大丈夫だよと言おう


8.日頃の行いがいいんです

これは超ラッキーだろ。
俊介は黒板に貼られた3年生の新しいクラス名簿を見て、秘かに拳を握りしめた。あちこちで、声が上がっているが、俊介はやったーと叫びたいのを我慢した。しかし顔が緩むのは仕方ない。
もう一度、3年1組の名簿に視線を走らせて、1番上に彼女の名前が、その下の連なる一覧の中に自分の名前があるのを確認した。
3年生の教室へと移動する途中で、雄馬に背中を叩かれた。
「お前、やったじゃん。」
「何が?」
「とぼけちゃって。井上と同じクラスじゃん。」
後半は気を遣ってか小声だった。俊介は口端が緩むのをそのままに頷いた。
「雄馬は?何組?」
「俊介の隣だよ。2組。サッカーの奴結構いるんだぜ。1組は・・・工藤もいたよな。」
「あ、そうなんか?見てなかったな。」
「おいおい、井上の名前しか見えてないのかよ。困った奴。」
雄馬が俊介の脇腹を肘でぐりぐりと押してきた。
「うるせー。」
図星を突かれて俊介は顔が熱くなった。自分と彼女の名前だけを確認して、そして、教室を飛び出してきた。もしかしたら、新しい教室に彼女がいるかもしれない、と期待したからだ。
「まあ、その調子で頑張れや。そういや、おまえ担任、井内だぜ。」
「まじ?ラッキー!」
井内は去年雄馬のクラスの担任だった体育教師だ。まだ20代の若い教師で、話の分かる先生だと雄馬から聞いていた。雄馬は生活指導の教師が担任だったらしく、ぶつぶつ文句を言っている。
「お前こそ、頑張れよ。」
俊介は、大袈裟に先を憂えている雄馬の背中を叩いた。幸先のいいスタートに自然と軽くなる足取りで慣れない校舎を歩いた。

席順は出席番号順だったため、井上との席は離れていた。ただ、彼女が前だったので、顔を巡らせるとクラスメート達の頭の間から、何とか教卓の方を向いた彼女の横顔を見ることができた。その上、俊介の斜め前に、井上と仲の良い福永がいた。
「中村、また一緒だね。」
「みたいだな。」
声をかけてきた福永の隣には彼女がいた。俊介の意識は斜め前にいる彼女に集中していたが、必要以上にそちらを見ないようにしていた。春休み中、部活の練習の時に彼女の姿は何度か見かけたが、話す機会はなく、そういえばこれほど近くで顔を見るのも久しぶりだった。
「あの、私も一緒なんだ。よろしくね。」
まさか話しかけられると思っていなかった俊介は、思わず井上の顔を正面から見てしまった。目が合って頭の中が真っ白になる。
「あ、うん、・・・・こっちこそ。」
「あれ、ゆいと中村って知り合いだっけ?」
「うん、体育委員が一緒で、いろいろ助けてもらったの。」
「へえ、そうだったんだ。あんたもいいとこあるじゃん。」
「・・いいとこだらけだよ。」
福永のからかいをなんとか軽く返すと、ようやく常の調子を取り返した。その後はすぐ、他の女子が福永の席を取り囲み居辛くなった俊介は、工藤が机に座っているのに気付いて、そちらへと向かう。井上が直接かけてくれた言葉は結局あの一つだったが、俊介は十分満足していた。
これからはその気になればいつでも彼女と会える。
俊介は自分の前に広がる可能性に有頂天になりそうだった。

