大丈夫だよと言おう


6.意地っ張りと言われようと

「井上と仲いいじゃん。」
雄馬の突然の言葉に、俊介はどきりとしながらもスパイクの紐を結ぶ手を止めなかった。
「なにが?」
「なにがって、井上ちゃんだよ。さっき喋ってただろ。」
俊介より後から部室にやって来た雄馬も着替え終わったらしく、俊介の前にある椅子に座った。ドカッと音がして、自分の靴先に雄馬の青いスパイクが落とされた。床に積もった土埃が微かに舞う。
「ああ、部室来るのがたまたま一緒になっただけだよ。」
「ふーん。たまたま、ね。」
意味深な言い方に俊介が顔を上げると、想像通り、薄ら笑いを浮かべた雄馬が俊介を見ていた。顔色が変わっていない自信はあったが、雄馬には全てを見透かされているような気がして落ち着けない。下手に言い訳じみたことを話すと揚げ足をとられることは、経験則より自明のことだったので、俊介は口を閉ざしていた。
幸い、部室には工藤しかいない。そういうことにすぐ飛びついてくる部員がいなくてよかった、と俊介は安堵しながら、立ち上がった。
「工藤、行こうぜ。」
「え、おれを置いてくの?」
「おっせえんだよ。」
既に準備のできていた工藤と連れ立って、待ってくれよ、という雄馬の声を背中に受けつつ、俊介は部室を出た。外に出ると、汗ばんだ額をするりと風が撫でていく。
「あー涼しい。」
「ほんと、部室も風が通ったらいいのにな。」
衣替えをしてから2週間ほどが経った。昼間はまだまだ学生服を脱がずにはいられない暑さだったが、夕方になると、吹き抜ける風はもう夏のものではなくなっていた。
平屋コンクリート造りで窓が一つしかない部室は、ドアを閉めていると風の通りが悪く、昼過ぎはしばらく室温が下がらない。着替え中はドアを開けておく訳にはいかず、部員達は汗だくになりながら着替えなくてはならなかったが、外に出ると、その汗がすっと引いていった。
二人はグラウンドの方に歩いていった。途中で女子の部室棟の前を通る。テニス部のプレートがぶら下がったドアを俊介はちらりと横目で見たが、そのドアは開くことがなかった。
「もう、ゴール出てるな。なんだ大橋達もいるわ。」
工藤が2年生の部員の名前を言った。俊介も彼と同じ方を見て、ほんとだな、と相槌を打った。
まだ、どの部も練習は始まっていなかったが、何人かがそれぞれ準備をしているのが見えた。俊介達が女子の部室棟を完全に過ぎ去った頃、後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえた。雄馬だと分かっていたので、俊介は振り返らなかった。
その時、ガチャン、と部室棟のドアの開く音がした。
数人の女子の声がする。
「あ、矢野。」
「おー。」
俊介は振り返った。さっきは微動だにしなかったテニス部のドアが開いて、数人の女子がラケットバッグを持って外へ出てきていた。そこに雄馬も立っている。
雄馬に声をかけたのは、俊介もよく知っているの佐野奈津美だった。隣には井上もいて、雄馬を見上げていた。
俊介はすぐに正面に向き直ると、少し遅れた工藤との距離を詰めたが、背中の会話に意識が集中していた。
「コート遠くて大変だな。」
「そうなのよね。この重いの持っていかないといけないんだもん。やんなるよ。」
佐野と井上はボールの入った袋の持ち手をそれぞれで持っているようだった。
「近藤にやらせれば?」
「男子はネットがあるの。」
雄馬と佐野の声、あと女子の笑い声が聞こえた。じゃあな、と話を終えた雄馬に、幾つかの声が返された。その内の一つが彼女の物だったような気がしたが、俊介には確かめる術もなく、そのまま歩調を緩めずに進んだ。雄馬の足音が背中に迫ってきたが、俊介はずっと遠ざかっていく声ばかりに意識が向けられていた。
「テニスの女子のみなさんがいたよ。」
雄馬は俊介と工藤の真ん中に入り込んできた。
「井上もいたよ。」
「そりゃいるだろ。」
