大丈夫だよと言おう


7.日進月歩

雄馬が彼女と別れたのはバレンタインデー前だった。
冬休み、いや、もっときちんと言えば寒くなり始めた頃から、雄馬の愚痴は増えていた。
内容は、彼女の束縛がひどいということだった。
メールの返信が遅いと電話がかかってきて、理由を問い質される、とか、他の女子と一緒にいる所を見られたら文句を言われ、少し話をしただけでも機嫌が悪くなる、とか、休みの度に会わなければ付き合っている意味がない、と責められる、とか。
家の近い雄馬とは部活の後、一緒に帰宅していたが、ずっとその話をされるのも、俊介としてはうんざりというところだった。付き合い始めた女子がどういう態度をとるものなのか、普通一般のところが俊介には全く分からず、雄馬の話を聞いても、好きな相手から言われるのなら嬉しいんじゃないか、と反発を覚えることもあれば、確かにそれはうんざりだな、と共感してしまうこともあった。
付き合うというのも意外と面倒なんだな、と感じたのは決して彼女のいる友人に対する僻みから来るものではない。だから俊介は、そんなに不満なら別れれば?とは一度も口にしなかった。きっと雄馬はそれでも彼女のことを好きなのだろう、と思っていたからだ。
しかし、当の本人は清々した、という口調で付き合いが終了したことを俊介に報告してきた。
「昨日もけんかになってさ。そんなんなら別れる、ってゆうから、そうしよう、って言って終わり。」
「それ、相手納得してんの?」
さすがの雄馬も大手を振って話すことではない、というのは分かっているようで、しかし、俊介に早く知らせたかったらしく、わざわざ部活の前に俊介を迎えにやって来ると、そのまま体育館横の人通りの少ない場所に引っ張って行った。
「電話のあと着拒否してたら、今日呼び出されたよ。そこではっきり、もう付き合うつもりはない、って言っといた。」
「へえ。」
本当にそれで終わるんだろうか、と幾ばくかの不安を感じた俊介だったが、肝心の雄馬は何の憂いもない顔をしていた。
「別れてよかったのかよ。お前からこくったんだろ?」
「ああ。でもさ、あんなになるとは思わないだろ?てか、昨日のだって、あれだぞ、委員会の後、井上と歩いて帰っただろ、それをどこからか聞きつけて責められたんだぞ。ありえんって。」
「昨日?俺もいたよな。」
昨日は3学期に入って2回目の委員会があった。俊介のクラスは学期ごとに変わることになっていたが、人数的にやはり何人かは2度目の委員をしなければならなかった。もし立候補してくれるなら、くじ引きじゃなくてそちらを優先する、という担任の言葉に、俊介は体育委員に手を上げた。結局立候補したのは俊介だけで、クラスメートにはからかい半分で讃えられたが、なぜ体育委員をしてもいいと考えたかについて、俊介は誤魔化した。まさか、同じ委員会になりたい子がいるから、とは間違っても口にはできない。
1度目の委員会で雄馬は俊介の姿を見付けるとやっぱ俺と一緒に委員会したかったんだよな、とにやりと笑った。
その時、井上は既に割り当てられた席に座っていた。いつも一緒に来てたのにな、と不思議に思っていたが、後で雄馬の彼女が嫌がるから別々に来たのだと聞いた。昨日も、確か委員会に向かう時は別々に来ていたが、帰りまでは見られることもないだろうと3人で玄関へと向かった。
「そうだよ、俊介もいたって言ってるのに、聞かねえもん。たぶん俺が委員会に行くこと自体が嫌なんだよ。ほら、最近、部活の前にいつも会ってただろ?昨日は時間ないって言ったら、委員会さぼれって言われるし。まあさぼっても良かったんだけどさ、なんかもう最近会うのも嫌んなってきたってゆうか・・・。」
「・・・・。」
肯定も否定もできなかった。雄馬は彼女だけでなく彼女の友人にも監視されているような状況だった。たぶん、昨日も運悪く友人の一人に目撃されてしまったのだろう。そんな状況が続けば、確かに窮屈で嫌にもなる。
「まあ、俊介にも迷惑かけたけどさ、とりあえず解決ってことで。」
