大丈夫だよと言おう


9.そんな彼女だから・・・

委員会は3年生の教室で開かれる。体育委員会は俊介達の教室だった。
教室には少しずつ他のクラスの委員が集まり始めていた。
「じゃあ、矢野君も体育委員になったの?」
委員会が始まるまでの間、指定された席で待機するなど、普段の俊介ならばしないだろうが、隣に井上が座っているとなれば事情は変わってくる。
「ああ。顧問の言うことには逆らえないからな。」
俊介は顔だけを彼女の方に向けていた。井上も体は黒板の方を向いている。机を無視してお互い向き合うように体を動かすには、まだ親しさが足りないのかもしれない。同じクラスになって1週間が経ったが、毎日彼女の姿を確認できることに俊介は慣れ始め、意外と喋る機会はないんだなと気落ちしていたところだった。
同じ委員会といっても、1学期の内は月1回の連絡会があるだけで、普段は共に作業をすることもそれほどない。
「そっかあ。知っている人が多くてよかった。」
彼女の表情を緩ませているのが雄馬だと思うと、気配で彼女がこちらを振り向いたのが分かっても、視線をそちらへと動かすことができなかった。
「委員会の副委員なんて無理かなって思ったんだけど、中村君が委員長って聞いたし。」
彼女は自分が委員をすると知っていて引き受けたんだ、とほのかな喜びを感じた瞬間、彼女の言葉がおかしいことに気付いた。
「委員長って?なに?」
怪訝な声を上げた俊介を、井上が振り返った。
「え?委員長が中村君で私が副委員長って・・・もしかして、聞いてない?」
「誰から?」
「誰って、井内先生・・・。」
「あんのやろー・・」
事の真相を理解した俊介は、思わず悪態を吐いた。井内は勝手に俊介を委員長に仕立て上げたことを、故意か過失か、本人に通達していなかった。しかもあろうことか、それをネタにして井上に副委員長になることを迫ったのだ。
「引き受けてなかったんだ・・・。」
きょとんとしていた彼女の表情が見る間に曇っていくのを見て、俊介ははっとした。
「あ、あー、心配しなくても、やるよ。」
「ほんと?」
井内に対しての怒りを慌てて抑え込むと、俊介は彼女の顔を正面から見た。
「ま、仕方ないよ。担任が井内になったのが運の尽きってな。」
そう言うと、彼女は可笑しそうに笑ったので、俊介はほっとしていた。
井上の前では有耶無耶になってしまったが、それでも、担任教師に翻弄されていることへの腹立たしさはあって、俊介は担任が委員会の教室に入るとすぐ、先生、と呼び止めた。
「なんだ?」
「俺、委員長なんて聞いてないんっすけど。」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてません。」
「それはすまん。でもやってくれるだろ?」
のうのうとしている教師の顔を、俊介は睨み上げた。たまたま彼女とペアのように扱われたから引き受ける心構えになれたが、そうでなければこんな腹立たしいことはなかっただろうと思うと、すぐに頷くのは癪だった。黙ったままでいると、井内はふっと視線を俊介の背後へと走らせた。釣られて俊介も振り向くと、その向こうでは、決められた席に座ろうとしている井上が見えた。
「矢野がさ、井上さんとセットなら中村はやってくれるって聞いたんだけどな。」
「は?」
俊介は勢いよく顔を戻した。そこには真面目な表情を取り繕ろうとしつつも、少し口角の上がった教師の顔があった。
「な、頼むよ。中村と井上なら任せられるし。」
また自分の後ろへと視線を走らせる教師の素振りがいかにも思わせぶりで、俊介の怒りは頂点に達した。
言葉にはできない憤懣が表情にありありと出ているだろう俊介の前で、井内は手を合わせた。
「この通りだ。やってくれ。」
俊介は、はあっと大きく息を吐いてから、込み上げる怒りをどうにか抑えた。
「分かりました。」
それだけ言うと、教師の顔は見ずに回れ右をした。振り向くとすぐにこっちを見上げている井上と、その幾つか後ろの席に座っている雄馬が見えた。雄馬は俊介と目が合うと、片手を上げてニヤリと笑ったが、俊介は黙殺すると俯いたまま井上の隣の席に座った。
