大丈夫だよと言おう


2.良縁、因縁、無縁、腐れ縁

俊介は井上をよく見かけるようになった。それは偶然目にする確率が高くなったというよりも、それまでもたぶん同じような確率で遭遇していたにも関わらず、俊介が彼女のことを知らなかったせいで、気付いてなかっただけなのだろう。
彼女を見る度に思うことは、本当に小さいなあ、ということだった。
身長もさることながら、彼女は細かった。白い半袖のセーラー服から見える腕や、規則通りの長さのスカートからみえるふくらはぎは棒のようだった。だからだろうか。俊介の隣の席の福永と比べると、身長は同じくらいなのに、彼女よりも福永の方が大きく見えた。福永も決して太いわけではなかったが、彼女の隣に立つと、しっかりして見えるのだった。

もうあと1週間もすれば夏休みという時期に、俊介の通う中学校では合唱コンクールという行事がある。
期末テストの翌々日の午前中に体育館に集められて行われるそれは、クラス対抗で、学年ごとに優勝クラスを選出する。まるっきり体育会系の俊介にとって、この暑い最中に体育館の床に座り続けているというのはなかなかの苦行だった。1学年8クラス、計24クラスの合唱を聴き続けるこの行事を、俊介は本当つまらない、と思っていたが、一部の女子には人気の行事だった。学年が一同に会するということで、かっこいい先輩方を存分に見られるという理由らしい。
1年生の演目が終了し、俊介のクラス1組は、2年生の先頭を切っての出番だった。舞台の上でほぼ千人近い生徒を見下ろし、殆ど声も出さないまま歌い終えると、また観衆側に戻った。さっきまでと違って、舞台上に並んでいる顔に見知ったものが断然増える。聴いていれば、クラスの意気込みはそのまま声量になっているようだった。総じて男子の方が気合いの乗っていない様は歌い方で見て取れた。たぶん自分もあんな感じに見えたんだろうなあ、とふてくされたように突っ立っているサッカー部員を見ながら、俊介は口を緩めた。
あ、雄馬だ。
猫背の細長い体躯が舞台を横断していく。彼は当然のように最後列だった。ああいうところでも、にやけていられる無神経は大物なのか何なのか、と整列してからも時々体を揺らして妙に目に付く彼を呆れながら眺めていた。指定曲が始まり、意外にきちんと口を開けて歌っている雄馬に驚きながら、最前列の中央に井上の顔を見付けた。
そうだ、5組だった。
彼女はきちんと歌っていた。まだよく知らないはずなのに、らしいなあ、と感心してしまう。5組は気合いの入ったクラスのようで、全体的に声量も大きく、ハーモニーもきれいに重なり合っていた。
それにしても、と俊介は彼女の顔が小さいことに驚いた。同じくらいの背の女生徒と並んでいるはずなのに、明らかに彼女の顔だけ小さかった。
小さな顔に細い手足。
テニスをしているという割には日焼けしていない肌の色。
何か、押せば倒れそうな。
こういうの、何て言うんだっけ。
俊介は彼女の外観から受ける印象を表す言葉を思い出そうと頭を巡らせた。
華奢。
そうだ、華奢な感じ。
全くと言っていいほど本を読まない俊介が最近知った難しめの言葉は彼女にぴったりだった。俊介が思い付けたことに満足している内に、いつの間にか自由曲も歌い終わって、5組の生徒が舞台からさがろうとしていた。
姿勢はしゃんとしていた。一見弱々しそうに見えるが、仕草や動作を見ているとそうでもないように思えてくる。
背筋をピンと伸ばして舞台を横切っていく彼女を無意識に目で追いかけてしまう。
観客側の生徒はクラスごとに前に女子、後ろに男子とそれぞれ背の順で1列に並ばされていた。前の方で座ったのを最後に、俊介の場所から、彼女の姿を見ることはできなくなった。
彼女が視界から消えて初めて、俊介はずっと彼女ばかりを目で追いかけていたことに気付いた。かっと顔に熱が上る。その時、見慣れた細長い姿が前方から歩いて行くのが視界に入ってきた。目が合うと、更に顔をにやけさせた雄馬に、一瞬自分が顔を熱くしていることも、その理由も知られたような気がして焦ってしまったが、そんな訳ないじゃないかと冷静になる。熱が冷めた頃には、いつもふざけてばかりいる友人の姿は見えなくなっていた。