始業式の後、廊下を歩いていた俊介は、突然、担任の井内から、放課後職員室に来るように耳打ちされた。
「何ですか?」
滅多にないことに眉を蹙めた俊介に、井内は、まあ後でな、とだけ言うと教室へと向かって行った。
「どうした?」
隣を歩いていた工藤に尋ねられた。
「放課後、職員室に来いって。何だろう?」
「心当たりは?」
「ない。」
「・・・・。」
工藤は騒ぎ立てるタイプではないから、俊介の不安を煽るようなことは一切言わなかった。これが雄馬であれば、何をやらかしたんだ、と言い始めて、皆の知るところとなっていたかもしれない。
俊介は優秀でもないが、教師に目を付けられるほど素行が悪いということもない。 至って普通な自分が始業式早々に職員室に呼ばれるとはどういうことなんだろう。
学活の後、俊介は工藤に部室で待っててくれ、と言いながら、一人、職員室へと向かった。
滅多に足を踏み入れることのない職員室で、担任の姿を探す。生徒の姿が全く見えないことに不安を募らせながらも、きょろきょろとしていると、窓際の方で、俊介に気付いた井内が手を上げた。
「悪いな。」
近寄った俊介に井内は人の好い笑みを浮かべた。どうも叱責とは程遠そうなその雰囲気に、俊介は肩の力を抜いた。
「何ですか。」
「あー実はな、中村に折り入って頼みがあるんだよ。あ、木下先生。」
気付くと、自分の隣にサッカー部の顧問である木下が立っていた。木下は井内より少し年上の体育教師で、自分もサッカーをしていたこともあって、サッカー部の指導にも熱心な教師だった。
「中村、すまんな。」
「はあ。」
真剣な眼差しになった担任と顧問に、消えていた不安がまた頭をもたげ始める。面倒なことは勘弁である。
「オレなあ、今年体育祭の担当になっちゃったんだよな。」
顧問がちらりと担任の顔を見てから、俊介へと視線を戻した。俊介は長身の顧問を見上げた。
「はあ。」
「そこでな、3年の体育委員は体育会系の部員でまとめようと思ってな。委員会経験者で体育部員。」
嫌な予感が言葉として形になりかけた。顧問を見上げていた俊介は座ったままの担任に視線を移した。
「・・・まさか。」
「そう、たぶんそのまさか。中村にうちのクラスの体育委員やってほしいんだよ。」
「無理っすよ。てか別に俺でなくてもいいじゃないですか。工藤は?あいつも体育委員経験者ですよ。」
「工藤は部長だろ。部長は委員になれないの。」
顧問がすかさず答える。
「えー。」
俊介の声が響いて、担任の向こうに座っていた教師がちらりとこちらを見た。咎めるような目線ではなかったが、俊介は慌てて声を落とした。慣れない職員室は居辛くて仕方ない。
「ここだけの話、自主的に委員してくれたら、当然内申点もアップだぞ。」
「内申点・・・。」
「そう、中村は南高第一希望だったよな。成績的にはギリって感じだろ。内申点は高い方がいいぞ。」
担任と顧問に代わる代わる言われ、俊介は言葉に詰まった。高校のことを持ち出された時点で、従わざるを得ない雰囲気が濃厚になってきた。
「男子はできるだけサッカーの部員にしてもらう予定だから。それなら中村もしてもいいと思わないか?」
顧問の言葉に俊介は唸りながら首を捻った。
「頼むよ。女子もさ、候補決まってるんだよ。うちの部の井上さん。あの子去年も委員してただろ?」
意外な名前が出てきて、俊介は目を丸くした。そういえば目の前の担任はテニス部顧問だった。しかも彼女も体育委員経験者だ。
「1年からずっと体育委員だったみたいだしな。まあ、あの子は引き受けてくれるだろう。」
確かに担任でしかも顧問などという教師に頼まれたら、彼女は引き受けるに違いない。そしたら、一緒に委員をやれるかもしれない。俊介の頭の中から、面倒に巻き込まれたという感覚は瞬時に消えていた。
「サッカー部は結構、体育委員経験者多いんだよな。まあ、中村がしてくれるなら、他の部員も引き受けるだろうし。」
「はあ。」
じゃあよろしく、と二人に言われて俊介は職員室を出た。
クラスだけではなく、委員会も同じ。
職員室に入ったすぐは無理を押し付けられたと感じて、うんざりしていたのが、嘘のようだった。女子の委員が井上だと聞いていたら、内申点の話などされなくても承諾していたに違いない。
俊介は今日の学活中、何度も目にしてしまった彼女の横顔を思い浮かべた。担任の話を真剣に聞く様子は、俊介がずっと思い描いていた彼女の誠実さを裏切らなかった。彼女が自分よりも前の席でよかったとしみじみ思う。
そういや俺、委員やるって答えたっけ?
俊介がふと我に返ったのは、靴箱に辿り着いた時だった。はっきりした返事はした記憶は全くない。しかし、教師達の間では完全に俊介が引き受けたという前提で話が終了していたことを思い出して、自分の流されやすさに苦笑した。
そしてその翌日、担任から井上が体育委員を引き受けたと聞いた。
俊介が一緒に委員をするということを彼女が知って引き受けたのかどうかを確かめたかったが、自分の気持ちが担任にばれてしまいそうで、できなかった。

<2011.10.3>