まんまと填められたという悔しさと、他人に気持ちを見透かされているという恥ずかしさが一緒くたになって、混乱していた俊介は、隣の彼女がこちらを気遣っている気配を感じていたが、顔を上げられなかった。
委員会はすんなりと終わった。本来なら自薦、推薦、くじ引き等の過程を経て決められる委員長、副委員長が担当教師の指名で決まったのだから当然と言えば当然だった。不機嫌そうな俊介に担任が配慮してくれたのか、挨拶は席のままでいいと言われた。俊介がクラスと名前を述べて、よろしくお願いします、とだけ言って座ると、担任の拍手に促されて生徒も思い出したように拍手をした。後方から一際大きく聞こえる拍手は雄馬を始めとするサッカー部員のひやかしだろう。
拍手が途絶えるのを待って、隣の席に座っていた井上が立ち上がった。彼女も同じように名前を言った。
「いろいろ迷惑をかけるかもしれませんが、一生懸命頑張るのでよろしくお願いします。」
彼女の決して大きくはない声に、俊介は思わず隣を見上げた。彼女はきちんとお辞儀をしてから、静かに椅子に座った。拍手が上がった。今度も後ろから大きな拍手がするのは絶対雄馬だろう。俊介も無意識の内に手を叩いていた。手を止めるのを忘れて、最後まで拍手していたせいだろうか、井上は座った後で俊介の方を向いた。目が合う。はっとして手を打つのを止めると、彼女が照れくさそうに口を緩めた。そのぎこちなさに、きっと緊張していたのだろう、と見当が付くと、自分のふて腐れた態度は彼女に対して申し訳ないものだったのではないか、と感じた。
委員会が終わると、すぐに雄馬が俊介の名前を呼びながら寄ってきた。さっきまでの殊勝な気持ちは途端に霧散して、俊介は振り返りざまに肘鉄を食らわせた。
「いってえ。なに、ひどいよ、委員長。」
「うっせえ。お前な・・・」
井内に進言した咎を責めようとして、視界の端に隣で立ち上がる彼女の姿が映り、俊介はどうにか言葉を止めた。
「よかっただろ?」
雄馬は俊介の肩に手を回すと、小声で囁いた。かっと血が上ったが、井上が近くにいるので聞かれるわけにはいかない。
「よくねえよ。」
「まあまあ。」
担任達に勝手に俊介の気持ちをばらしたことは、到底、許せない。俊介が睨み付けると、雄馬はへらっと笑ってから、ふっと横に視線を向けた。
「先行ってるわ。」
はっとして俊介は隣を見た。荷物を持った井上が席の隣に所在なげに立ってこちらを見ていた。
「じゃあな。」
雄馬は、見合ったままの二人の顔を交互に見ると、足早に教室を出て行く。その先には数人のサッカー部員が立っているのが見えた。まさかあそこにいる全員にばらされてないだろうな、と一瞬嫌な予感が過ぎったが、すぐに目の前の彼女に意識を戻す。我先にと出て行く生徒達ばかりで、教室内の人はあっという間に引けてしまった。
「今日は・・もう帰っていいんだよな。」
もう職員室に帰り着いているだろう担任教師の姿を思い浮かべながら、俊介はぎこちなく問いかけた。
「うん、何も言われなかったし。」
井上はそう答えながらも、俯き気味なまま帰ろうとしない。俊介はどうしたものか、と戸惑った。もしかして一緒に帰ろうとしてくれてるんだろうか。2年の時は、委員会の後、雄馬と3人で靴箱まで話ながら歩いていたことを思い出した。雄馬はもうとっくにいない。
「えっと、井上も部活だよな?」
「うん。」
「じゃあ・・、行こっか。」
本当は一緒に行こう、と言いたかったのだが、決定的な言葉を発する勇気がなくて中途半端になってしまう。それでも彼女はうん、と頷くと、俊介に付き従うかのように机の間を通り抜けた。
体育委員会は早く終わったようで、並んだ教室の中では他の委員会が続けられていた。
俊介は井上と並んで歩きながら、指定鞄の肩ひもを手持ち無沙汰にいじっていた。廊下には委員会の終了を待つ生徒がちらほら見受けられたが、大きな声で喋る者はいなかった。
横にいる彼女の顔を覗き見て、すぐに真正面を向く。さっきから何度その動作を繰り返したことだろう。彼女は俯いたまま、視線が合うこともない。確かに彼女は自分を待っているように見えたのに、いざ、歩き始めると何も喋ろうとしない。特に用があったという訳ではないのだろうか。
まさか俺と歩きたかったとか?
