大丈夫だよと言おう


1.それを出会いと言うのならば


テニス部で頭がよくて真面目な女の子。
それは俊介が初めて井上唯菜を意識した時に得た知識だった。二つの小学校が一緒になる中学で、彼女は俊介とは違う小学校から進学してきたようだった。1、2年は別のクラスだった。俊介は他のクラスの女子を全員チェックするようなマメさはなかったし、井上も目立つ生徒ではなかった。だから、俊介が彼女を意識するようになったのはほんの偶然だった。
中学2年生の6月、制服が夏服に変わったばかりだった。月初めの席替えで隣の席になったばかりの福永の所に、辞書を借りに来た女子生徒がいた。たまたま自分の席で友人が教師から隠れて必死にやっているゲームに茶々を入れていた俊介は、ふと背後で交わされる会話が耳に入った。
「めずらしいわね、ゆいが忘れ物なんて。てゆうか、辞書なんておいとくもんでしょ?」
「だってテスト前だし。持って帰ってないとお母さんがうるさいんだもん。」
どんな教育ママなんだ、とちらりと振り返って、そこで話をしている女子二人の姿を見た。一人は俊介の隣の席の福永ともう一人は馴染みのない顔。
「あ、ごめん、私も持ってないんだった。」
福永が席を立ちかけて顔をしかめた。
「お姉ちゃんが学校で使うから持って帰ったんだった。」
福永の前でたったままのショートカットの女子がそっか、と気落ちしているのを、俊介は、辞書って兄弟で共有するものなんだろうか、と一人っ子であるが故に想像もつかないと疑問を浮かべた。
「ちょっと、中村!」
突然、傍観者だった俊介を福永が呼んだ。なに、と見慣れないショートカットの女子から福永へと視線を移す。
「ねえ、英和辞書持ってない?」
「持ってるけど。」
「ちょっと、貸してくんない?」
「え、ゆうちゃん、そんな・・・」
立ったままのショートカットの子は、福永の言葉に慌て始めた。きっと見知らぬ人に辞書を借りることを安易にできる女の子ではないのだろう。友達の方はこんなにあっさりと、たまたまそこに居合わせたクラスメートに貸してくれ、と言えるのに。
「いいよ。」
俊介は戸惑っている彼女の言葉を遮るように返事をして、すぐにロッカーへ辞書を取りに行った。分厚いそれを直接ショートカットの子に渡すと、彼女はおろおろしながらも、すみません、と丁寧にお辞儀をした。その時チャイムが鳴って、彼女は何度もお辞儀をしながら、教室を出て行った。
「中村、助かったよ。ありがとね。」
そんな彼女を見送って、福永は俊介に礼を言った。
「別に、辞書くらい。今の子って何組?」
「ゆいはねー5組。中村知らなかった?」
「知らない。」
「井上唯菜って言うの。小学校一緒なんだ。テニス部入っててさ、運動神経もいいし、頭もいいんだよね。テスト前とかよく勉強教えてもらってるんだ。」
福永はなぜか彼女のことを話し始めたが、俊介は止めることもせず、聞いていた。教師がやって来て、福永のおしゃべりが止まった。
5組の井上。テニス部。
俊介の頭にはしっかり福永の言葉がインプットされていた。俊介はサッカー部だ。中学校のテニスコートは学校前の道を挟んだ所にあり、グラウンドとは随分離れている。部室棟の近くで擦れ違ったこともあるのかもしれないが、見覚えないなあ、と俊介は本当に申し訳なさそうにお辞儀をしていた彼女の顔を思い浮かべた。
その授業が終わるとすぐに、彼女は福永の所にやって来た。
「ゆうちゃん。」
その声に俊介は思わず反応しかけたが、振り返るのを堪えた。
「ゆい。あ、辞書ねー。」
福永はそのままこちらに向き直ると俊介の名前を呼んだ。
「なに?」
俊介は半身で彼女達の気配を必死で窺っていたことはひた隠しに、今気付いた、といった風を装って顔を振り向けた。
「これ、ありがとうございました。」
悠里の隣に立った彼女が深々とお辞儀しながら、両手で辞書を差し出していた。その生真面目な様子に俊介は戸惑いながらも辞書を受け取っていた。
「あの、助かりました。」