俊介の方を意味ありげに見る雄馬に、いらっとするが、それを出すのはなんとか抑える。工藤は無言だった。本当は振り返りたかったが、雄馬の手前、それもできず、余計に苛立ちが募る。後から出てきた雄馬を待っていれば彼女の顔を近くで見られたのにな、と思ったが、それも後の祭りだった。
俊介が思ったような反応を示さないことに飽きたのか、雄馬はスパイクの話を始めた。そろそろ新しいのがほしいよな、と言う雄馬と、それに応答している工藤の話を俊介は聞き流した。
頭の中では、放課後、校舎から部室に向かう途中、すぐ前に見かけた彼女の背中を追いかけたことを思い出していた。さっき、雄馬に、仲良くなった、と言われたが、通りすがりの生徒、という立場から顔見知り、というレベルに格上げした程度だった。すれ違いざまには挨拶もするし、時間があれば少し話をしたりもする。
でも二人の間には体育委員という共通点以外、何の接点もなく、話をすると言っても、他愛もない事ばかりだった。幸い、俊介の努力と彼女の気さくな対応により、さして長くもない時間に気まずい沈黙が流れることはなかった。
雄馬にアイスクリームを奢ってもらった日、俊介は、自分が彼女に対して並々ならない気持ちを持ってしまっていることに気付いてしまった。
彼女が雄馬にアイスを分けようとしているのは嫌だったのに、自分に対して分けてくれると言われた時、確実に喜んでしまったこと、雄馬の一言で、彼女の申出があっさり引き戻された時、正直がっくりしてしまったこと。間接キスについても雄馬が口にするまで全く意識していなかったが、その可能性を知ってしまうと、更に残念で仕方なかったこと。
たぶん、雄馬が自分に白状させようとしているとおりの状況になっている。
何度も自問した。
これがそうなんだろうか。
気持ちを整理しようと、彼女と対面した数少ない機会を振り返る。何度も振り返っている内に、俊介の中の感情は道づけられていった。
やばいなあ、と思う。
彼女を目で追いかけてしまう。
彼女のいそうな所へ足が向いてしまう。
俊介は彼女の存在を全身で探すようになっていた。
彼女と擦れ違いざまに軽く挨拶を交わせたら一日が明るかった。それ以上の会話を交わせたなら、浮かれまくっていた。
逆に、一度も会えなかった放課後はもしかして学校を休んでいたのだろうか、と気になって仕方なかった。 しかし、どんなに気になっても彼女と同じクラスの雄馬に聞くことはできなかった。
だって彼女の動向を尋ねる理由がない。
俊介は彼女への気持ちを自覚したものの、他人に漏らすつもりはなかった。
まだ掴んだばかりの感情をどう伝えていいかも分からなかったし、その覚悟もなかった。
すぐに顔に出てしまうのは自分でも分かっていたから、うまく隠し通せているか自信はなかったが、あえてばらすつもりもなかった。
彼女と同じクラスの雄馬に打ち明ければ、少なくとも、学校に来ているのかどうかは確実に教えてもらえそうだが、たぶん、彼はそれ以上のこともしてくれそうだ。あのお調子者が俊介の気持ちを知れば、どういう行動に出るかは、火を見るより明らかだ。
それはまずい。
実のところ、俊介は彼女への気持ちを抱えているという事実に精一杯で、その先に目を向ける余裕がなかった。

秋の県大会で、俊介の学校は惜しくも準優勝で終わり、年明けと同時に3年生は引退した。部長の笠原はサッカーで有名な県外の私立高校への推薦入学が決まり、2人ほど県内の川西商業高校にサッカー推薦が通ったと聞いていたがそれ以外の先輩はこれからの受験に向けて勉強しているはずだ。
俊介の学年は、キーパーの工藤が部長になった。真面目で落ち着いている彼が部長になることは、先輩も顧問もそして同級生達からも文句はなかった。
意外だったのは副部長だった。前部長の笠原が指名したのは雄馬だった。指名された本人はもちろん、他の部員の誰もが、それでいいのか、と思った。
「工藤がしっかりしてるから、サポートは雄馬でもいけるだろ?それより、2年で一番自覚が足りないのは雄馬だ。お前が自覚を持つために副部長に指名したんだよ。分かったな。」