俊介の視線が自然に彼女を見つけ出すようになったのがいつからなのかは分からない。
辞書を貸した時からなのか、その後部室棟の近くで擦れ違った時なのか、それとも合唱コンクールで見詰めてしまった時からなのか。
後になってみるとよく分からないが、とにかく、俊介は生真面目で背の小さい井上唯菜という少女のことを、目で追いかけるようになっていた。
しかし、それでも俊介は特別なことだとは思っていなかった。話をする機会もほとんどないままだったが、すれ違いざまに目が合えば、なんとなく会釈し合うような関係は、知り合いと言えなくもないだろうから、そんな相手が目に止まるのは別におかしいことでも何でもない、と思っていた。

2学期になって俊介は体育委員になった。俊介のクラスは4月に委員長、副委員長を決めた投票の結果、票のあった者が優先的に様々な委員に割り当てられていた。委員長、副委員長は1年間変わることはないが、各種委員は、学期毎に変わってもよかったことから、1学期に委員に当たっていた女子の一人が、一度委員をした者は免除してもらわないと不公平だと言いだし、その意見が通ったため、立候補以外は、1学期に委員をした者を除いて、くじ引きで決めることになった。
委員に立候補するような生徒はいなかった。
くじ引きの結果、体育委員を引き当ててしまった俊介は、それでも生活委員や図書委員という、見るからに堅苦しそうな委員でなくてよかったと思ったが、それは大間違いだった。
「2学期の体育委員ってめんどいよな。」
「なんで?」
「体育祭があるだろ。」
1年生の時に体育委員だったという工藤の言葉に俊介はがっくりと力が抜けた。
「そういやそんなものがありましたねー。」
全く忘れていた俊介は、自分の不幸を呪った。去年の体育祭がどうだったのか、思い出そうとするが、小学校の運動会にはなかった応援合戦や部活対抗リレーの印象が強すぎて、体育委員が何をしていたのかなんて、全く覚えてもいなかった。
「大丈夫だよ。前日と当日が忙しいくらいで。集まりもほとんどないしさ。クラスで決めることがない分、文化祭のある文化委員に比べれば、ましだって。」
工藤のフォローにそうだよな、と頷きながら、俊介はスパイクの紐を結び始めた。
早くしないと外では3年生が待っている。着替えの済んだ部員が立ち上がり始めた時、ガッシャンと派手な音をさせて雄馬が部室へと飛び込んできた。
「お前、何やってんの?おっせーよ!」
みんなに小突かれながら、雄馬はしまりのない顔のまま、制服を脱ぎ始めた。俊介は紐を結び終えると、早くしろよ、と練習着を頭からかぶっている雄馬の背中を叩いて、外へ出ようとした。
「俊介。」
振り返ると襟首から顔を出した雄馬がにやっと笑った。
「俺、さくらちゃんと付き合いだしたぜ。」
「え?」
俊介の大声に、雄馬は更に得意そうな表情になって、また後で言うよ、と短パンを履き始めた。生返事をして、そのまま部室を出ると、そこには3年生部員がずらりと並んでいた。
「お疲れさまです。」
慌てて頭を下げると、部長の笠原が手をあげた。
「おう。俊介、最後?」
「あ、雄馬が。」
無意識の内に部室に視線を送って答えると、副部長の林が笑い始めた。
「ああ、あいつ、さっき女といちゃついてたから、後ろから蹴り入れてやった。」
「まじっすか。」
林の言葉に驚きながらも、さっき聞いたばかりの雄馬の言葉が蘇る。
「お前あれはやり過ぎ。女の子びびってたじゃん。」
「えーだってよ、矢野のくせに生意気。俺でも彼女いないのに。」
「しゃあないって。相手のあることだしな。」
「ふん、お前は余裕だもんな。」
「ま、いじけるなって。あ、雄馬だけなら、もう入ってもいいよな?」
笠原と林のやり取りに圧倒されていた俊介は、笠原がこっちを見たのに、慌てて返事をした。
林が部室を開けながら、恨めしそうな声でお前生意気、と雄馬に向かって言っているのを背に、俊介はグラウンドの方へ走り出した。
サッカー部の上下関係はそれほど厳しくない。時間を分けて学年毎に部室を使うのも、部員数に対して部室が狭すぎるからだ。本当に厳しい部は、後輩は部室を使えずにトイレで着替えているという話も聞いたことがある。
俊介は、練習の準備をしている部員の所へ向かいながら、雄馬のことを考えていた。
夏休みの終わり頃に、もう後一押しなんだよな、と一段と顔を緩ませていたが、まさか本当に付き合うことになるとは、俄には信じがたい。例えば笠原のように、本当にかっこいい、と尊敬せざるを得ないような人なら彼女がいても全く不思議でも何でもないが、あのお調子者の雄馬に彼女、と想像すると思わずクエスチョンマークが付いてしまう。
しかし、彼女と二人でいるところを目撃されているようだし、雄馬のホラではなさそうだった。
いつの間にそういうことになったのか、興味がないわけではないが、あのニヤけた顔でのろけられるのもうんざりだな、なんて拒否してしまうのはさすがに友達甲斐がないだろうか。 まあ、あいつのことだし、こっちがどんなに無視したところで、一から十までを報告してくるんだろうな、と俊介は苦笑した。