話は終わったとばかりに歩き出そうとした雄馬の腕を俊介は掴んだ。
「待てよ。」
「なに?」
「井上さん、大丈夫なのかよ。」
「へ?」
気になって思わず口にしたものの、ポカンとしている雄馬の顔に、余計なことを言ってしまったかと急に恥ずかしくなった。
「いや、一緒に帰ったことで怒ってたんだろ?だったら、別れたのがあの子のせい、とか、ほら、いろいろ勘違いするんじゃないかって思って。巻き込んだらまずいだろ。」
俊介は視線を逸らせてそれだけを一気に言った。
「あ、それならへーき。」
「は?へーきって?」
脳天気な答えに俊介は雄馬を睨んだ。
「それがさ、昨日さくらちゃんに呼び出しくらった後、クラスの女子に別れたんなら付き合って、って言われてな。よく分かんねーんだけど、どうもさくらちゃんとそいつが俺のこと取り合ってたみたい。」
「何だよそれ。」
俺ってばもてるよなー、と雄馬は前髪をかき上げてポーズをとった。
「さくらちゃんもそいつのことだけは異様に気にしてたからな。ま、クラスの女子で話したことのある奴は殆ど一回は疑惑かけられてるから、別に井上だけにどうこうってのはない。あるとしたら、そいつとだろ。」
「そうか。」
俊介は力が抜けて、向きを変えた雄馬に倣って歩き始めた。
しばらく歩いたところで、俊介は雄馬の言葉の重要な箇所をスルーしていたことに気付いた。
「そういやお前、そのクラスの女子と付き合うの?」
「いや。そいつのこと別に興味ないし。」
そう言った雄馬からは、俺ってもてるよな、と言っていた時の表情の緩みは消え去っていた。
「もうしばらく彼女とかいいわ。」
「そうなのか?」
「ああ。今はサッカーに燃えてるし。」
「・・・だよな。」
俊介は笠原の言葉を思い出していた。前部長の言葉を鵜呑みにしている訳ではないが、雄馬が以前付き合い始めたときのように、浮かれてサッカーに集中できなくなったりしたら、チームとしては痛手だ。いつもふらふらしている雄馬の滅多にないやる気ができるだけ持続してくれたら、総体も結構いいとこまでいけるかもしれない。
「やっぱ俊介、井上のこと好きなんだな。」
「は?な、なんで?」
サッカーのことを考えていた俊介は突然の雄馬の声にばっと顔を上げた。
彼女についての心配を口にしたときは、雄馬に突っ込まれるかもしれないという覚悟をしていたのに、話がそれていたことで油断してしまった。自分でも嫌になるほど動揺が丸見えだ。 雄馬はニヤリとして言った。
「いいって、ごまかさなくたって、俺、だいぶ前から分かってたしー。」
「・・・・・・。」
俊介は反論しようとして諦めた。もう何を言っても無駄、言えば言うほど墓穴を掘ってしまうことが動揺の収まらない中でも分かった。
「協力するぜ。」
俊介はいらない、と首を振った。
「何もするな。てか誰にも言うなよ。」
しばらく黙っていた雄馬だったが、分かった、と返事をした。
「井上ってほんといい子だもんな。・・・俊介が好きになるのも分かるよ。」
雄馬はそれだけ言うと、赤くなったままの俊介の方をちらりと見やった。俊介はそれを気配で感じたが、顔を向けることも、頷くこともできなかった。雄馬はそんな俊介の気持ちを汲んでくれたのか、その場の空気を変えるように、今日の練習メニューについて話し始めた。
珍しく落ち着いた気遣いを見せる悪友の隣で、俊介は初めて人に告げた自分の気持ちを噛みしめた。

しかし俊介は雄馬の気合いに反して、サッカーだけに集中すればいいという訳ではなかった。父との約束、俊介にとっては一方的な命令でしかなかったが、それでも全く無視するわけにはいかなかった。
「なあ、母さん。やっぱ成績あげないとサッカーやめさせられるかな。」
サッカー部では2年生を主体として自主練習が続けられていた。帰りは相変わらずに遅く、夕食を始めたのは8時を過ぎていた。
父はまだ帰宅していない。弁護士をしている父親は仕事が忙しく、たいがい、夜が遅い。特に3年前に個人事務所を開いてからは、休みもろくに家にいなかった。