笠原の言葉に、雄馬以外の部員はなるほどと頷いた。
そして、3学期に入るとすぐ、俊介達の学年は自分達の学年をメインとした初めての大会に挑むことになった。一つ上の学年がたまたま桁外れに強かっただけで、俊介の学校は元々サッカーに特別力を入れている訳でもない、ただの公立中学校だった。
笠原達がいなくなると当然それまでのように勝ち続けることは難しくなった。それでも、俊介達当人はもっと一方的にやられてばかりになるかと不安だったが、予想していたよりも自分達だけの力が通用することにほっとした。
中でも副部長に選出された雄馬は、ずっと上り調子だった。
「いい感じだったな。」
試合後の挨拶を終え、グラウンドから引き揚げていく部員達の中で、工藤がキーパーグローブを外しながら、雄馬に声をかけた。
「ああ。」
さして嬉しくもなさそうに返事をする雄馬を俊介は見遣った。俊介は雄馬の調子がよくなったのは、副部長に指名される前からだと思っていた。県大会の大事なところで交代要員として出場し、3年に混じっていた時の動きを見ていてもバランス良く動けているのが分かった。笠原は、ああいう言い方をしていたが、それは全てが本心でもなく、雄馬の動きに期待して、彼を副部長に指名したのだろう。
「見に来てくれてたんすか。」
工藤の声の方を見ると、俊介達の学校が荷物を置いた箇所に私服姿の3年生が立っていた。
「ああ、ちょっと遅れたけどな。」
前部長の笠原はぞろぞろと集まった部員に向かって笑った。
「ベスト4じゃないか、やったな。」
工藤の背中をドンと叩いた。
「部長、痛いんすけど。」
「部長はお前だろ。」
そうでしたね、と口ごもる工藤に笠原達は今さっきの試合について話を始めた。神妙な表情で頷いている工藤を見つつ、俊介はストッキングを降ろして、レガース(すねあて)を取りだした。
「林さん来てないのってやっぱ受験かな。」
隣で同じようにレガースを手にした雄馬が俊介に耳打ちした。
「そうだろ、確か林さんって祥館高校受験するってたから、もうそろそろ受験なんじゃね?」
今日来ている先輩はみな進学先の決まった人ばかりだ。
「林さん、なんで川商の推薦けったんだろな。祥館ってサッカーそんな強くないのに。」
「まあ、いろいろあるんだろ。」
少し前までは、俊介も雄馬と同じような考えだったが、先日、父親と成績のことでやり合って以来、そのことについては鬱々とした思いを抱えていた。
最近あった学力テストで、俊介は今までにないくらいに成績を落とした。理由は分かっている。全く勉強していないからだ。3学期になってから、俊介は雄馬や工藤と練習後、自主的に残ってシュート練習などをしていた。顧問に頼み、1つだけグラウンドの照明を切らずにおいてもらっていた。最初は3人で始めた自主練だったが、その内一人、二人と参加する者が増えてきた。
照明を延長してもらえるぎりぎりの時間まで自主練をし、帰宅すると9時近くになってしまう。風呂に入って、夕食をかきこむと、宿題を片付けるのがようようという所だった。
そんなのでは、成績も下がるだろうというのは、俊介自身も予想できていた。しかし、こんなにてきめんに、しかも暴落するとは思ってもいなかった。
「なんだ、これは。」
部屋にいた俊介を呼びだした父親に、成績表を突きつけられても、俊介は黙って立っているばかりだった。中学に入ってから、父親と話をすると言えば、叱責を受けるときぐらいだった。
「こんな成績で、高校行ける訳がないだろう。サッカーの練習が遅いと聞いたが、こんなんなら、部活やめさすぞ。」
「別にそこまで悪くないだろ?川商なら余裕だよ。それにサッカー頑張れば推薦もらえるかもしれないし。」
部活をやめさされると聞いて慌てた俊介が反論したが、それは父親の怒りを更に増幅させただけだった。
「なに甘いこと言ってんだ。サッカー推薦で川商なんか行ってどうする。どこに就職するって言うんだ。だいたいな、笠原んとこの息子ぐらい才能があるんならまだしも、お前レベルでサッカーがものになるわけないだろ!せいぜい趣味だ。趣味で食ってけるか?」