雄馬に彼女ができたという話はその日のサッカー部では大きな話題になった。3年生でもこれまで付き合った経験のあるのは部長の笠原と他数人で、現在進行形なのは笠原だけのようだった。その日の練習で、雄馬が3年生から集中的にしごかれたのは、言うまでもない。
「はあー、つかれた。」
雄馬が部室の床に座り込んだ。
「おい、ジャマだよ。」
「ほんとだよ、こんなとこ座んなって。」
「えー、みんなつめたい。」
口々に邪魔者扱いされた雄馬はそれでも、立ち上がろうとはしなかった。そんなにだるいのかよ、と聞こうと彼の顔を見て、俊介は彼を気遣うのを止めた。
「にやけてるからだよ。」
「だってさ、にやけるなっていう方がムリだって。」
ばしっと、彼の髪の毛を払う程度の軽さで頭を叩くと、雄馬はやっと立ち上がった。
「苦労した甲斐があったよなあ。」
「お前が苦労とかいっても似合わねえ。」
「ほんとだよ、このタラシやろう。」
「もっと先輩にきたえてもらった方がいいぞ。」
「初カノがさくらちゃんなんて羨ましすぎるわ。」
雄馬の感嘆に次々と皆の野次が入る。
「初カノじゃないよ。」
「は?」
「え?」
野次など物ともせず着替え始めた雄馬が言い放った言葉にそこにいた全員が振り向いた。
「なにお前、誰かとつきあったことあんのかよ?」
「あるよ。小6んとき、つき合ってって言われて。」
俊介、覚えてるだろ?と話を振られてから初めて、それまで周囲と一緒に驚いていた俊介は2年前のことを思い出した。サッカークラブの練習の帰り、雄馬と二人帰ろうとしたところに、見覚えのある女子が駆け寄ってきて、俊介の目の前で告白が始まったのだ。付き合ってほしいという言葉に考える時間もなくいいよ、と承諾した雄馬。そんなのでいいのかよ、と詰め寄った自分。告白を受けた張本人よりも、傍で見ていた自分の方が興奮していたというのを、苦く思い出す。
「そう言えばそんなこともあったな。」
俊介が答えると、同じ小学校出身の部員がもしかして、とその俊介の脳裏に浮かんだ女子の名前を口にした。すると周囲も、ああ、アイツね、とか、へえ、とかいう声があがった。 私立学校でも行かない限り、小学校から中学校は持ち上がりだから、当然その女子もここに通ってたんだということを今更ながら俊介は思い出していた。
「・・・て、そういや、お前一緒のクラスじゃんか。」
「そうだよ。」
「気まずくないの?」
「べっつに。付き合うったって電話したくらいだし。なんもさ。普通に喋るし、向こうはだいぶ前から3年の男と付き合ってるらしいし。」
俊介と雄馬のやり取りに、部員達からも街でその女子と3年生の二人が一緒に歩いていた、という目撃談まで飛び出してくる。その内、話は今同学年で付き合っているのは誰か、という話になって、俊介は今まで全く知りもしなかった組み合わせとその数の多さに、ただただ、驚かされるばかりだった。

