあ・・・。」
俊介の押す自転車のかごには唯菜のバッグが入っていて、俊介自身のショルダーバッグはそのまま彼の肩にかかっていた。
「でもさ、定期テストって俺けっこう好きなんだよな。」
「えーなんでえ?」
好きという言葉に敏感に反応したのを押し隠しながら、俊介の方をちらりと見る。
「テストの間、午前中だけだろ?自由時間長いじゃん。なんか嬉しいんだよな。実力テストとかだと1日で全部やっちゃうから、前日の苦しみしかないってゆうか。」
「なるほどねえ。」
唯菜自身、テスト期間中は家で母の監視の下に置かれてしまうから、俊介のように自由時間が多いと喜ぶ気にはとてもなれないが、何日も俊介と帰れるのは定期テストの時だけで、そう考えれば、確かに私も定期テストは好きかも・・・と聞こえないように独り言ちる。
「どうする?」
「え?」
俊介の家へと続く道の曲がり角で、俊介は立ち止まった。そのまま真っ直ぐ行けば唯菜の使うバス停があるが、左折すれば、よく寄り道をする団地の公園があり、その先には俊介の家があった。
「ちょっと寄る?・・・あ、でも今日は早く帰った方がいいか。」
俊介は遠慮がちに言いながら、少し目線を逸らせた。
「あ、私はいいよ。俊介が平気なら、まだ、・・・。」
一緒にいたい、と続けかけて唯菜は慌てて言葉を飲み込んだ。それは余りにも直接的すぎて、もし口にしてしまえば唯菜自身、収拾がつかなくなりそうだった。
「じゃ、ちょっとだけ。」
なんとなくお互いに顔を合わせないようにしながら、歩道を曲がった。真正面から西日が差して唯菜は目を細める。
ブランコと滑り台に何人かの小学生らしき人影があった。高い声を上げながら走り回っている。俊介はいつも座る中央のベンチではなく、少し離れた砂場の方にあるベンチへと自転車を押していった。唯菜もその後に続いた。
だいぶん二人でいることにも慣れてきたとはいえ、まだまだ唯菜はちょっとしたことで緊張して焦ってしまうと、思わず無言になってしまう。今日は俊介も口数が少ないような気がした。
「明日って古典と数Uと・・・あとなんだっけ。」
「生物でしょ。教科忘れてるっていけるのそれで。」
「いけてないよな。」
ベンチに並んで座る。お互いの間には少し肘を動かしたくらいでは触れ合わないような空間があった。その隙間をもっと埋めたいような、それでいてこれくらいの余裕がほしいような、どちらともつかない気持ちで唯菜は遊んでいる子供達を眺めていた。また言葉が途切れる。
やっぱりちょっと変?
いつものように話が続いていかない。それが自分のせいなのか、俊介のせいなのか、唯菜は必死にいつもの二人を思い出そうとするが、意識がまとまらない。特に興味もないが、遊んでいる小学生の方を眺める。俊介もたぶん同じ方向を見ているのだろうが、隣に座る人の視線を確認することもままならなかった。
「今日はあんまり風ないね。」
「ああ、そうだな。」
冬至が近づくこの時期、4時をすぎると日の光は長い影を作って公園を覆い尽くしそうになっていた。唯菜達の座ったベンチはまだ弱い日の光が当たっていて、それだけで、寒さがやわらぐように思えた。
「寒いか?」
俊介の手が二人の間に伸びてきて、ベンチの座面に置かれる。それは唯菜のスカートのすぐ隣にあった。少し近くなったようなその距離感にどきりとしながら、唯菜は首を振った。
「ううん、全然。」
「いっぱい着てるもんな。」
寒がりの唯菜はカッターシャツの下に保温シャツを着込み、その上にカーディガンとブレザーを重ね着して、更にダウンジャケットとマフラーを巻いて完全武装である。足はハイソックスではなくタイツだった。この間、その着込んだ枚数を俊介にからかわれた。俊介はカッターシャツの下はTシャツでブレザーのみ、コート類はなくマフラーと手袋だけで自転車通学をしている。
「女の子は冷えるんです。」
「井上は特別だろう。タイツってお前だけじゃん。」
確かに美咲も奈津美もハイソックスでタイツは履いていない。