俊介は返す言葉もなく、リビングのフローリングを見下ろしているだけだった。
「川商なんてだめだ。お前は北高か南高だ。いいな。あと成績が元に戻らないようなら、部活はやめさせる。」
「部活は絶対にやめないからな!」
父親の顔を睨み付けてから、捨てぜりふのようにそれだけを言うと、階段を駆け上がった。部屋のドアを八つ当たりで思い切り閉めると、すごい音がした。
「なんだよ。」
俊介は一方的に決めつけられたことが腹立たしくて仕方なかったが、何も反論できない自分の不甲斐なさがまた余計にその苛立ちを増幅させた。
「俺も川商に推薦してもらえないかな。」
脳天気な雄馬の声に俊介ははっと我に返った。
「市の大会で決勝に出れたらいけるんじゃねーか?」
「そっか、じゃ明日頑張らないとな。」
何の根拠もない俊介の応答に、雄馬は納得した様子で、明日は俺の未来がかかってる、なんて芝居がかった台詞を口にしていた。明日一つ勝てば、決勝戦だ。スポーツ推薦がどんな基準で選考されているのか、俊介は全く知らず、確たる根拠もなく雄馬を煽ってしまったか、と一瞬後ろめたく感じたが、成績を残している方が有利なのは間違いじゃないしな、とすぐに途中になっていた荷物の片付けを続けた。
真面目な話が終わったのか、笠原達が俊介達の方に寄ってきた。
「明日も今日みたいな感じでいけよ。」
笑いながら笠原が座っている二人の頭を軽く叩いた。
「矢野、絶好調だったよな。お前、もしかして彼女の応援とかあったんじゃね?さっき、うちらの制服の女子来てたぞ。」
別の先輩がニヤニヤしながら、雄馬をからかった。
「来てませんよ。」
「え、そうなの?てっきりお前の彼女かと。」
雄馬は不機嫌そうだった。常ににやけている彼が、無表情なのは珍しく、先輩達も戸惑っているようだった。
俊介はそんな雄馬を横目に、うちの女子と聞いて一瞬浮かんだ面影を慌てて打ち消した。彼女がこんな所に来るわけがないのだ。
クールダウンのストレッチを始めるからと集合がかかって、部員が動き出したとき、笠原が俊介の腕を掴んだ。
「雄馬って彼女とうまくいってないの?」
小声で尋ねられて、俊介は答えるべきか誤魔化すべきか、一瞬迷った末に頷いた。
「あんまりよくないみたいです。」
「ふーん、あいつってやっぱ、浮かれてない方が調子いいんだな。」
何とも答えられずに黙ったままの俊介に、笠原は変わった奴だよな、と呟いた。もう部員は空きスペースに2列に並んで、俊介を待っているようだった。工藤がこちらをチラリと見てから、掛け声を上げた。先輩に捕まった俊介を待つのはよしたらしい。
「俊介は?お前も調子いいけど、なんかいいことでもあったか?」
「や、ないっす。俺のは、自主練してたからだと思います。たぶん。」
「自主練?そんなのしてたのか。」
「工藤と雄馬で。あ、他の部員もたまに。」
そうか、と笠原はまた何事か考え始めたようだった。俊介はストレッチを始めた部員と前部長を交互に見やりながら、居心地の悪さを感じた。
「雄馬は、昔っから波が激しかったよな。けど俊介は割と安定してると思う。あいつの波に引きずり込まれないように、しっかり自分を持っててくれ、な。」
「はい。」
言われたことを瞬時に理解することは難しくて、俊介は気の抜けた返事しかできなかった。
「わりいな、ストレッチの邪魔して。俺ももそんなに来れないしな。」
少し見上げると笠原と視線があった。
「あ、もうあっち行くんですか。」
「うん、まあ準備とかいろいろ。卒業式までは地元にいるけど。じゃ、ストレッチ行けよ。」
俊介は笠原に背中を押し出される格好になって、生返事をすると、他の部員達の方に駆けだした。端に並んで、部員達と同じ動きをする。毎日のように繰り返すストレッチ運動は、もう何も考えなくても自然に体が動いた。俊介は、笠原が言うように、本当に自分は安定しているのか、についてぼんやり考えていた。


<2011.9.3>