浅はかな期待を振り払うように、俊介は彼女に話しかけてみた。
「体育委員早かったよな。」
「そうだね。」
苦し紛れに捻り出した言葉に、彼女は相槌を打った。相変わらずこちらを見ないが、無視されなかったことにほっとする。
「やっぱ委員長と副委員長が決まってたからかな。」
「・・・。」
今度は返事もない。でも彼女が息を飲んだような気配は伝わってきて、俊介の言葉が聞こえなかった訳ではないのが分かった。
いつもと違う。少なくとも、委員会が始まるまで会話をしていたひととき、こんな緊張感はなかった。
結局会話のないまま、校舎の端までやって来た。今の時期、常時開放された扉の向こうは渡り廊下で、それを渡りきると靴箱に行き着いてしまう。俊介は、この緊張ももう終わりだという安堵よりも、彼女の近くに居られる時間が終わってしまうという物足りなさが込み上げた。
靴を履き替えた後も、自然と隣を歩けるだろうか。
「あの、ごめんね。」
部室まで一緒に歩くためには、と算段していた俊介は彼女の言葉が一瞬頭に入ってこなかった。
「・・・え?」
自然と足が止まって、それまで横目でしか見られなかった彼女の姿を正面から捉えていた。
ごめんって、何が?
俊介は口にこそ出さなかったが、疑問符でいっぱいだった。謝られるようなことなど全く心当たりがない。
「・・・委員長、引き受けたのって、私が副委員長引き受けちゃったからでしょ?」
俯いたままの彼女のつむじが見える。
「意味が分かんないんだけど・・・。」
俊介は思いの外近くにいる彼女にどぎまぎしていて、彼女の言おうとしている先を推測できなかった。
「中村君、委員長の話聞いてなかったんだよね?今日初めて聞かされて、・・・する気もなかったのに中村君が委員長だから副委員長になった、なんて私が言ったから、仕方なく引き受けたのかなって。」
「まさか。なんで井上のせいになるの。」
一気に話された内容を飲み込んで、俊介は慌てて否定した。
「でも・・・。」
ようやく顔を上げた彼女と目が合う。窺うような視線に、彼女の不安が透けて見えた。
「いやいや、ほんと関係ないって。悪いのはさ、黙ってた井内だって。たぶん、俺なんか言えばどうにでもなるとか思われてるんだよ。てゆうかさ、俺は、井上が副委員長なら、委員長してもいいかって思ったから。」
少々照れくさかったが、思い切って口にした。
「ほんと?迷惑かけてない?」
「全然。」
よかった、と呟いた彼女の表情が柔らかになっていて、俊介はほっとした。
二人は止まっていた足を動かし始めた。
もしかして、彼女はこのことを謝るために自分を待っていたのだろうか。
俊介はそう思い当たって、隣を歩く彼女をちらりと盗み見た。さっきまでとは違う彼女の雰囲気は肩の荷が下りた、というのがありありと伝わってきた。
「えっと、井上は1年時からずっと体育委員なんだよな?」
「うん、そう。よく知ってるね。」
「井内から聞いた。」
実は井内達と話をする前から知っていたが、それは隠しておく。彼女はあっさりと納得して頷いた。 さっきまでの緊張感が嘘のようだった。彼女は委員会が終わってから、ずっと俊介への謝罪だけを気にかけていたのだろう。もしかしたら、井内と俊介の会話に彼女の名前が出たのを聞いてしまったのかもしれない。他の会話は聞こえなくても自分の名前というのは耳に付く。自分の名前と、俊介の不機嫌な態度から何かを察してそんな勘違いをしてしまったのだろうか。謝らなきゃいけないのは自分の方だと思ったが、彼女はもうさっきまでのことは全くなかったかのように、わだかまりのない様子になっている。
「委員長なんてガラじゃないけど・・・よろしくな。」
俊介は、ごめん、の代わりにそう言った。
「こちらこそ、よろしく。」
彼女が俊介の方に向かって軽くお辞儀をしてから、にこりと笑った。
