5.聖人君子ではないです
体育祭当日、さすがに部活の練習は休みだったが、翌日の代休には練習がきっちりあった。そろそろ秋季大会が近いから、そう休んでばかりもいられない。当然と言えば当然だった。
俊介の中学は今年の大会の優勝候補である。今の3年生は強い。少年クラブの時から神童扱いされていた部長笠原はもちろん、林も県リーグの選抜チームに選ばれている。顧問の期待も当然大きかった。
夏前にあった総体では惜しくも決勝戦で惜敗してしまったが、次こそは、という意気込みも大きかった。
3年生が強くて多い分、2年生はレギュラーに選ばれる余地がほとんどなく、例え選ばれてもベンチは確実だったが、それでも皆、練習を休むことはない。
上手な選手達と練習とはいえゲームできることは、俊介にとって、とても刺激になった。たぶん他の部員も同じように感じているのだろう。それに、3年生は圧倒的に強い割には奢ったところが全くなかった。去年の3年生は、ただ年が上というだけで、サッカーの実力は大したこともない癖に、後輩の笠原達に非合理としか思えない言い掛かりを付けていた。それを一緒に浴びていた去年から比べると、今年は本当に天国のようだった。サッカーだけに集中できる環境がこれほど素晴らしいと分かったのは、変な意味で、去年卒業した3年生のお陰だと言えるだろう。
「矢野!お前どこに目付けてるんだよ!前だよ!」
キーパーの林の罵声に近い指示が飛んだ。そうと分かるくらいに雄馬の動きは悪かった。ハーフが終了すると、雄馬はメンバーから外され、ランニングするように指示されていた。
「雄馬はあれだけど、俊介は調子いいな。」
「そうっすか。」
水分を取ろうとグランド脇のベンチに移動している途中、笠原に声をかけられた。俊介はさっきのゲーム中、敵のバックだった雄馬があまりにも注意散漫だったせいもあるが、シュートとアシストで我ながらよく動けたと思う。
「リレーも絶好調だったしな。」
ぱしっと背中をはたかれて、俊介は顔をしかめた。
「えー言わないでくださいよ。ほんとは1位でバトン渡すつもりだったのに。」
「無理だって。お前と走ったヤツって1年のクセして、市の総体で入賞したって話題になってたやつだぞ。」
中距離だけどな、と付け足した笠原に、俊介は苦笑した。
「そんじゃまあ仕方ないですよね。」
ちょうど前方を雄馬が走っているのが見えた。笠原も同じ物を見ていたらしく、声を潜めて問いかけてきた。
「あいつ、何かやる気なさげなんだけど、まさか彼女に振られでもした?」
「いやー、そりゃないと思いますけど。昨日は仲良く一緒に帰ったみたいだし。」
しかも他人に面倒を押しつけて、である。
「じゃあ、逆に浮かれるようなことでもあったか?たいがいはさ、嫌なことがあるとがたつくもんだけど、あいつの場合、いいことがあっても足が地につかなくなって自滅しそうだもんな。」
「ああ、絶対そっちですよ。」
部活前、俊介が文句を付ける前に、雄馬の方が寄ってきて、調子よく平謝りしてきた。体育祭の後片づけを井上一人に押しつけてしまったものの、気懸かりになった彼は、彼女に電話をし、そこで俊介が雄馬の代わりを務めたことを聞いたようだ。
「俊介は?どっち?」
「え?どっちって?」
笠原に問われて、俊介は我に返った。
「だから、今日調子いいのって、なんかいいことあった?」
いいこと、と呟いて、俊介はふっと雄馬から伝聞された彼女の言葉を思い出した。
「ないですって。」
振り払うように顔を振った。
「へえ?そう?」
にやにやしている笠原に見透かされているようで、俊介は顔に血が上るのを感じた。
「その割には顔赤くなってっけど。」
「いやほんと、なんもないですって。」
笠原の笑い声を無視するようにして、俊介はベンチの脇に並べられたスクイズボトルの一つを取った。某飲料水のロゴが大きく書かれたそのボトルは何かの大会の参加賞でもらった物だが、たいがいの部員が使用しているから、外側に大きく名前を書いて見分けが付くようにしてあった。
笠原は他の3年生に話しかけられて、俊介から離れていった。彼の追求から逃れられたことに俊介はほっとした。
『優しいよね、ってべた褒めだったぞ。』
雄馬の言葉が蘇る。自然と顔が緩んで、俊介は慌てて顔を引き締めた。幸い、周りの者は誰もこちらのことは気にしていない。
そんなつもりで行動したんじゃないんだけどな。
心中で独りごちながらも、我ながら、言い訳がましく感じてしまう。顔見知りが困っていたら、別に井上じゃなくても自分は助けた、と思う。ただ、彼女でなければ、数回しか言葉を交わしていないような相手に対して、しかも、向こうから頼まれたわけでもないのに、自分から進んで手伝おう、と提案しただろうか。
なんだか全然らしくない、と思う。あの時はそうしなくてはという使命感に燃えていたが、元々自分はそんな熱いタイプじゃない。どちらかというと周囲の雰囲気に流されるタイプだ。
頼まれるとイヤと言えない性格だが、こちらから親切を見せるほどの積極性もない。
なんであんなお節介焼いたんだろう?