母は俊介の帰宅が遅くなってからも、夕食を食べずに彼の帰りを待っていてくれた。先に食べておいて、と言っても、せっかく作ったのに一人で食べるのはつまらない、と取り合わなかった。
向かい合って食事をしていた母は、俊介の方を見た。
「そうねえ。まあお父さんの怒りようからして、そうなるわよね。」
俊介が黙っていると、母は、口元を緩めた。
「いいじゃない、まだチャンス与えてくれたんだから。今すぐ辞めろ、じゃなくて、成績が戻らなかったらやめろってことなんだからさ。」
「そんなん無理だって。」
「あら、あんた何もしないつもり?」
俊介は口ごもった。自分でもこのままではまずい、というのは十分分かっている。だが、サッカーの自主練は続けたい。今は練習すればするほど、自分の動きも、周りとの連携もよくなっているのが分かるから、どうしてもそれを断ち切りたくなかった。雄馬も先月、塾を辞めた。別れた彼女と同じ塾に通うのが嫌だったという理由もあるらしいが、自主練を優先したせいでもある。
「勉強しなきゃいけないのは分かってるよ。でもサッカーの練習も今は減らしたくない。それに宿題とか最低限のことはしてるし。」
強く主張したところで、どこか言い訳めいていることは自分でも分かっていたから、決まりが悪かった。母にはつい言ってしまったが、父に対しては言い出すことさえ憚られる。
「最低限ねえ。俊介さあ、宿題のプリントとか答え全部合ってる?」
「いや、そんな訳ないだろ。」
「じゃあ、間違えたのはどうしてる?」
「どうしてるって、学校で答え合わせして、間違いのところにはちゃんと正解を書くけど。」
問いかけの意味が分からなくて、俊介は眉を潜めた。
「そんなの分かってるわよ。そうじゃなくて、間違えた問題とか、分からなかった問題、もう一度やり直してる?」
俊介は目を見開いた。
「最近やってないわよね。」
「・・・うん。」
中学に上がってからずるずると俊介の成績は下がった。今回のような急落ではなく、毎回毎回少しずつ順位を落としていたのだが、2年になる頃、母に効率よく勉強しなさい、と言い渡されたのだが、俊介には具体的にどうしていいのか分からなかった。そんな俊介に、母は、とにかく間違えた問題を放っておかない、きちんと理解できるまでやり直しなさい、とアドバイスしてくれた。それから、俊介は言われたとおりに、テストから宿題のプリントに至るまで、間違ったり、分からなかったりした問題は理解できるまで、もしくは暗記するまでやり直すことにした。勉強量がそれほど増えたわけではなかったが、それをきちんと続けている内に、半年ほどで入学時の順位に戻った。そして2学期の終わりには更に順位も上げていたのが、ここに来て落ち込んでしまった。勉強時間も減り、その内容も疎かになれば、それは仕方のないことだったのだろう。
俊介は言葉に詰まった。
「お父さんの言うことに反発はあるかもしれないけど、ある意味現実よ。後になってあの時ああしていれば、って悔やんでもその頃にはもうどうしようもなくなっているかもしれない。そんなのいやでしょ?」
母の真っ直ぐな視線に、俊介はこくんと頷いた。よく分からないが、何か不安になってきたのだ。
「じゃあ、とりあえず間違った問題の復習を必ずすること。あと、DSとプレステはしばらく没収。」
「え・・・。」
思わず俊介は母親の顔を見た。母は片方の口端を上げている。俊介はすぐに視線を食器の上に落とした。
「サッカーの次は勉強。ゲームの入る隙はないわよ。」
母は項垂れた俊介を満足そうに見やると、既に食べ終わっていたのか、食器をカウンターへと下げ始めた。
反論の余地など全くなかった。サッカーに費やす時間は確実に勉強時間を食い潰していたが、ゲームに費やす時間がそれほど変わっていなかったことを、母はお見通しだったらしい。俊介は残り少なくなったご飯をかき込んだ。


<2011.9.26>