彼女は顔を上げた。一瞬視線が合ったが、お互いにすぐに逸らせてしまう。
「や、別に。」
「ほんと中村、ありがとねー。」
福永が椅子に座ったまま大きな声を上げた。
「じゃ、わたし次体育だから、行くね。」
その声に思わず目を向けた俊介に、彼女は軽くお辞儀をすると、そのまま教室を出て行ってしまった。呆然と見送っていた俊介に、福永がはーっと大袈裟に溜息を吐いた。
「ゆいったら、辞書なんて次の休みでもいいのにね。体育の前にわざわざ返しに来なくても。」
「きっちりしてるんだな。」
「うん、真面目なのよ。でも喋ると面白いんだよ。人見知りするからあれだけど、慣れてきたら割とポンポン言ってくるし。」
福永は楽しそうに彼女の話をするのだった。クラスでも素行の悪さで目立つ部類に入るだろう福永ときっちりと制服を着こなした彼女はなんとなくそぐわないような気がしたが、彼女の話をする福永の様子を見ている内に、ほんとに仲がいいんだな、と思えてくるのだった。

俊介は部室棟へと引き上げていく集団の後方を歩いていた。一番昼の長い季節とはいえ、さすがに7時を回ると少しずつ夕闇が迫ってきている。
「そんでさ、同じ塾に来たんだよー。チャンスだよな。」
声を潜めてはいたが、矢野雄馬の声は明らかに浮かれていた。俊介はタオルで汗を拭いながら、隣を歩く彼の顔を見上げた。
「元気あるな、お前。」
「そりゃそうだよ!同じ塾だぜ。放課後に見れるなんてなあ。」
雄馬は1年の時に気に入っていたクラスメートの女子とクラスが離れてしまい、始業式にはとんでもなく、落ち込んでいた。その時の様子を思い出した俊介は苦笑いした。
「まあ、よかったじゃん。」
「だろ?あー俺あの塾行っててよかったあ。」
「塾、親に騙されたとか言ってなかったか?」
「ああ、そんなこともあったなあ。」
遠い目をする彼の脇腹を調子いい奴、と軽く肘鉄を食らわした。
「うわ、お前やめろよ。」
痛いというよりはくすぐったいという感覚の方が大きかったようで、彼は大袈裟に身をもだえると、俊介の頭を軽く突いた。
「頭はやめろや。」
俊介は彼の手を払いのけた。
「だってお前ちっさいもん。」
「うっせえ!」
俊介は持っていたタオルで雄馬の背中を叩いた。長身の雄馬が、背の順だと前の方になってしまう俊介をはたこうとすると頭部がちょうどいいらしいが、気にしている俊介にすると腹がたって仕方ない。
いってえ、と立ち止まった雄馬を置いて俊介は足早に歩いた。前の方を歩いていた工藤に追い付く。
「何やってんの、お前ら。」
「別に。」
タオルを首にかけ直して、埃にまみれたスパイクを見下ろした。ここしばらく雨が降っていないせいか、グランドは乾ききっていて、風が吹くと砂埃が舞い上がる。泥まみれよりは随分ましだが、練習を終える頃には全身に土を纏っているような気がしてしまう。
後ろからかけてくる足音がした。
「しゅんすけー、おこんなよー。」
雄馬が話しかけてくるが、とりあえず無視しておく。どうも今日の彼は普段より浮かれているようだし、多少酷い対応をしても平気だろう。部室棟に着くと、先に到着した部員は3年生が着替え終わるのを壁にもたれて待っていた。一部の部員は少し先にある水洗い場まで歩いていく。
俊介も埃っぽい手や顔を洗いたい、とそのまま進んだ。工藤と雄馬も何も言わずに付いてきた。
その時、前から駆けてくる足音がした。その軽快さに俊介は顔を上げた。部員ではないと思ったのだ。案の定、走ってきたのは、制服の女子生徒だった。彼女がラケットを持っていることに気付いたとき、俊介と彼女の目が合った。先日辞書を貸した女生徒だった。お互いに少しはっとしてから、先に、彼女の方がぺこりと会釈した。
「この間は、すみませんでした。」
「あ、いや・・・。」
彼女の丁寧な物言いに、俊介は返事に詰まる。
「あれ、井上じゃん、何してんの?」
その時背後から雄馬の声がして、彼女が顔を上げて、矢野君、と呟いた。
「部室に忘れ物しちゃって。」