「でもやっぱ前とは違うよな。」
「なにが?」
俊介は余り車の通らない裏道を、雄馬と自転車を併走させていた。それまで黙ってペダルを漕いでいた雄馬が突然独り言にしては大きな声を出したから、彼のいる右隣をちらりと見た。
「彼女ができたこと。この、ハッピー具合が全然違うな。前はさ、告られたからってのもあるんだろうけど、別に嬉しくはなかったもんなあ。」
「嬉しくなかったのか?」
「うーん、嬉しくない訳じゃないけど、違うんだよなあ。彼女できたのが自慢、てだけだったよな。今思えば。」
「そりゃ、ガキだったからだろ。」
向かいから来た歩行者を避けるために、自転車の間が狭まった。
「はっ、まあな。」
ずっとにやけっぱなしの雄馬の横顔から視線を正面へ戻すと、俊介は小6の冬のあの日のことを思い出していた。
女子に告白されて付き合うことになった雄馬と、今と同じように帰宅していた。二人の自転車は今と違って段切り替えのあるジュニア用のものだった。その頃から背の高かった雄馬は、縮こまるようにしてそれを漕いでいた。二人とも、幾分興奮していた。
「なあ、付き合うってさ、何するわけ?」
「デートとかするんじゃね?」
真面目な顔をした雄馬に聞かれて、知ったような顔をして答えながらも、俊介は内心、先程の出来事に心乱されていた。隣にいる雄馬が、自分とは違う大人の世界に入ってしまったかのように感じているのを、表に出さないように、あくまでも平静を装っていた。
しかしその後、その女子と雄馬がどうなったのか、俊介はまるで知らないままだった。今日、雄馬に聞くまで、あの出来事さえ、忘れていたぐらいだ。
「あの時さ、俺聞いたよな。付き合うって何すんのとかって。」
「そうだったな。」
雄馬もどうやら同じことを思い出していたらしい、と知って、俊介は頬を緩めた。
「やっぱガキだったよな。」
「今もだろ?」
しみじみとした雄馬の呟きに、俊介は水を差すような言葉で返した。
「そりゃないだろ。」
こっちを見た雄馬の表情がなんだか妙に充実したものに見えて、俊介は言い返そうとした言葉を飲み込んで、前を向いた。
じゃあ、付き合うって何するか分かってるのかよ?
雄馬に言おうとして止めた言葉。
たぶん、そう問えば、雄馬は小学生だった自分とは違って、淀みなく、今俊介の頭の中にある行為を次々と羅列するだろう。俊介だって、電話とデートだけしか思いつかない訳ではない。ただ、付き合うという言葉に伴う想像をしたところで、現実感もなければ、憧憬を抱くこともない。そんな自分と、彼女ができたと喜んでいる雄馬との間に何か大きな隔たりが生じたような気がした。
そして、その感情が2年前の夕方に自分を苛んだものと余り変わりない30とに、俊介はどうしても苛立ちを感じるのだった。

<2011.7.8>