「行くぞ。」
工藤に声をかけられて、俊介は慌ててボトルを置くと、その背中を追いかけた。ぼんやりしている内に休憩時間が終わったらしい。
雄馬はまだ外周を走っている。さっきよりもスピードダウンしているのは明らかだった。
俊介は井上の表情を思い出した。雄馬が帰ってしまったことを、何でもないことのように話していた彼女。
そう、たぶん、彼女があまりにも生真面目で、不平も漏らさずに押しつけられた面倒を一人でどうにかしようとしていたから、放っておけなかっただけだ。
ただ、それだけ。
自分のいつもとは違った行動をそう理由づけると、運動のせいではない動悸を無視するようにして俊介は決められたポジションへと走って行った。
「いやーその節はほんとお世話になりまして。」
どうぞ、どうぞ、と雄馬が両手で恭しく差し出したカップアイスを順番に受け取って、俊介は何となく井上と目を合わせて、苦笑した。
「ほんとお前調子いいな。」
俊介は思わず悪態を吐きながら、開いた蓋を雄馬に渡した。
「これ、高いよね?」
俊介が一口食べたところで、彼女の申し訳なさそうな声がした。
「何言ってんの。遠慮しないで、ほら食べてよ。」
雄馬は彼女のアイスの蓋を開けたが、それでも彼女は戸惑っていた。
「ほんとにいいの?」
「いいって。俺もう食ってるし。」
俊介は彼女に見せつけるようにして、紙のスプーンですくったアイスを口に入れた。
「じゃあ、あのごめんね。いただきます。」
最後に雄馬に対して謝った彼女に、俊介は何故かいらっとした。
「気にしないで、食べちゃって。もう井上のお陰で俺達ラブラブだかんね。」
「そうなんだ。よかったね、さくらちゃん機嫌なおって。」
「ああ、ほんとよかったよ。あれは危機だったよな。」
二人のやりとりに、俊介は眉を潜めた。
「ちょっと待って、もしかして、雄馬が彼女と帰るためにさぼったって知ってた?」
「うん。」
何の含みもなく肯定した彼女に、俊介はまた苛立ちを感じてしまう。たかが、付き合っている相手と一緒に帰るためだけに、委員会の仕事を押しつけられて、彼女はなぜ拒否しなかったんだろう。文句一つ言わず、一人でどうにかしようとしていた彼女の姿を思い出すと、俊介は胃をぎゅっと捕まれたような気持ちになった。
二人は、雄馬の彼女の『さくらちゃん』の話を続けていた。『さくらちゃん』は井上と同じ小学校で、二人は仲が良かったらしい。俊介は一人黙々とアイスを食べつつ、雄馬のためというよりは、雄馬の彼女のために仕事を引き受けたのかもしれないなあ、と考えた。
雄馬は自分の分のアイスは買ってきていなかった。
「おいしい?」
「うん、おいしいよ。あ、食べる?」
明らかに物欲しそうにしている雄馬に井上がスプーンを差し出した。
「こいつにやる必要ないって。」
伸ばそうとした雄馬の手を、俊介は即座に払った。
「って!なんだよ。」
「何もらおうとしてんだよ。」
「してないよ、男が女の子のアイス奪ったりしません。」
雄馬はホールドアップのまねをして、彼女に気にせずに続きを食べるように促した。
「そのかわり」
雄馬の手は俊介のアイスを易々と奪った。彼女が再びアイスを食べ始める様子を見ていた俊介は、完全に反応が遅れてしまった。軽くなった手に、はっとした時には、雄馬がカップの中味をまるでジュースを飲むかのように口の中へと移したところだった。
「おっまえなー!」
雄馬の手からカップを取り戻したときには、既に中味は空っぽで、その中味を口に含んだ雄馬は余りの冷たさに、言葉もなく目を白黒させていた。
「うえー頭きんきんするー。」
しばらくしてどうにかアイスの塊を飲み込んだ雄馬の腹に俊介は無言で拳を入れた。もちろん手加減はしていたが、予想通り、雄馬はいってえ、と大袈裟に騒いだ。
「お礼に渡したもん食うかあ?」
「だって、俊介いらないから残してるのかなって思ってさ。」
「んなわけないだろ。」
雄馬の見え透いた言い訳に、俊介は苦く溜息をこぼしたが、悪気なく笑う雄馬にそれ以上文句を言う気にもなれず、用なしになったスプーンとカップを押しつけた。
「中村君、これ、よかったら。」
彼女がすっと俊介の前にカップを差し出した。
「え、あ、いやいや、いいよ。食べてよ。」
「でも、私もこんなに食べると、部活で動けないかもしれないし。」
「いやー、でもな。」
雄馬がお礼に買ってきたアイスは、値段の割りにカップは小振りで量は普通のアイスより少ない。食べきれないという理由は、俊介の遠慮をなくそうとするものだろう。彼女のアイスをもらうなんて、遠慮するべきのような、でも彼女の心遣いを断ってしまうのも、申し訳ないような気がして、俊介は迷った。
「だめだよー井上、そんなんあげたら、俊介と間接チューになっちゃうよ。」
しかしその迷いは、雄馬の調子のいい一言で一気に霧散した。
「あ、あ、そうだよね、うわっ、ごめん私ったら考えなしに。ごめんね、中村君。」
一気に真っ赤になってしまった彼女は、手にしたアイスとスプーンを落としてしまいそうな勢いで、俊介に謝った。
「や、そんな謝られるようなことじゃないし。」
彼女の真っ赤に染まった首筋に、たぶん赤くなっているだろう自分の顔色を重ね合わせながら、俊介はできるだけ平静を装っていた。
「そうそう、俊介は間接チューも大喜びだけどさ、井上は気を付けなきゃね。ま、折角だからさ、落ち着いて食べちゃってよ。」
雄馬のそつのない態度に彼女は頷くと、俯いたままで忙しなくスプーンを動かした。
まだ、赤い顔の彼女から、隣の雄馬へと視線を動かす。彼は目が合うとにやっと笑った。その含みのある表情に、俊介はさっきまでとは別の意味で、また顔に熱が集まるのを意識した。
<2011.8.24>