「テニスもう終わってるんだな。」
うん、と頷いた彼女は肩にかけたラケットを軽く抱え直すようにすると、ちらりとこっちを見た。目が合って、俊介は、自分が馬鹿みたいに彼女を凝視していたことに気付いた。バツが悪くなって俯く。
「じゃ、みんなに待ってもらってるから、行くね。」
彼女は雄馬に手を振りながら、ちらりと俊介を見て、また軽く会釈をした。俊介は慌てて頭を動かしたが、駆けだした彼女の目に入ったかどうかは微妙だった。
彼女はスカートのポケットから鍵を取り出して部室を開けるとその中に入っていった。
「なに、俊介、井上と何かあった?」
ぼんやり見ていたのが明らかに不審だったのだろう。雄馬がにやつきながら俊介の顔と、彼女の消えた方を交互に見やった。
「こないだ辞書貸した。」
俊介は答えながら、水飲み場へと歩き出した。
「え、辞書?」
「ああ、俺の隣の席の奴と友達で、そいつが持ってなかったら、代わりに貸したの。」
「へえ、俊介君やさしー。」
「普通だろ。」
工藤がぼそりと突っ込んだ。完全にふざけている雄馬に対してまた怒りを感じていた俊介は、工藤の落ち着いた対応を有り難く思った。
「井上ってさ、ああ見えてめっちゃ頭いいんだぜ。5組のトップは間違いなくアイツだよ。」
雄馬は工藤の言葉には反応せずに、嬉しそうに話しだした。そういえば、雄馬は5組だったな、と思い出し、それでさっき、彼女がすんなり話をしていたのだろうと納得する。
「小学校の時も成績よかったよ。」
「あ、そっか、工藤と井上、小学校一緒だよな。ふーん、昔から賢いんだなあ。」
工藤の情報に、雄馬は一人納得して頷いていた。
水飲み場に着くとあいにく、蛇口は一つしか空いていなかった。俊介は、工藤に先を譲った。
勢いよく水の出る音がして、工藤が蛇口の下に頭を突っ込むのを気持ちよさそうだな、と思いつつ見やってから、後ろを向いた。自分の歩いてきた方向から、また彼女が走ってくるのが見えた。やっぱり、男とは足音が違うよな、と思う。
「じゃあな。」
「バイバイ!」
すれ違いざまに雄馬と手を振り合うと、彼女はそのままの速度で体育館の向こう側に消えていった。
「結構、かわいいとおもわね?頭いいのに、ガリ勉って訳でもないし、つんつんしてないしなあ。どうよ?」
雄馬が俊介の方を見下ろした。
「何が。」
「なにって、井上。彼氏いねえよ、あいつ。ちっちゃいし俊介にぴったりじゃん。」
含み笑いで見下ろされるのが何とも癪に触って、俊介は思いっきり睨み上げた。さりげなく水の順番を工藤に譲って、戻ってくる彼女の姿を見たいと咄嗟に考えたのがばれたのか、という焦りもあいまって、余計に態度が悪くなった。
「ばっかじゃねーの。」
「いやいや、目当ての子がいるっていいよー。人生に張りが出るというかさ。俺だってさ、毎日が楽しいってゆうかな。」
俊介の怒気を全く意に介していないのか、雄馬は肩にかけたタオルの両端を持って、やに下がった顔で暗くなり始めた空を見上げた。
「そうですか。」
ほんとにこいつは始業式のあの落ち込みを忘れてしまったのかよ、と呆れるばかりだった。
それから、ふと井上の身長は確かに自分よりもかなり低かったなあ、と向かい合ったときの目線を思い出しかけたが、慌てて自分の考えたことを打ち消した。確かに彼女は女子でも背の低い方なのだろうが、それを言うなら、隣の席の福永も彼女と同じくらいの背だ。特別どうということもない。
工藤が顔を洗い終わり、譲ってくれた場所で、俊介は彼と同じように頭から水をかぶった。ほとんど坊主に近いような髪型だ。一番長い前髪でも10pあるかないかのものだから、濡らしても少しタオルで拭けば5分後には乾いている。
頭全体を濡らしてから、手で顔を洗った。髪の毛から流れ落ちた滴がそのまま背中を伝っていくのさえ、火照った体には気持ちよかった。
俊介が、井上を見送るときに、手を振ればよかったなあ、と思ったのは、洗い終わった顔を上げたときだった。

<2011.6.30>