「えーでもカーディガンは女の子必須よ。男の子だって藤山くんとか着てるでしょ?俊介が薄着すぎ。」
「藤山の方が特殊。中川は着てないぜ。」
話しながらものすごくしょうもない内容だなと思うが、よく考えれば二人の会話というのはいつもどうでもいいことばかりで成り立っている。
「藤山はあいつ細すぎなんだよ。食べる量も少ないしな。」
「ふーん?でも俊介も変わらないことない?」
「何言うか、筋肉の付き方が違う。」
空手部の中川のがっちりした体、すらりと長身の藤山。俊介はどちらかというとすらりとしているように思えて、唯菜は首を傾げた。
「脱いだら分かる。」
「いや、分からなくていいし。」
速攻で切り返したが、実のところ、脱ぐという言葉にどぎまぎしていた。今朝、美咲と奈津美にからかわれたことを思い出してしまい、いやいや関係ないし、と頭の中で打ち消す。赤くなりそうな顔を誤魔化すように、意識を公園の方に戻すと、いつの間にか滑り台の辺りで走り回っていた小学生の姿が見当たらなくなっていた。自転車がなくなっているから、公園から出て行ったのだろう。
代わりに幼稚園に入る前くらいの小さな子供が恐る恐る滑り台の階段を上がっていた。その傍らには白髪の男の人が立っていた。その子の祖父だろうか。手すりを握りしめてゆっくりと昇っていく子供を見守っているようだった。
唯菜は胸がじんとするのを止められなかった。いつもそうなのだ。祖父母らしき老人が孫を連れているのを見ると、何故か泣いてしまいそうになる。別に自分が祖父母に対して思い入れがあるとか、死別してしまって懐かしんでいるとかそういうのではない。唯菜の祖父母は皆健在だが、遠方にいるため、余り会うこともなく、殆ど思い出すことさえない。今も自身の祖父母の顔が浮かんだ訳ではない。ただその組み合わせに涙腺を刺激されるというだけなのだが、原因の分からない強い情動に突き動かされるまま、唯菜は口を開いた。
「なんかね、おじいさんやおばあさんが小さい子連れてるの見るとね、何て言うんだろう、悲しくなるっていうか・・・なんか、泣いちゃいそうになるんだよね。なんでだろう。」
「・・・・・。」
滑り台をうまく滑り終えた子供が高い笑い声を立てながら、ぱたぱたと走ってもう一度階段を上ろうとしていた。唯菜は隣からの俊介の視線を感じて、はっとした。頭が熱くなる。
何言ってんのよ。
自分でも掴み所のない感情を赴くままに喋ってしまうなんて。
「ごめん、訳わか・・!」
慌てて打ち消そうと俊介の方を振り向いて、唯菜は続きの言葉を飲み込んでしまった。俊介の顔が間近にあった。唯菜は口を開けたまま、背を仰け反らせる。
俊介の視線から逸らせることができないまま、一瞬固まった。肘を掴まれた感触にびくりとなって、唯菜は思わず迫ってくる視線から逃れるように俯いた。
なになになに?
唯菜の左肘が熱を持つ。俊介に掴まれている。
ついさっきまでの泣きそうだった気分も、意味不明なことを口走った気恥ずかしさも全てすっ飛んでいた。唯菜の心臓が大きく音を立てているのだけは確かだった。
すっと腕が軽くなった。俊介の手が離れたのだ。
それと同時に唯菜の驚きからくる焦燥が引いていき、違う意味の焦燥が沸き上がった。
今のってまずい?
咄嗟とは言え、つい拒んだように思われたかもしれない。
でもでも、そうじゃないかも。キスされそうと思ったけど、気のせい?どうしよう?
唯菜はもう動けなかった。俊介にかける言葉が見つからない。遠ざかることも近づくこともできないまま、身じろぎもせずに正面を向いていた。
「そろそろ、帰ろうか。」
「う、うん。」
俊介が立ち上がるのに合わせて、唯菜も慌てて立ち上がった。緊張のせいか寒さのせいか、体が強張ってぎしぎしと音を立てそうな気がした。どれくらいの間座っていたんだろう。ずっと二人の間に言葉はなかった。気付けば、公園内には誰もいなくなっていた。

<2010.9.30>