ちょうど靴箱に到着した。俊介と井上は同じクラスだから靴箱も近い。隣で靴の脱いでいる彼女を窺いながら、自分も同じように脱いだ上履きを入れて、スニーカーを取り出した。彼女がスニーカーを置いた隣に、適当な間を空けて自分のスニーカーを置く。
二人同時に靴を履くと自然と肘が触れ合った。
「あ、ごめんね。」
「いや。」
彼女の謝りの言葉も避ける仕草も自然だった。
俊介は接触するだろうことを狙って、わざわざ近くにスニーカーを置いたというのに、いざ本当に触れてしまうと、それが一瞬であったにもかかわらず、平静ではいられなくなった。冬服の厚い生地を通して伝わるはずのない彼女の体温まで知ったような錯覚に胸がざわつく。また触れてしまうかもしれないと思うと、きちんと靴を履く前に、思わず立ち上がってしまった。
中途半端に履いた靴を整えるためにつま先で土間を蹴りながら、彼女より先に重い扉を押し開ける。扉を押さえた体勢で自分の脇を通らせるような気障な真似はできなかったが、できるだけ大きく扉を開けて彼女が扉を押さなくても通れるように気を遣ってみる。
俊介の配慮どおり、彼女は扉が閉まる前にするりと外へ出てきた。
「ありがと。」
「え、ああ。」
自分の配慮に気付かれると思っていなかった俊介は返事も禄にできなかった。
薄曇りのせいか、外気は肌寒かった。井上が俊介の隣に並んだ。俊介が下を向くと、自分の靴と彼女の靴が前へ進んでいくのが同時に視界に収まった。さっき、廊下を歩いていたときはもっと離れていたような気がする。それでも二人の間にはまだ十分過ぎるくらいの空間が残っていた。俊介は意識して体を彼女の方に近付くようにと足を動かした。
校舎からグランド沿いにアスファルトの道を歩くと、プールとその脇に部活棟がある。委員会のなかった生徒達が部活の練習を始めようと、準備にかかっていた。
「3年生ってサッカー部とテニス部がほとんどだったけど、それって井内先生の策略ってこと?」
「まあそうだろな。サッカーの顧問も引き入れてさ。俺は顧問と担任の二人がかりで頼まれたし。」
「そうなの?」
「そ、職員室で。」
こっそりと彼女の横顔を見やる。顎の辺りで切りそろえられた髪の毛の裾から覗くうなじと首筋は、相変わらず線が細かった。さっき、二人の制服越しに感じた存在感が蘇って、また心臓が早くなる。
「うわー悲惨・・・。」
眉を蹙めたのが横顔でも分かった。
また触れられないだろうか。近寄せたはずの空間をゼロにできたら。
そんな邪なことを俊介が考えているとは、隣を歩いている彼女は全く想像もしていないだろう。もう部活棟はすぐそこだった。
「まあでもテニス部の後輩も多いし、なんかうまくやってけそうな気がしてきた。」
「そうだな。サッカーも真面目な奴はいないけど、何とかなるだろ。一番問題は雄馬かな・・・。」
「あー矢野君ね。・・・でも、中村君がお目付役でいれば問題ないでしょ。」
少し思案してから彼女はふふ、と笑った。去年の委員会にまつわるやりとりを思い出したのだろう。
「あいつの面倒見きれねえよ。」
「えーうそ、いいコンビじゃない?」
「勘弁してよ。」
その時、部活棟の扉が勢いよく開いて、中から話題の主が現れた。
「お、俊介と井上。」
雄馬はまだ制服のままで、二人を目に留めると嬉しそうに両手を挙げた。思わぬタイミングの良さに、俊介は彼女の方を向いた。同時に彼女も俊介を見ていた。二人とも同じ事を考えていたことが伝わって、顔を見合わせたままぷっと噴き出した。
「何笑ってんの?」
駆け寄ってきた雄馬を無視して俊介は笑い続けた。
井上も雄馬に説明をしようとするのだが、笑いが込み上げて続けられないのか、だって、とか矢野君が、とか笑いの合間に単語をのぼらせるのがようようだった。痺れを切らした雄馬が笑い続ける俊介の肩を羽交い締めするまで、笑いの止まらない彼女と幾度も目が合ってその度に胸が高鳴るのを抑えられなかった。

<2011.10.14>