優 し い 手   


そこに秘められた想い(2)

家に帰ると、唯菜は制服を着替えて、そのままベッドに倒れ込んだ。
それにしても、異様に疲れた・・・。
あの後、バス停で別れるまで、二人の間の会話はあまり弾まなかった。気詰まりを覚える一方で、唯菜はずっと手から伝わる俊介の手のひらの熱さにドキドキしていた。手を繋いだのは初めてだった。同じ高校の生徒とすれ違っても、俊介は手を離そうとしなかったことに唯菜は困惑していて、普段はよく喋る俊介が無口だったことには意識が向かなかった。
唯菜は触れ合った部分と周りの視線に喋る余裕をなくしていただけだったのだが、振り返ってみると、俊介は唯菜と違って、何かもっと別のことを気にしていたようにも思えた。 やっぱり、俊介は知っているのかもしれない、と考えたとき、鞄の中で携帯のメール着信音が鳴った。布団の上をゴロンと転がって、寝転がったまま床に放りだしていた鞄に手を伸ばした。
メールは悠里からだった。デコメ絵文字がたくさん並んでいた。唯菜は携帯を持ち始めたのが高校生になってからで、悠里からメールをもらうのは初めてだったが、なんとなく彼女らしいと思えてしまう。
『今日は偶然会えてめっちゃうれしかったよー!まさかゆいが中村と付き合ってるなんてビックリ。
ところで、また会いたいな。わたしは帰宅部だし、いつでもヒマだから、ゆいの空いてるときに合わせるよ。
ぜったいメールちょうだい!』
相変わらず強引なところは、メールでも変わらない。何て返事しよう。唯菜は寝ころんだままで携帯の画面を見ていたが、ご飯よ、という母の声にパタンと携帯を閉じた。

悠里とは小学校からの友人だった。中学を卒業してから一度も会ったことはなかったが、家も割と近所で、クラスが離れることもあったが、ずっと仲が良かった。その悠里と中学三年生の時に同じクラスになれた。悠里はテニス部の男の子を好きになり、テニス部だった唯菜の練習を見に来るふりをしてよくテニスコートの周りに張り巡らされたフェンスにかじりついていた。だから悠里と唯菜は部活の有無に関わらず、毎日一緒に帰っていた。
それがいつからだろう。悠里が唯菜と距離を置いていると感じるようになったのは。
クラスでは二人を含んだ6人の仲良しグループがあった。それまでは何をするにも悠里と唯菜は一緒だったのに、悠里が唯菜と二人きりになることを避けだしたのだ。あからさまに無視されることはなかったし、お昼ご飯も、特別教室への移動もグループ一緒だった。しかし、会話の途中で気付かれないように交わされる目配せや、微妙な間。違和感と疎外感がつきまとったが、気のせいだと思いこもうとしていた。
高校受験に向けて開かれていた補習は、成績順で区分けされたクラスで行われていた。最優秀クラスだったのは唯菜だけだったが、他のメンバー同志は誰かが同じクラスにいた。そのせいで自分の知らない話ができてしまうのだろうと考えていた。
しかし、12月に入る直前に唯菜は目を逸らせようのない事実を知ってしまう。ある放課、忘れ物に気付いた唯菜が学校への通学路を慌てて戻っていると、途中のお好み焼き屋の前に、一緒に帰ったはずの悠里の自転車が停められていた。その自転車は一台ではなく、見覚えのあるクラスメートの自転車が隣に並んでいた。
店の中に入って、何してるの?と声をかけようか。
唯菜は店の壁に沿うようにして自転車にまたがったまま考えていた。
でも、たぶんそれはしない方がいい。
唯菜がそう決めて自転車を漕ぎ出そうとしたとき、ちょうど開いていた頭上の小さな採光窓から自分の名前が聞こえた。
「ゆいって、分かってんのかなあ?」
「さあ、どうだろう。あの子頭はいいけど、ちょっとトロいっていうか。分かってないかもね。」
唯菜はペダルにかけていた足を地面に置いた。
「ハブられてるって気付いてないわよ。平気で休み時間とか寄ってくるもん。まあこっちもそこまであからさまにしてないからさ。まずいじゃん、この時期にイジメとか担任にばれても。」
悠里を始めとする仲良しグループの声。
「あの子ってさ、何もしてないフリしてたぶん家ですっごい勉強してんのよ。」
「イヤみよねー。」
唯菜は震える足でどうにか自転車を漕ぎ始めた。学校に忘れ物を取りに行くこともなく、気付いたら自分の部屋のベッドに伏せていた。
明日からどうすればいいんだろう。
突きつけられた悪意に唯菜は途方に暮れてしまった。
翌朝、学校に行く気は全くしなかったが、厳しい上に勘のいい母に仮病と偽ることはできなかった。いつものようにエレベーターでフロアに出ると、もう唯菜は学校以外に行くところがなかった。
勇気を振り絞って教室に入った。自分の机に鞄を置くと、悠里達が集まっているところへ寄って行く。
おはよう、と声をかけると悠里が振り返って、冷たい目で唯菜を見上げた。彼女はおはよ、と返すとすぐに顔を戻して、元の話に戻っていった。他の子は唯菜の方を見もしなかった。存在自体を無視された唯菜はただ突っ立っているだけしかなかった。
やはり昨日聞いた会話は悠里達だったのだ。聞き間違えるはずもないのに、夜の間、一縷の望みを捨てられずにいた唯菜はそれまでは何となくしか感じていなかった疎外感を現実のものとして認めざるを得なかった。
どうしよう。
唯菜は悩んだ。無知を装ってこれまでと同じように接するか、悠里達から離れるか。
この時期にクラス内ででき上がっているグループを異動するというのは、唯菜にとってはかなり勇気のいることだった。同じクラスにはテニス部の部員もいたが、引退後ということもあって、突然彼女達のグループに混ぜてもらうのには説明が必要に思えた。
『悠里達に無視されている。』
その事実を誰かに打ち明けて、その上で自分を受け入れてもらえるのか、自信はなかった。かといって休み時間を一人で過ごす心細さを克服する潔さも唯菜は持ち合わせていなかった。 唯菜は仕方なく、わだかまりを抱えながらも悠里達のグループで留まることにした。悠里達は面と向かって唯菜を拒絶することはなかった。ないがしろにされているのは明らかだったが、唯菜は自分を空気になったのだと思いこむようにした。たぶん悠里達は唯菜自らが離れていくことを期待し、唯菜が寄っていくたびに、なんで来るんだよ、と思われているだろうと分かってはいても、完全に一人になってしまうのは怖かった。例え見せかけであったとしても悠里達のグループの一員でいたかった。どこかに属していなければ学校での生活はやりにくい、と唯菜は信じていた。
もうあと1ヶ月もすれば冬休みに入る。3学期は受験一色になるんだから、今を乗り切りさえすれば、何とかやっていける。
3学期になったとしても、学校に来なくてはならないし、冬休みを境に今の状況がもっと酷くなる可能性もあったのだが、その時の唯菜は1年最後の月のカレンダーを眺めながら、根拠のない希望に縋るしかなかった。

嫌な記憶。
悠里と関われば、どうしても中学3年生のことを思い出す。
唯菜は夕食後、戻った部屋で大きく溜息を吐いた。ずっと忘れようとしていたことだった。高校に入って新しい友達ができ、あの頃のことはきれいに忘れたふりをしてやって来た。確たる理由もなく突然仲の良かった友達に拒否されたことは自分の中での汚点だった。
惨めでつまらない存在。
自分のことをそう思うことも、誰かにそんな風に思われることも、唯菜には耐えられなかった。
そんな過去は抹消したい、と思って、今までは成功していた。
携帯の着信音が鳴った。悠里からだった。夕食後、部屋に戻ってきてからすぐに、期末テスト期間終わったら連絡する、と悠里にメールしたのだが、悠里は期末テストの最終日に会えないか、と返してきた。悠里の高校は唯菜達よりも一日早く期末テストが終わるらしい。
期末テストの最終日、唯菜の学校は半日で終わり、その後は俊介から部活が始まるまで時間つぶしに付き合ってほしいと誘われている。たぶんサッカーの練習は3時からだから、俊介と遊んだ後、悠里に会っても門限には間に合うだろう。
でも唯菜はすぐに了承する気にはなれなかった。
『まだはっきり分からないので、また連絡します。』
返事を先に延ばすだけだと分かっていたが、もう少し考える時間がほしかった。
『お願いね!私の方はあけとくから。じゃあ、テストお互い頑張ろうね!』
返ってきたメールには悠里なりに気を遣ってくれているのが分かって唯菜は複雑な気分だった。結局元には戻れなかった自分と悠里。
正直なところ、唯菜は悠里と会ったとしても、お互い無視するだろうと思っていた。あんな風に笑顔で話しかけられて驚いてしまい、つい請われるままにメールアドレスを教えてしまったが、今になって少し後悔していた。何を今更、という思いが次第に唯菜を支配していった。 悠里にされたことを思い出す。どれもする方にしてみれば大したことのないゲームのようなものだったのかもしれない。でも唯菜にとってあの頃のことは思い出したくもない過去でしかなかった。
悠里達からそれとなく疎外されていることを感じ始めたのは12月になる前だった。これ以上酷くならないように、何とか乗り切ろうとした唯菜の願いは空しく、冬休みに入る前に、悠里達とは殆ど喋らない状況になってしまった。
それなのに、卒業式の日に悠里とは少しだけ顔を付き合わせなくてはならなくなった。幼稚園からずっと一緒だったために、親同士はかなり親しかった。そのせいで、唯菜と悠里は親を挟んで対面する羽目になったのだ。
「唯菜ちゃんとはずっと仲良くしてもらってたのに、離れちゃうのは寂しいわねえ。」
悠里の母の呑気な声に唯菜はいたたまれなくて、視線を泳がせていたが、悠里はそんな唯菜の心境を知ってか知らずかよく通る声で言った。
「またいつでも会えるよね。」
唯菜が顔を上げると、悠里はこちらを見て笑っていた。唯菜は辛うじて、そうだね、と返した。すぐに視線を逸らせてしまったから、悠里の笑顔にどんなものが秘められていたのか、窺い知ることはなかった。唯菜の母は、余り成績の芳しくない悠里との付き合いを快く思っていなかったくせに、そんなことは露とも見せずに、悠里の母に同意しながらにこにこ笑っているのが嘘臭くて唯菜はたまらなかった。心の中で、この二人のせいで神経をすり減さされたというのに、私はなんでここで笑っていなければならないんだろう、と虚無的な気分になっていた。
高校に入ってから遠ざかっていたどす黒い感情を思い出して唯菜は顔をしかめた。振り払うように問題集を広げる。やっぱり悠里とは会わない方がいいのかもしれない、と迷い始めると、目の前の問題に集中できないまま、時間は過ぎていった。

<2010.8.30>